第4話 鉄の囁き

ガシュッ、ガシュッ、ガシュッ……。

 

 無限軌道(履帯)が湿った大地を噛み砕き、転輪が上下するたびに、戦闘室には不規則な金属音が反響する。

 

 行軍開始から、もう数時間が経過していただろうか。

 最初は心臓を直接掴まれるようだったマイバッハ・エンジンの爆音にも、耳が少しずつ慣れ始めていた頃だ。

 

 だが、俺の耳は、ある「違和感」を捉えていた。

(……なんだ? 今の音)

 デリカミニに乗っていた頃もそうだった。

 カーステレオを消し、エアコンの風量を下げてまで耳を澄ませる、あの瞬間。

 

 わずかな足回りの異音、あるいはエンジンのタペット音の乱れ。

 機械が致命的な悲鳴を上げる一歩手前の、ごく微かな「囁き」に、俺の神経は妙に敏感だった。

 キィィィ……、という、金属同士が潤滑を失って擦れるような、高く、細い嫌な音。

 

 俺は四号戦車の「弱点」を、オタク知識として熟知していた。

 短砲身から長砲身へ、装甲は30ミリから80ミリへ。

 度重なる改良で膨れ上がった車重は、設計当初の想定を遥かに超え、足回りには常に限界に近い負担がかかっているのだ。

 

 特に、このG型以降の足回りは、悲鳴を上げ続けていると言ってもいい。

「……オットーさん! 止まってください! ブレーキだ!」

 俺は思わず、喉当てマイク(ミクロフォン)に向かって叫んでいた。

 

 ヘッドフォン越しに、操縦手オットーの困惑した声が、ノイズと共に返ってくる。

『……どうした、ステファン? 急に大声を出すな。敵影か? 対戦車砲か!?』

「違います! 左の第三転輪あたりから変な音がします! 履帯の連結ピンが抜けかかっているか、ハブの焼き付きです!」

 一瞬、車内に沈黙が流れた。

 

 狭い通路を挟んで隣に座る砲手のルディが、怪訝そうな顔で俺を振り返る。

 潜望鏡(ペリスコープ)から目を離した彼の瞳には、「こいつは何を言っているんだ」という不信感が露骨に浮かんでいた。

 

『……ステファン。この狂ったような騒音の中で、そんな音が聞こえるはずがないだろう。新兵の幻聴か?』

「聞こえます! デリカのベアリングが死にかけた時と同じ音だ……! このまま走ったら、次の曲がり角で左の履帯が外れますよ! そうなったら、この泥の中で一晩中、履帯の嵌め直しですよ!」

 「履帯の嵌め直し」という不吉な言葉に、車長ベルント曹長の反応が変わった。

 

 この泥濘が続く東部戦線で、二十五トンの鉄塊の足回りを修理することが、どれほどの地獄か。

 ベテランである彼らは、嫌というほど骨身に沁みて知っているからだ。

「……オットー、停車だ。点検する。ステファン、お前の耳を信じてやる」

 ガクンッ、という大きな揺れと共に、四号戦車の巨体が停止した。

 

 俺たちは装填手ハッチを蹴り開け、外の世界へ飛び出した。

 車内の重油臭い熱気とは対照的な、ひんやりとしたロシアの風が、汗ばんだ頬に心地よい。

 

 俺は真っ先に左側の足回りに駆け寄り、膝を泥に突いて、転輪の隙間を覗き込んだ。

「……やっぱり。これだ、見てください」

 俺が指差した先。

 第三転輪のゴムタイヤが異常に熱を持ち、そこから細い煙が立ち上っていた。

 さらに最悪なことに、履帯の連結板を繋ぐ鉄のピン一本が、激しい振動によって外側に五センチも突き出していた。

 あと数百メートル。いや、ほんの数十メートルも走れば、ピンが完全に脱落していた。

 そうなれば、履帯は蛇のように地面にのたうち、俺たちの『軍馬』は戦う前にただの鉄屑へ成り果てていただろう。

「……おいおい、嘘だろ。本当にピンが抜けてやがる」

 ハッチから這い出してきたオットーが、その場にしゃがみ込み、信じられないものを見るような目で俺を見た。

 

「予備のピンと、一番デカいハンマーを! 今のうちなら、叩き込むだけで済みます!」

 俺が声を上げると、いつもは皮肉屋のルディが、何も言わずに車体後部の工具箱へ走り、重いハンマーを持ってきた。

 キンッ! キンッ! キンッ!

 

 静寂に近いロシアの原野に、硬質な金属音が響き渡る。

 

 作業を終えたルディが、顔の泥を乱暴に拭いながら、初めて俺の目を真っ直ぐに見た。

 その目には、先ほどまでの軽蔑の色は消えていた。

「……ステファン。お前、ただの臆病な新兵だと思っていたが、耳だけは『プロ』の整備兵以上だな。驚いたよ」

「……デリカ、いや、日本にいた頃から、機械の『不機嫌』には敏感だったんです」

 俺は苦笑いしながら、油と泥で汚れた黒服の袖で鼻を擦った。

 

 車長ベルントが歩み寄り、俺の肩を強く、だが温かく叩く。

「助かった。このぬかるみで立ち往生なんてことになったら、今頃みんなで泥まみれの大格闘だった。……行くぞ、ステファン。お前のその耳は、俺たちの命綱だ」

 再び鉄の箱の中へ戻る俺の足取りは、ほんの少しだけ、さっきよりも軽くなっていた。

 

 歴史の知識だけじゃない。

 俺が今までデリカミニと共に積み重ねてきた「機械への愛」が、この地獄を生き残るための、確かな武器になるかもしれない。

 

 俺は再び、あの狭くて暗い装填手席へと潜り込んだ。

 

 エンジンの始動音が響く。

 次はどんな音が聞こえるのか。

 恐怖は消えない。けれど、俺はこの鉄の塊と、ほんの少しだけ仲良くなれた気がした。

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