第7話 夜明けの残骸
ロシアの夜明けは、すべてを青白く、そして残酷に照らし出した。
地平線から這い上がる薄い光が、昨日まで名もなき平原だった場所を、無残な「鉄の墓場」へと変えていく。
俺たちの四号戦車は、昨夜撃破したT-34の残骸の横を、重い排気音を響かせながらゆっくりと通り過ぎようとしていた。
(……これが、俺の込めた一発の結末か)
装填手ハッチから身を乗り出した俺の目に飛び込んできたのは、無残にひっくり返り、内部の弾薬が誘爆して「脱帽」した――砲塔が吹き飛んだ――鉄の死骸だった。
つい数時間前まで、あの熱い鉄の箱の中にも、俺たちと同じように誰かが座っていたのだ。
エンジンの不調に毒づき、凍える夜に震え、代用コーヒーのわずかな甘みに顔を綻ばせていたはずの人間が。
車体の傍らには、泥にまみれた戦車兵の帽子がひとつ、寂しげに転がっている。
そのすぐ横で、焼け焦げた紙切れが風に震えていた。
……写真だろうか。
俺は思わず目を逸らし、胃の奥からせり上がる酸っぱいものを飲み込んだ。
デリカミニの洗車をしていた頃、俺の悩みなんて「鳥のフンがついた」とか、「雨が降ってきた」とか、その程度のものだった。
ここでは、俺が一発の砲弾を「装填(ラーデン)」することが、誰かの人生のすべてを一瞬で無に帰すことを意味している。
「ステファン、見るな。……それが、この平原の『普通』だ」
いつの間にか隣に身を乗り出していたルディが、冷たく、だがどこか慈しむような声で言った。
その瞳は、何度も見てきた光景に、もはや揺らぐことさえなかった。
部隊は一度、指定された集結地点へと引き返した。
そこには、これまで俺が博物館や写真集でしか見たことのない、圧倒的な数の「鉄の軍勢」がひしめき合っていた。
四号戦車だけではない。
垂直装甲を纏った重厚な怪物、ティーガーI。
豹のようなしなやかさを持つ新型、パンター。
歴史の教科書に刻まれた「ドイツ機甲師団」の精鋭たちが、地平線を埋め尽くさんばかりに、その牙を研いでいた。
殺伐とした熱気が支配する中、車長のベルントが中隊本部から戻ってきた。
その手には、泥で汚れた一枚の作戦地図が握られている。
「……全員、聞け。いよいよ、あの『命令』が下った」
ベルントの声は、驚くほど静かだった。
だが、その奥には、逃れられない運命への覚悟が滲んでいる。
「作戦名は『チタデレ(城塞)』。目標、クルスク突出部の切断」
周囲の兵士たちが、どよめきに似た低い歓声を上げる。
だが、歴史という結末を知っている俺の心臓は、泥濘(ぬかるみ)に沈んだように冷たくなっていた。
(……始まった。史上最大の戦車戦。……そして、ドイツ軍にとっての、終わりの始まりが)
ベルントが地図を広げ、俺たち五人を一人ずつ指し示す。
「我が小隊は、軍の最右翼を担当する。……いいか、この戦いで我々は勝つ。勝って、全員で生きてベルリンへ帰るぞ。いいな!」
「ハイル!」と喉を震わせるハンスやオットーの声に、俺も必死に自分を偽って声を合わせた。
嘘でもいいから、今はその言葉に縋(すが)りたかった。
俺は自分の席に戻り、まだ昨夜の熱が微かに残っている七十五ミリ砲の閉鎖機に触れた。
デリカのハンドルを握っていたこの手は、今や一発の砲弾の重みに、俺たち五人の、そして見知らぬ誰かの全運命を託そうとしている。
「……ステファン。怖いか?」
ルディが、珍しく優しく問いかけてきた。
「……死ぬほど、怖いです」
「それでいい。……臆病な奴ほど、いざという時に鼻が利く。……生きて帰るぞ、ステファン」
ルディはそう言うと、愛用の照準器を、まるで壊れ物を扱うように丁寧に、丁寧に拭き始めた。
1943年7月。
ロシアの地平線の向こうから、すべてを焼き尽くす運命の太陽が昇ろうとしていた。
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