第6話 最初の火花
戦闘室の中は、肌を焼くような熱気に満ちているのに、指先だけは氷のように冷たかった。
アイドリングの不規則な振動が、俺の心臓の鼓動と嫌なリズムで重なる。
ハッチを閉め切った車内は、完全な暗闇ではない。
スリットから漏れる微かな月光と、計器類が放つぼんやりとした光。
そして、隣に座る砲手ルディが覗き込む照準器の、青白い反射。
「……ステファン。徹甲弾(Pzgr)だ。……一番いいやつを頼むぞ」
ルディの低く、押し殺したような声。
俺は暗闇の中、手探りでラックのロックを外した。
指先に触れる、徹甲弾の冷たく鋭利な先端。
一発、約九キロ。
デリカミニのタイヤ交換で持つホイール付きタイヤよりもずっと重く、そして「殺意」が凝縮されたその質量が、俺の腕にズシリと沈み込む。
「装填(ラーデン)……完了!」
ガシュッ!
硬質な金属音と共に、水平閉鎖機が獲物を噛み砕くような勢いで閉じる。
『……敵戦車、距離八百。……七百。……止まれ!』
無線越しに、車長ベルント曹長の鋭い号令。
ガクンッ、と前のめりに車体が揺れて停止する。
装填手の俺には、外で何が起きているか全く見えない。
見えるのは、鼻先で沈黙する巨大な砲尾(ブリーチ)と、微塵も震えていないルディの背中だけだ。
この数トンの鋼鉄の塊が、次の瞬間に猛然と襲いかかってくる。
『……撃てッ!!』
――ドォォォォォォォォォン!!
鼓膜を直接、巨大なハンマーで叩き割られたような衝撃。
凄まじい「後退(リコイル)」だ。
主砲の尾部が、猛烈な速度で俺の数センチ横を駆け抜けた。
バシッ、と顔を叩く風圧と、鼻を突く強烈な火薬の燃焼臭。
直後、自動的に開いた閉鎖機から、真っ赤に熱せられた薬莢が蹴り出された。
キンッ、ガシャンッ!
足元の床で薬莢が跳ね、戦闘室に火薬の白煙が、まるで生き物のように立ち込める。
(……なんだこれ。……耳が、何も聞こえない!)
キィィィィィン、という耳鳴りの中、一瞬の静寂。
ハッチの隙間から、遠い暗闇の先で小さな「火花」が散るのが見えた。
『跳弾(アブプララー)だ! 浅い! 弾かれたぞ! 次弾、急げッ!!』
ベルントの怒号が、死の宣告のように響く。
敵は生きている。
そして、あっちも今、俺たちを殺すために砲弾を込めているはずだ。
ビビっている暇なんて、一秒もない。
「……くそっ、死ねるかぁぁぁぁぁ!!」
俺は叫びながら、二発目の徹甲弾をラックからひったくった。
腰を入れろ。
指を挟むな。
デリカのメンテナンスで培った指先の感覚を、今は「殺し合い」のために総動員する。
重い砲弾を薬室へ叩き込む。
「装填(ラーデン)ッ!!」
『……今度こそ……地獄へ落ちろ!』
ルディが叫び、再び世界が爆発した。
――ドォォォォォォォォォン!!
二度目の閃光。
車内が真っ白に染まる。
……数秒後。
地平線の向こうで、巨大な、本当に巨大な火柱が夜空を焦がした。
T-34の燃料タンクか、それとも弾薬庫が誘爆したのだ。
闇を赤々と不気味に照らすその炎を見て、俺は自分が呼吸を止めていたことに、ようやく気づいた。
肺が痛い。
「……やったのか?」
膝の震えが、今になって止まらなくなった。
自分が込めた九キロの鉄塊が、どこかの誰かの命と、家族への想いを、一瞬で消し飛ばした。
その残酷な事実への罪悪感よりも先に、俺の全身を支配したのは――。
「生き延びた」という、吐き気がするほど生々しい歓喜だった。
「ステファン、いい装填だった。……タイミングも、速さも完璧だ」
ルディが初めて、照準器から目を離して俺を振り返った。
硝煙に汚れ、真っ黒になった彼の顔。
その奥の瞳が、少しだけ笑ったような気がした。
「……次、来ますか?」
俺は、震える声で尋ねた。
「ああ。まだ夜は長い。……三発目、用意しておけ」
俺は返事をする代わりに、再び重い砲弾に手をかけた。
平和な日本に戻れる保証なんて、どこにもない。
けれど、この鉄の箱の中で、この「普通の人々」と共に戦う理由だけは、見つけた気がした。
俺は再び、狭くて熱い装填手席へと深く腰を下ろした。
次の獲物を探す『軍馬』の唸りが、戦闘室を揺らし続けていた。
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