第9話 泥濘の轍(わだち)
戦況は、最悪の一歩手前まで追い詰められていた。
前方の平原を突き進み、敵の砲火を一身に浴びていたはずの重戦車ティーガー。
無敵と思われたその巨躯が、巧妙に隠された対戦車地雷によって、左の履帯を無残に引き千切られ、立ち往生していた。
盾が止まった。
それは、後続の俺たち四号戦車が、ソ連軍の『パックフロント(対戦車陣地)』が形成する、幾重にも重なった火網の真っ正面に曝け出されたことを意味していた。
――ガキィィィィィィィィン!!
車体のすぐ数センチ横を、ソ連軍の七十六ミリ砲弾が凄まじい衝撃波を伴って掠めていく。
装甲板を叩くその凄まじい風圧だけで、戦闘室の内壁の塗装が、まるで剥がれ落ちる鱗のようにパラパラと俺の肩に降り注いだ。
「……クソッ! これ以上前に出られん! このままじゃ、動けないティーガーごと一両ずつ、マトにされるぞ!」
操縦手オットーが、喉の奥から絞り出すように叫ぶ。
前方には、土盛りに隠された無数の対戦車砲。
右は、ティーガーを仕留めた死の地雷原。
そして左は、降り続いた雨で「底なしの沼」と化した、深いぬかるみが広がる湿地帯だ。
(……待てよ。左の、あの湿地……)
俺は狭いスリットに目を押し当て、必死に地表の「色」を読み取ろうとした。
かつて、平和な日本で週末を過ごしていた頃。
愛車を駆って、河川敷の未舗装路や、誰も踏み込まないような泥道を走り抜けていた時の感覚。
どこにタイヤを置けばトラクションがかかり、どこの草の色が「硬い地盤」を示しているのか。
メカニズムを愛し、大地と対話してきた男としての直感が、戦場の狂気の中で鮮やかに閃いた。
「オットーさん! 左だ、左の湿地帯に突っ込んでください!」
『……ステファン、正気か!? あそこは底なしだぞ! 二十五トンの四号戦車を突っ込ませたら、亀の子(スタック)になって泥の棺桶だ!』
「違います! あそこの葦(あし)の生え方を見てください。あそこだけ、周囲よりわずかに茶色い……あそこにはかつての古道が埋まってます! 四号の履帯幅(プレッシャー)なら、沈まずにトラクションを稼げるはずだ!」
一瞬、戦闘室の中に張り詰めた迷いが走る。
だが、前方からはティーガーを包囲しようとする無慈悲な砲弾が、絶え間なく降り注いでいた。
「……ステファンの鼻を信じろ! オットー、面舵いっぱいだ! 馬力を絞り出せ!!」
車長ベルントの覚悟を決めた怒号。
オットーが咆哮を上げ、操行レバーを全力で倒した。
ガガガガガッ! ズズ、ズズズゥゥゥッ……!
四号戦車が、地獄の湿地帯へとその鼻先を突っ込んだ。
窓を叩くのは雨ではない。ドス黒い泥飛沫が潜望鏡を覆い、車体は激しく左へ傾く。
エンジンの回転数が跳ね上がり、車体全体が悲鳴のような振動に包まれる。
「……行け! そのまま、そのラインを外さないで!」
俺は無線越しに、祈るような、あるいは命令するような絶叫を上げていた。
重すぎるティーガーでは沈み、軽すぎる車両では跳ね飛ばされる。
四号戦車という「軍馬」の絶妙な重量と、俺が読み切った「埋もれた古道」が、奇跡の轍を描き出していく。
パックフロントのソ連兵たちが、慌てて砲身を左へと回し始めた。
だが、ぬかるみを猛スピードで、うねるように駆け抜ける俺たちを、彼らの照準器は捉えきれない。
「……抜けたッ! パックフロントの真横だ! 脇腹を晒してやがる!」
無線手ハンスの声が歓喜に裏返った。
湿地を最短距離で踏破し、敵陣の側面――最も装甲が薄く、防御の想定されていない「真横」を、俺たちの七十五ミリ砲が完璧に捉えた。
「ステファン、榴弾(Spgr)だ! あの大砲どもを、根こそぎひっくり返してやる!」
「了解(ヤーヴォール)!!」
俺は九キロの鉄塊を、最高の気分で、そして機械のように正確な動作で、熱せられた閉鎖機へ叩き込んだ。
ガシュッ!
「装填……完了!!」
ドォォォォォォォォォン!!
至近距離から放たれた榴弾が、ソ連軍の対戦車砲を、防盾ごと空中に木っ端微塵に吹き飛ばした。
「……ははっ、見たか! これが俺たちの、軍馬の走りだ!」
オットーが狂喜の声を上げ、四号戦車はさらに深く敵陣へと食い込んでいく。
俺は硝煙の中で、荒い呼吸を整えながら、次の弾丸に手をかけた。
かつての平和な知識。大地を読み、機械を信じる心が、この血生臭い鉄の箱の中で初めて、俺に「生きるための希望」を教えてくれた。
だが、これはまだ、クルスクという広大な地獄に咲いた、最初の一火花に過ぎなかった。
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