トイレの花子さんは、逃げ出したかった②
本来であれば、その瞬間こそが捕食者にとっての好機だったはずだ。
抵抗を失った柔らかい肉に食らいつき、その魂を啜る。それが『花子さん』と呼ばれる怪異の本能であり、悦びだった。
だが――陽の体が床に叩きつけられることはなかった。
ピタリ、と。
地面まで数センチのところで、彼女の体は不自然に静止していた。
まるで、見えない手に優しく受け止められたかのように。
『……?』
天井からぶら下がっていた肉塊――花子さんの動きが止まる。
本能が警鐘を鳴らしていた。
目の前の獲物は、無防備な少女だ。霊力も微弱。守る術など持っていないはずだ。
なのに、なのに、なのに――なぜ食欲が消え失せ、代わりに根源的な畏怖が湧き上がってくるのか。
その答えは、少女の背中から現れた。
陽が羽織っていたカーディガンの背中あたりから、漆黒の液体が滲み出した。
それは見る間に質量を増し、沸騰する泥のように膨れ上がる。
狭い個室の空間が、軋みを上げて歪み始めた。
『あ……、あ……』
花子さんは知能の低い怪異だったが、それでも理解してしまった。
自分は捕食者ではない。
餌の皿の上を漂う、ただの蝿だったのだと。
『―――』
陽の背後で鎌首をもたげたそれは、不定形だった。
コールタールのような粘液質の表面に、無数の目がギョロリと開き、でたらめな位置の口が裂ける。
そこから発せられるのは、冷徹な殺意ですらない。
ただの、事務的な排他処理の気配。
『…………
脳内に直接響く重低音と共に、黒い泥が
逃げる隙などない。
悲鳴を上げる間もない。
『ひぃ――』
泥が弾けるような音が一つ。
花子さんの体は、頭から瞬時に飲み込まれた。
咀嚼音すらしない。ただ、圧倒的な質量の中に吸い込まれ、存在そのものが無へと還元されていく。
それだけでは終わらない。
黒い泥は、個室からトイレ全体へと広がった。
壁にこびりついた赤錆のような怨念、床の黒ずみ、空気中に漂う腐臭。
それら全ての
数秒後……そこには、塵一つない静寂だけが残された。
*
静寂を引き裂くように、トイレのドアが乱暴に蹴破られた。
飛び込んできたのは、長い黒髪をポニーテールにした少女――
「間に合って……!」
彼女は滑り込むと同時に、指に挟んだ三枚の呪符を扇状に構えた。
突如として現れた特級クラスの怨気が、この旧校舎のトイレで爆発的に膨れ上がり、そして唐突に消滅したのを感知したのだ。
最悪の事態を想定し、彼女の顔には脂汗が滲んでいる。
「そこにいるのは誰! 返事を……しな……さ……」
凛の声が、尻すぼみに消えた。
構えていた呪符が、力なく手から滑り落ちる。
「……は?」
凛は、自分の目を疑った。
そこは、旧校舎のトイレのはずだった。
以前見た時はカビと汚物と、ちいさな地縛霊の思念に塗れていたはず。
けれど今、目の前にあるのは、まるで新築物件のモデルルームのように、白く輝くピカピカのタイル。曇り一つない鏡。新品同様に取り替えられたかのような、清潔な便器。
空気は清浄そのもので、高原の朝のような爽やかな匂いすら漂っている。
「な、何これ……リフォームされた……?」
そして、その輝く個室の中心で。
一人の女子生徒が、床にペタンと座り込んだまま、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「すぅ……すぅ……」
小柄な体。ふわふわした茶色の髪。
無傷だ。それどころか、肌は血色良く艶々としている。
「……っ!」
凛の真眼が、少女の背後にある残り香を捉えた。
少女の背中から、どろりとした漆黒のナニカが、音もなく体内へ戻っていく――瞬間。
そのナニカと、目が合った気がした。
底知れぬ深淵に咲く、無数の目。目。目。
(――ひッ)
凛の膝がガクンと震えた。太ももを、生暖かい液体が垂れ下がっていく。
あの子がやったの?
否、あの子の中にいるアレが、このトイレに棲みついていた怪異を咀嚼している。
(……ヤバい。これは、関わっちゃいけないやつだ)
凛が後ずさりしようとしたその時。
少女の瞼がピクリと動き、ゆっくりと開かれた。
*
「んぅ……」
眩しい。
私は目をこすりながら体を起こした。
あれ? 私、どうしたんだっけ。
確か、トイレに入って、鍵が開かなくなって、天井から怖いオバケが出てきて……。
「……夢?」
恐るおそる周囲を見渡す。
そこは、真っ白でピカピカなトイレだった。
壁も床も輝いていて、不気味なシミなんて一つもない。
オバケどころか、チリ一つ落ちていない清潔な空間だ。
「あ、あれぇ?」
キョトンとしていると、入り口に誰かが立っていることに気づいた。
黒髪の長い、モデルさんみたいに綺麗な女の人だ。
私たちの学校の制服を着ている。
先輩かな?
「あ、あのっ! こんにちは!」
私は慌てて立ち上がり、スカートの裾を直した。
先輩は、なぜか顔面蒼白で、ドア枠にしがみつくように立っていた。その足元では、水をこぼしたのだろうか。水たまりができている。
「こ……こんにちは」
「えっと、ここ、トイレですよね? 私、閉じ込められちゃってて……もしかして、先輩が助けてくれたんですか?」
きっとそうだ。
私が気絶している間に、この人が鍵をこじ開けてくれたんだ。
それに、このピカピカなトイレ。もしかして、先輩が掃除してくれたの?
いや、それは流石に時間的に無理か。
じゃあやっぱり、怖い夢を見ていただけだったのかな。
先輩は、引きつった笑みを浮かべて、喉を鳴らした。
「……ち、違うわ。別に、偶然通りがかっただけだから」
「そんな、謙遜して……! 本当にありがとうございます! 私、1年B組の小日向陽です!」
「え、ええ……うん……まあ」
私は満面の笑みでお礼を言った。
入学して初めて、まともに会話してくれる人と出会えた。
しかも、こんな美人な先輩。これは運命かもしれない。
「先輩、お名前聞いてもいいですか?」
「………」
先輩は少し躊躇った後、諦めたように溜息をついた。
「
「御門先輩! 素敵な名前ですね! あの、お礼に何か……」
一歩近づこうとすると、御門先輩は「ヒッ」と短く息を吸って、ササッと二歩下がった。
……あれぇ?
「小日向さん。いい? よく聞いて」
先輩は真剣な眼差しで、私を指差した。
「もう遅いから、すぐに帰りなさい。それと……この旧校舎には二度と近づかないこと」
「は、はい」
「それから……いえ、なんでもないわ。じゃあ私、お花を摘んでくるから。気を付けて帰るのよ」
先輩は何か言いたそうだったけれど、口をつぐんで個室の中へ入っていった。
私は個室に向かって深々とお辞儀した。
「今日は本当にありがとうございました!」
スキップしそうな勢いで私はトイレを後にした。
すれ違いざま、先輩からはすごくいい匂いがした。
なんの香水を使ってるんだろう。私も欲しいな。枕に毎日ふきかけて眠りたい。
「はぁ……今日は友達できなかったけど、素敵な先輩に会えたなぁ」
廊下を歩きながら、私はニコニコと独り言を呟く。
窓の外はすっかり夕暮れ。
カラスが鳴いている。
私の背中で、げっぷのような音が聞こえたけれど、気にせず家路を急いだ。
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