第13話 軍馬、怪物を曳(ひ)く
「繋がったッ! オットーさん、引けッ、引けぇぇぇ!!」
指先の感覚はもうなかった。
泥まみれの震える手で、ティーガーIの重厚な牽引フックに鋼鉄のワイヤーを叩き込み、俺は喉が裂けるほどの絶叫を上げた。
耳元をかすめるのは、ソ連兵が放つ機銃弾の火花だ。
泥濘(ぬかるみ)を這う俺の頭上で、鉄錆と硝煙の混じった熱風が吹き荒れる。
だが、恐怖よりも、心臓の鼓動が耳を打つドラムの音の方が遥かに大きかった。
俺は泥を蹴り、自分の四号戦車のハッチへと、獣のような動きで飛び戻った。
『……ステファン、戻ったな! 全員ハッチ閉鎖! オットー、やれッ!!』
ベルント曹長の号令。
直後、我が四号戦車のマイバッハ・エンジンが、かつてない悲鳴に近い咆哮を上げた。
ガガガガガガッ!! ズズズ、ズズゥッ!!
履帯が泥を空高く跳ね上げ、二十五トンの車体が激しく左右にのたうち回る。
俺たちの「軍馬」が、地雷で片足を奪われ、泥に深く沈み込んだ五十七トンの怪物を動かそうとする――それは物理法則を真っ向から否定するような、無謀な挑戦だった。
「ダメだ、重すぎる! クラッチが焼けるぞ! 履帯が沈むだけだ!!」
オットーの悲鳴。
だが、俺は知っていた。
平和な日本で、デリカミニを駆って泥濘を脱出する時に必要なのは、力任せの回転ではない。
大地と対話し、重力の「節(ふし)」を見つけることだ。
「オットーさん、回転を上げすぎないで! 一度緩めて、車体の揺れに合わせて……今だ、一速(ロー)で、じわじわとトルクを乗せて!」
俺の声が、戦闘室を埋め尽くすエンジンの爆音を突き抜ける。
ギュゥゥゥゥゥ……、ギチギチギチッ!!
鋼鉄のワイヤーが、千切れんばかりにピンと張り詰める。
車体全体が、ひしゃげるような歪みの音を立てた。
ズズッ……。
動いた。
泥に固着し、死を待つだけだったティーガーの巨躯が、四号戦車の必死の牽引に応え、数センチ、また数センチとその向きを変え始めた。
『……おい、見てろ、回ってるぞ! 死神の砲身が回り出した!』
無線手ハンスが歓喜の声を上げる。
俺たちはティーガーの尻を支点にして、自らもエンジンを唸らせながら円を描く。
それは、鋼鉄の巨獣たちが泥の中で手を取り合う、奇妙で、そして気高いダンスだった。
そして、ついに。
夕闇の草原。
迫り来る新型T-34/85の先行量産型群の真っ正面に、ティーガーの、あの絶望的なまでに太い「八十八ミリ」の砲口が、冷徹な一線を描いて据えられた。
『……こちらティーガー、三一二号車。四号戦車の諸君、恩にきる。……あとは、我々がケリをつける!』
無線機に飛び込んできた、戦い慣れた男たちの野太い笑い声。
――ズドォォォォォォォォォォォォォォォン!!
四号戦車の主砲とは、次元の違う爆鳴。
大気が一瞬で真空になり、鼓膜が震える。
放たれた重厚な徹甲弾は、先行量産型の正面装甲を、まるで見えない巨人の拳で叩き潰すかのように一撃で、木っ端微塵に粉砕した。
次々に放たれる、八十八ミリの死の審判。
俺たちの四号戦車は、その巨躯の影にぴったりと寄り添い、泥を掻き分けながら、動けないはずの「砲台」を支え続けた。
「……やった。……やったんだ、俺たち」
俺は空になった砲弾ラックを背に、震える手で膝を叩いた。
二十五トンの軍馬と、五十七トンの怪物。
本来なら「主役」と「脇役」に分かれるはずの二両が、今、この泥濘の中で一つの生命体となって、最強の布陣を敷いていた。
「ステファン。……お前、最高の装填手(ローダー)だと思ってたが……」
ルディが照準器から目を離し、汗と煤で真っ黒になった顔でこちらを振り返った。
「最高の『戦車兵』だな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の目から熱いものが溢れ出した。
硝煙と泥の匂い。
血の臭いと、重油の熱。
ここは地獄の最前線だ。
けれど、この「鉄の箱」の中にあるものは、かつての平和な世界でも感じたことのない、魂を震わせるような熱い連帯だった。
「……さあ、みんなでベルリンまで帰るんだろ。……次は何をすればいいですか、曹長!!」
俺の叫びに、仲間たちが泥まみれの顔で笑い、我が軍馬は再び誇らしげに咆哮を上げた。
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