桂木えり:プロローグ(2/2)

 母は朝によく吠える。

 インターネットで蓄えた知識を食卓に披露した。桂木家は反抗する刃も抜けて、ただのBGMとして機能する。


「世の中は息苦しくなっている。いろんな人に配慮して私たちの生活は苦しい。環境とか、同性愛とか、話題にしにくいことを棚に上げて私たちを黙らせる!」


 頭の痛い話だけど、常識として受け入れてしまった。桂木はそれが耐えられなかった。


「母さん。あんたが信じている怪しい人は金もうけのために気持ちのいいことを語っているんだよ」

「えり。またそんなことを信じているの。本人の話を聞いたら考えが変わるよ、今日の集会に来てみなさいよ」

「だから、洗脳されに行くのはおかしいでしょう」


 桂木えりしか反応しない。そのことを母は見えていない。諦めている空気を共有できていなかった。


「えり。もういいけんご飯食べ」


 水を差された桂木。

 桂木は数々の許せないことがある。1番我を忘れるのは、母親が陰謀論にハマっていることだ。ネットで調べたら出てくるウソを信じ込んでいる。恥ずかしくて人前に出てきてほしくない。

 過剰な自意識が親に完璧性を求めている。蟻が手を登ってくるような不快感が同居していた。


「こんな奴らと食べられない! ほんときらい!」

「えり! もういいけんせきにつき」


 焚き付けられたと勘違いした。桂木は祖母の老いを頭の片隅で自覚している。なのに、狂った母の前で弱みを見せられなかった。

 母親は授業参観に来ないし、愛情を振りまかない。やってくるのは、自分が信じているインフルエンサーの演説を真似することだ。その口ぶりは桂木を見ていなかった。


「こんなのおかしいってみんな思ってるよ! ばあちゃんも言い返したらいいやん。おかしいやろ! 本当にイカれているよ!」

「肉親になんてこと言うん!」

「こんなの肉親じゃない! ばあちゃんもこんなのの肩を持たんでいい! こんな家嫌いや!」


 桂木はたまらず家を出た。祖母のことは嫌いではないけど、自分の感情を抑えられない。勢いに任せて外に行き、学校に走っていく。

 腹立たしさが電車に乗っても消えない。大勢の生徒が草食動物の群れみたいに入っていく。そうして、桂木は友達の隣に来た。


「もー、マジ母が最悪」

「なに? また喧嘩したん」

「誰か殺してくれんかな」

「そんなやから人から距離取られるんよ」

「は? 満島がおるからいいやろ」

「とか言いつつ寂しいくせに」

「は? は?」

「あはは」


 学校に近い駅に降りる。同じクラスの面々が顔を揃えていた。


「何笑ってんの」

「いや、桂木なんも変わってないよね」


 満島に言われて自覚した。

 最初に彼女と会ったのは、母親と喧嘩したあとだ。誰も近寄らないでほしいという空気を漂わせていたところ、満島がノートを写させてほしいと図々しい提案をしてくる。

 デリカシーのない満島に気圧されて、ノートを渡した。

 それから交流が生まれる。連絡先を交換し、ネットの話題で議題する。学校の話題は避けていて、親のことを互いに話す。満島は家族と仲良くやっているようだ。それが妬ましくも思いつつ、無関心に聞いてくれる助けになっている。


「ああ、本当だ。満島は良い友達だ」

「思ったことを隠さないでいつも言うよね」


 満島は桂木の褒め言葉に慣れてしまった。常日頃から口に出す彼女のことを満島は、変な人だと思っている。この学校に自分の気持ちを話す人はいない。うまく立ち回って内申点に響かなければよかった。

 満島も上手く溶け込みたい人間だ。


「ていうか、桂木ってぼっちやろ? クラスつらいやろ」

「うるさいな。分かってて聞くな」

「いや、慰めてやろうかなって。私のグループに入れてあげようか」

「見下しているのがムカつく」

「いや、下だよ。桂木は」

「言い過ぎだ」

「ごめん」


 2年の付き合いが口を軽くする。まるで幼なじみかの距離に満島への尊敬はクラスで集まっていた。

 桂木は扱いにくい。


「そろそろ校門か。じゃあね。桂木」

「またな」


 2人で別れる。

 桂木はクラスで浮いていた。話しかける相手もいなければ、話しかける理由もない。自分で完結できるように復習は済ませている。移動教室に間に合っていたし、先生からの伝達事項はクラスで地味な人に取らせていた。孤独ではあるが、満島が友達という要素が、自尊心を傷つけない。

