第9話:覚悟

霧の谷は、その名の通り視界を奪う白濁とした闇に包まれていた。


鼻を突くのは、濡れた苔の匂いと、何かが腐敗したような甘ったるい死の香り。そして、大気を震わせる巨大な「呼吸」の音だ。


「……来るぞ。離れるな!」


レオンの叫びと同時に、霧の向こう側から巨大な影が躍り出た。双頭大蛇(オルトロス・バイパー)。家屋ほどもある太い胴体が地面を這い、二つの鎌首が鎌を研ぐような不気味な音を立てて鎌首をもたげる。


「キシャアアアアッ!」


片方の頭が放った毒液が、カイルの盾を掠めた。ジリジリと金属が溶ける嫌な音と煙が上がる。


「うわっ……! なんだよこの威力、冗談じゃねえ!」


「カイル、下がるな! 盾を斜めに構えろ! ミーナ、右の頭の視界を奪え!」


レオンは指示を飛ばしながら、己の心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れているのを感じていた。手のひらは汗で滑り、喉は恐怖で塞がりそうになる。

(……怖い。死ぬ。オヤジは、こんな化け物といつも戦っていたのか?)


一瞬、思考が止まりかけた。その隙を大蛇は見逃さない。太い尻尾が鞭のようにしなり、レオンの脇腹を直撃した。


「がはっ……!」


地面を転がり、岩に背中を叩きつけられる。視界が真っ赤に染まり、肺が空気を拒絶する。朦朧とする意識の中で、大蛇の牙がカイルへと迫るのが見えた。


「レオン! 逃げろ!」


カイルの叫び。ミーナの震える杖。

その時、レオンの脳裏に父ガルドの背中が浮かんだ。それは強大な「鉄壁」の姿ではなく、バルガスが語った、傷だらけで仲間を守り抜いた「一人の男」の姿だった。


(俺は……何を格好つけてたんだ)


レオンは泥を吐き出し、折れた肋骨を無視して立ち上がった。

自分は未熟だ。オヤジには程遠い。天才でもなければ、無敵の英雄でもない。

ただの、泥にまみれた17歳の駆け出し冒険者だ。


「……それがどうした!」


レオンは吠えた。自分の未熟さを、弱さを、恐怖を、すべて飲み込んで前へ踏み出す。


「カイル! 盾を捨てて俺の背中に隠れろ! ミーナ、俺の剣に全魔力を乗せろ! 外したら全員死ぬぞ!」


「なっ……正気かよ!?」


「俺を信じろ! 俺はもう……二度と、守られるだけのガキで終わりたくねえんだ!」


レオンは短剣を逆手に持ち替え、大蛇の懐へと飛び込んだ。

狙うは二つの首の合流点。そこしかない。

右の頭が噛み付こうと迫る。レオンは避けない。左腕を肉囮(えさ)として差し出し、牙が腕を貫く激痛に絶叫しながら、ミーナの風を纏った短剣を真っ直ぐに突き立てた。


「落ちろ……化け物ぉぉぉ!」


魔力が炸裂し、大蛇の喉元を内側から引き裂いた。

ドォォォォン……!

巨大な肉塊が地面を叩き、激しい砂煙が舞う。

静寂。

聞こえるのは、自分の激しい喘ぎ声と、滴り落ちる血の音だけ。


「……はぁ、はぁ……。やった、のか?」


カイルとミーナが駆け寄ってくる。レオンは左腕をだらりと下げ、泥まみれで笑った。

「ああ。……勝ったぞ。俺たちの力で」


---


数日後。ギルドの重厚な扉が開かれた。

入ってきたのは、ボロボロの装備を纏い、片腕を吊ったレオンと仲間たちだ。

その手には、双頭大蛇の巨大な魔石が握られていた。


喧騒に包まれていたギルドが、一瞬で静まり返った。

冒険者たちの視線が、かつての「坊ちゃん」に注がれる。だが、その視線にはもはや嘲笑も冷やかしもなかった。


「……おい、マジかよ。あのオルトロス・バイパーを、新人が?」


カウンターの奥からバルガスが出てきた。彼はレオンの前に立ち、その鋭い眼光で、レオンの顔に刻まれた新しい傷と、揺るぎない瞳をじっと見つめた。


「バルガスさん。……納品だ。ツケの登録料も、これで払えるだろ」


レオンは無造作に魔石をカウンターに置いた。

バルガスはフッと短く鼻を鳴らし、隣にいた受付嬢に言った。


「……おい。この男の登録ランクを上げろ。特例だ」


そして、ギルド全体に響き渡る声で続けた。


「あいつは、もう“坊ちゃん”じゃない。自分の血で明日を勝ち取った、一人前の『冒険者』だ」


わっと、地鳴りのような歓声が上がった。

酒杯が掲げられ、見知らぬベテラン冒険者たちがレオンの肩を叩く。

レオンはその熱気の中で、初めて自分の居場所を見つけたような気がした。


父の名前ではない。自分の腕で、自分の判断で手に入れた敬意。

左腕の痛みは激しかったが、レオンの心は、かつてないほどの充足感で満たされていた。


「……見てろよ、オヤジ。これでようやく、あんたと同じ土俵だ」


レオンは騒がしいギルドの片隅で、窓の外に広がる空を見つめ、静かに、けれど熱く、次なる一歩を見据えていた。


---


**最終回、第10話:ざまぁ、そして…**

ついに父ガルドとの再会。家出のあの日から成長した息子に対し、父が語る「真意」とは。

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