第14話 鋼鉄の休息と、重油の儀式
エンジンが止まると、世界は耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
俺たちは、昨夜の戦線を数キロ下げた予備集結地点で、ようやく「軍馬」の足を止めた。ハッチを開けた瞬間、流れ込んできたのは冷たいロシアの夜気と、混じり気のない草の匂い。
だが、安堵は一瞬だった。
「ステファン、ハンス! 休む前に補給と点検だ。ボルトの緩みを確認しろ。明日も動きたいならな」
ベルント曹長の号令で、鉛のように重い体を引きずり外へ出る。
月明かりの下、俺たちの四号戦車G型は無残な姿を晒していた。右のフェンダーは根こそぎ消失し、予備履帯の固定金具は衝撃でひしゃげている。
そこへ、地響きと共に巨大な影が近づいてきた。
牽引され、片方の履帯を失ったまま戻ってきた、あのティーガーI『三一二号車』だ。
「……あんたらか。あの泥沼で、俺たちの尻を引いてくれたのは」
ティーガーの車長、キルヒャーが這い出してきた。彼は俺たちの四号戦車の前に立つと、まじまじとその「細い」足回りを見つめ、がっしりと俺の肩を叩いた。
「いい度胸だ、新兵。感謝する、あんたらがいなきゃ今頃は藻屑だった。……だが、その空っぽの弾薬庫じゃ明日は戦えんぞ」
その言葉を待っていたかのように、後方の暗闇から数台の三トントラックが、泥を跳ね上げながら猛スピードで突っ込んできた。
「弾薬補給だ! 七十五ミリと八十八ミリ、どっちも積んでいるぞ!」
飛び出してきた補給兵たちの声に、俺たちは歓喜した。これこそが、最前線が待ち望んでいた「命の源」だ。
「ステファン、やるぞ! 一発も無駄にするな!」
ここからが、装填手にとっての「第二の戦場」だった。
トラックの荷台から降ろされる木箱を、ルディと二人で受け取る。中には、グリスに塗られた鈍い銀光を放つ**7.5cm KwK 40 L/43専用の徹甲弾(Pzgr 39)**がぎっしりと詰まっていた。
一発約十キロ。これを車外からハッチへ、そして車内の狭いラックへと、手際よく放り込んでいく。
(……重い。43口径とはいえ、この鉄塊が時速七百メートル以上の速度で敵を貫くんだ)
デリカミニの荷室にキャンプ道具を積み込んでいたのとは、訳が違う。信管に衝撃を与えないよう慎重に、かつ電光石火のスピードで、八十七発の定数を満たしていく。
積み込みを終えると、次はメカのメンテナンスだ。
俺はティーガー隊から借りた巨大なトルクレンチを使い、負荷がかかったリーフスプリングのボルトを締め直していく。
「ステファン、この転輪のゴムタイア……熱で剥離(セパレーション)しかけてるな」
オットーが懐中電灯で照らす。俺はすぐさま車載ジャッキを噛ませ、重い転輪の交換作業に入った。
マイバッハHL120TRMのエンジンハッチも開ける。12気筒、265馬力の心臓部。キャブレターに吸い込まれたロシアの細かい砂塵を、ガソリンを浸した布で丁寧に拭き取る。
現代のエンジンに比べれば無骨だが、その分、メカニズムは正直だ。オイルの焦げた匂い、冷却水の甘い香り……。指先から伝わる振動で、不調の予兆を探る。
「……おい、この新兵、マイバッハのクセを分かってやがる」
ティーガーの整備兵が感心したように覗き込んできた。
「ただ、愛着があるだけですよ。こいつも俺たちを運んでくれる『家族』ですから」
夜明け前。
作業を終えた俺の顔は、重油と煤、それと鉄錆が混じった黒い仮面になっていた。
キルヒャーが最後にもう一度、熱い代用コーヒーを俺に手渡してくれた。
「……いいか、ステファン。戦車は砲だけで勝つんじゃない。『整備された足』で勝つんだ。……次に会う時は、ベルリンのパレードだ。それまで、その軍馬を潰すなよ」
「……はい。必ず」
地平線が、薄い紫からオレンジ色に変わり始める。
整備されたばかりのエンジンが、野太く、力強いアイドリングを刻み始めた。
俺は再び、狭くて暗い、けれど今は世界で一番信頼できる装填手席へと滑り込んだ。
クルスクの地獄、二日目の幕が上がろうとしていた。
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