 満島は男女から人気がある。言い過ぎな言動を許される美ぼう。人を立てるところもあり、うまく立ち回っている。

 そう考えながら、彼女は2限目まで終わらせた。お手洗いの個室でネットを眺めていた。すると、満島の話し声が聞こえる。


「てか、スダみた? マジかっこよくない?」

「わかる。まんじだわ」

「彼女もマジイケてるよね」

「わかるー」


 よくこんな会話に付き合っていられる。桂木は自分の沸点が上がりそうな予兆があった。こういうときは誰かの愚痴を盾にする。彼女の態度を交わす満島に勝てない。派手に物音を立てようとした。


「てか、お姫様はまだ怒ってんの?」

「桂木? やばいよ」

「えー、聞きたい」

「今日も聞かされて最悪。誰もお前に興味ないっていうね」

「満島いいすぎー」

「だってそうじゃん。仲良くしてやってるメリットないのに、よく話しかけられるよね。感謝されるけど安っぽいし」

「あはははは」


 桂木は身体が硬直した。満島が自分の悪口を振りまいている。面と向かって悪態をつかれるのは良かった。自分と向き合っている証拠だ。だからこそ、腹が立っても許せた。しかし、今は状況が違う。

 手が震えていた。自分が泣いているのに気が付かなかった。目元を触らないことで、泣いていないと言い聞かせている。

 桂木のなかで滾る思いがあった。


「おい」


 彼女は個室から出ていく。手洗い場に屯する三人。中心に満島がいた。他の二人は恐怖に染まっているけど、眼中にない。


「私が嫌いなことを何でしている」


 満島は強かだ。口調が激しい桂木にも慣れている。


「ただの会話だよ。桂木に関係ない」

「私に不満があるならそう言えばいいだろ」

「言っても解決しないなら変わらないよ。それに、これは普段と変わらないよ」

「人に言うのは意味が変わるだろう。本当に嫌みたいじゃないか」

「いやだよ」

「は?」

「嫌だよ」


 彼女のなか2年の後悔が滲む。感情の底が揺らいでいた。


「好き勝手言って私が迷惑受けているの知らないよね。普通なら私が虐められたりする。でも、そうならないのは私がガス抜きしてるから。それに、貴方がセンセイにすぐ言いつけるところがあるからだよ」

「一回だけだろ。しかも、他人が虐められているかもしれないから大人を介入させた」

「それがだるいの」

「正しいことだ!」

「別に正しくなりたくないよ。まだ子供だから間違えさせてよ」

「何言ってるんだよ。お前、私の友達だっただろ」

「……」

「じゃあなんで最初に私のノートを借りに来たんだよ。仲良くしてくれたんだよ!」

「……」

「最初からお前なんかと話さなきゃよかったよ!」


 桂木は初めて非行に走る。必要な所持品だけで学校を出た。捜索を出されているかもしれない。携帯の通知が鳴っている。すべてがどうでもよかった。

 祖母に泣きつくこともできない。朝のことが気まずかった。

 自分が我慢しないことで他人が我慢している。それでも、彼女は態度を改められないだろう。桂木は苦しくなって電車を乗り続ける。殺されたほうがいいのは自分だって、落ち込んだ。

 空が暮れていき、ネットは陰謀論を嘲笑するツイートが流れる。

 家に帰ろうと駅を出た。


「ただいまー」


 いつも返事があった。喧嘩や病気にかかっても『おかえり』に異常なこだわりを見せている。

 彼女は胸騒ぎがした。靴のまま玄関にあがる。リビングの扉を開けると、机は朝と違って片付いていた。自分の落とした箸も回収されていた。

 リビングから近いところが祖母の部屋だ。普段は空いている扉が閉まっている。彼女は手が震えた。


「婆ちゃん?」

「……」

「あけるよ?」


 彼女が扉を開けてから生活は変わった。警察と救急車が来て、夜遅くに両親が迎えに来る。犬と一緒にリビングのソファーで寝た。学校に着ていく制服で葬式に出る。

 祖母の交友関係は広いから、参列者は多かった。桂木の両親は、祖母の関係ごと鬱陶しくため息を吐きながら、世間体から愛想よく済ませる。祖母を看取った人は桂木えりだから、数々の人が涙をわざわざ見せてきた。

 桂木は一度も泣けなかった。ただずっと、ゲームのボタンを押している感覚で日々が過ぎていくのを止められない。

 あの時からずっと彼女の生活は続いている。

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