第5話 焚き火とジャムと、遠い夢

ロシアの夜は、驚くほど急激に、そして深く冷え込んだ。

 

 日中の照りつけるような陽光が嘘のように、平原を渡る風は肌を刺すほど冷たい。

 

 俺たちは四号戦車の巨体を、小さな集落の焼け残った納屋の影に滑り込ませ、束の間の休息に入っていた。

 

 

 パチッ、パチパチッ。

 

 乾燥した木切れが爆ぜる音が、静寂の中に響く。

 

 小さな焚き火を囲み、俺たちはそれぞれの「日常」を噛み締めていた。

 

 本物のコーヒーなんてものは、もうとっくに贅沢品だ。

 飯盒(メスティン)で沸かしているのは、大麦を煎った代用コーヒー。

 

 焦げ臭いだけのその液体に、配給されたわずかなジャムを落とす。

 

 

「……甘いな」

 

 

 隣で無線手のハンスが、大切そうにカップを両手で包み込みながら呟いた。

 

 彼はまだ十八歳。

 本来なら、故郷で学校に通い、デリカミニのような可愛い車に憧れていてもおかしくない年齢だ。

 

「ステファン。お前、さっきの整備の時、すごい顔してたぞ。まるでお気に入りの宝物を修理してるみたいだった」

 

 

 ハンスが、焚き火の光に顔を赤く染めながら笑いかけてくる。

 

「……ああ。機械ってのは、正直だからな。手をかければ応えてくれるし、放っておけば臍(へそ)を曲げる。……俺のいた場所じゃ、みんなそうやって車を愛してたんだ」

 

 

 俺はそう答えながら、真っ黒に汚れた自分の手を見つめた。

 

 かつてデリカを洗車し、ワックスをかけていた時の記憶が、遠い前世のことのように思い出される。

 あの時は、車が汚れることさえ嫌だった。

 

 今は、泥と油にまみれることが、生き残るための唯一の儀式になっている。

 

 

「俺さ、戦争が終わったら、親父の農場を継ぐんだ」

 

 

 ハンスが、不意に遠くを見つめて言った。

 

「トラクターを新しくしてさ、もっと効率よく麦を作りたい。……あんな重い四号戦車を動かせるんだ。トラクターなんて、おもちゃみたいなもんだろ?」

 

 

 そんな「普通」の夢。

 

 砲手のルディは黙ってナイフでパンを削り、車長のベルントは、ポケットから取り出した家族の写真を、焚き火の光でそっと眺めている。

 

 ここにいるのは、英雄じゃない。

 

 どこにでもいる、家に帰りたがっている、普通の人たちだ。

 

 

(……この人たちを、死なせたくないな)

 

 

 俺は、代用コーヒーの苦みを喉に流し込んだ。

 

 歴史を知っていることが、胸を締め付ける。

 この後のクルスクで、どれほど多くの「普通の夢」が、鉄の残骸と共に平原に埋もれることになるのか。

 

 

 その時だった。

 

 

 ……ドォォォォォ、ォォ……。

 

 

 風の音に混じって、地平線の向こうから重苦しい地鳴りが届いた。

 

 

「……聞いたか?」

 

 

 ルディが、パンを削る手を止めた。

 

 俺の耳が、再びあの「囁き」を捉える。

 

 それはマイバッハの鋭い咆哮ではない。

 もっと低く、もっと粘り強い、野獣の足音。

 

 

「……ディーゼルエンジンだ。……T-34」

 

 

 俺が震える声で呟くと、焚き火を囲む空気が一瞬で凍りついた。

 

 ベルントが即座に立ち上がり、写真をポケットにねじ込む。

 

「火を消せ! 全員、持ち場へ! 『軍馬』を起こせ!」

 

 

 温かかった焚き火が、泥に踏みつけられて消えていく。

 

 夜の暗闇が、再び俺たちを飲み込んだ。

 

 

「オットー、始動だ! 急げ!」

 

 

 ベルントの指示が飛ぶが、オットーの顔は険しい。

 

「無茶言うな! この冷え込みだ、油が固まってやがる。いきなり回したらエンジンが死ぬぞ!」

 

 

 現代の車なら、ボタン一つでアイドリングが始まる。

 だが、この四号戦車は違う。

 

 冷え切った十二気筒エンジンを動かすには、本来なら温めた冷却水を注入するか、外部からクランクを回してやる必要がある。

 

 

「……ステファン、ハンス! 外へ出ろ、慣性始動(イナーシャ)だ! 回せ!」

 

 

 俺たちは車体後部に飛び出した。

 

 始動用ハンドルを差し込み、力任せに回す。

 重い。

 デリカのハンドルとは比較にならない、鋼鉄の抵抗。

 

 

 キュル……キュルルル……。

 

 

 体中の筋肉が悲鳴を上げる。

 ハンスと二人、交互に全体重をかけてフライホイールを回し、回転数を上げていく。

 

 地平線の向こうでは、ディーゼル音の主が確実に近づいていた。

 

 

「もっとだ! 回せ、死にたくなかったら回せ!」

 

 

 心臓が破裂しそうになったその時、車内のオットーがクラッチを繋いだ。

 

 

 ドガァァァァァァァン!

 

 

 マフラーから大きな火柱が上がり、暗闇を切り裂く。

 

 

 マイバッハが、不機嫌な咆哮を上げながら目覚めた。

 

 だが、まだ動けない。

 油温が上がるまで、エンジンを労りながら回転を維持しなければならない。

 

 

「……来るぞ」

 

 

 暗闇の中、ルディが砲塔を回し始めた。

 

 俺は暗闇の中、手探りで四号戦車のハッチへと駆け戻り、自分の定位置へと潜り込んだ。

 

 冷たい鋼鉄の感触。

 まだ十分に暖まっていないエンジンの、不安定な振動がシートを通じて伝わってくる。

 

 俺は震える手で、最初の七十五ミリ徹甲弾をラックから引き抜いた。

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