第8話 軍馬の視界
一九四三年、七月五日。早朝。
地平線を真っ白に染め上げた味方数千門の重砲撃が止み、一瞬、耳が痛くなるような静錠が訪れた。
だが、それは安らぎではない。
すべてを鉄と火で焼き尽くす、史上最大の決戦『チタデレ作戦』の幕開けを告げる、死の静寂だった。
「前進開始! 重戦車大隊に遅れるな! 『軍馬』の底力を見せてやれ!」
車長ベルント曹長の鋭い声が、無線機を通じて脳内に響く。
装填手ハッチのスリットから俺が見た光景は、まさに圧巻の一言だった。
前方の草原を埋め尽くすのは、垂直装甲の怪物――重戦車ティーガーIの巨大な群れだ。
彼らがその圧倒的な装甲で敵の砲弾を弾き飛ばし、正面からソ連軍の堅固な陣地『パックフロント』をこじ開ける「矛」となる。
俺たち四号戦車は、その「開いた穴」を維持し、側面を守りながら進む随伴に過ぎない。
(……ティーガーはいいよな。あんな分厚い鉄板に守られて……)
俺は狭い装填手席で、冷たい脂汗を流していた。
我が四号戦車G型の前面装甲は八十ミリ。だが、側面はわずか三十ミリしかない。
対戦車砲にかかれば、文字通り紙細工のように貫かれ、中の俺たちは一瞬で肉片と化す。
かつて暮らした平和な日本の、あの柔らかなシート。静かなエンジン音。
ボディがどれほど薄くても、ただの一度も「死」を意識することなどなかったあの日常。
だが、この戦場では、鉄板数ミリの差が「生」と「死」を分かつ絶対的な絶壁だ。
――ドォォォォォン!!
前方のティーガーが、八十八ミリ主砲をぶっ放した。
空気が爆ぜ、その余波が俺たちの車体まで揺らす。
直後、前方の林が火柱を上げて吹き飛び、隠れていたソ連軍の対戦車砲が、折れた材木のように空中に舞うのが見えた。
だが、敵も黙ってはいない。
――キィィィィィィィィィン!!
大気を切り裂く高周波のような飛翔音。
次の瞬間、俺たちの車体右側で地響きがし、猛烈な泥と火花が跳ね上がった。
「……正面、対戦車陣地(パックフロント)! ティーガーが引き付けてる間に、我々は右の窪地を抜けるぞ! オットー、全力だ!」
ベルントの指示と共に、オットーがレバーを力任せに引き、四号戦車が猛烈に右へ旋回する。
「ステファン! 次だ! 榴弾(Spgr)だ! ティーガーが見落とした対戦車砲を、片っ端から潰していくぞ!」
「……了解(ヤーヴォール)!!」
俺は九キロの鉄塊を、必死に、文字通り命懸けでラックから引き抜いた。
激しく上下左右に揺れる車内。
閉鎖機が咆哮するたびに、戦闘室は耐え難い熱気と硝煙で埋め尽くされていく。
ティーガーのような「無敵の盾」はない。
パンターのような「無慈悲な槍」でもない。
俺たちは、ただの四号戦車。
この地獄を、泥にまみれて這い回る「軍馬」だ。
ガシュッ!
薬室に滑り込む砲弾。閉鎖機の冷徹なロック音。
「装填……完了ッ!!」
叫ぶ俺の喉は、火薬の煙でヒリついている。
(……当たるなよ。……頼むから、俺たちの『薄い皮』を撃ち抜かないでくれ……!)
砂埃の向こうから、無数の砲身が俺たちを狙っている。
俺は二発目の弾丸に手をかけながら、もう聞こえないはずの、あの穏やかな世界を心のどこかで必死に探していた。
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