第6話:父の影
ギルドの資料室は、古い羊皮紙の乾燥した匂いと、蓄積された歳月が放つ重苦しい沈黙に支配されていた。
レオンは、昨日昇級の条件として提示された「過去の魔獣災害記録」を調べるため、埃っぽい棚の前に立っていた。カチカチと音を立てる安物のランプが、煤けた影を壁に落とす。
「……これか」
一冊の分厚い戦歴録を手に取った瞬間、指先にずっしりとした重みが伝わった。適当に頁をめくっていたレオンの手が、ある記述でぴたりと止まる。
『北方、白銀の竜殺し。守備隊壊滅の窮地を救いし、不動の鉄壁――ガルド・バロウ』
そこには、巨大な竜の骸を背に、傷だらけの剣を地に突き立てて立つ一人の男の似顔絵が描かれていた。若かりし日の父だ。今の枯れた姿とは違う、すべてを圧殺するような圧倒的な覇気が、紙面越しにレオンの肌を刺した。
「……なんだよ、これ。冗談だろ……?」
レオンは喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。父が「元冒険者」だとは聞いていた。だが、それは引退した老兵が語る昔話の類だと思っていた。目の前の記録にあるのは、国一つを救った「伝説」の証明だ。
「おい、坊ちゃん。そんなところで何をしてやがる」
背後から響いたのは、バルガス教官の低く野太い声だった。
「バルガスさん……。これ、本当なのか? オヤジが、たった一人でこの竜を?」
バルガスは歩み寄り、義眼を細めて戦歴録を眺めた。
「ああ。本当だとも。あの日の北方は地獄だった。俺もその場にいたが、絶望の淵で絶叫する俺たちの前に、あいつは一人で歩いてきた。背負った盾一枚で、竜のブレスを真っ向から受け止めてな」
バルガスは懐かしむように、自分の動かない方の脚を叩いた。
「俺たちが今こうして酒を飲んでいられるのは、あの『鉄壁』がいたからだ。ギルドの幹部も、王国の騎士団長も、あいつには頭が上がらん」
「……」
「お前を見て『なるほどな』と思ったよ。剣筋の鋭さ、土壇場での身のこなし……。血は争えん。だが、あいつの背中は、お前が思っているよりずっと遠いぞ、レオン」
バルガスの言葉が、冷たい氷の塊のようにレオンの胸に落ちた。
誇らしさ? 違う。
怒り? それも少し違う。
それは、胃の奥を激しく掻き乱すような、圧倒的な「劣等感」だった。
---
訓練場に戻っても、レオンの手は震えていた。
かつて自分が「古臭い」と罵った父の構え。その一つ一つが、実は数えきれないほどの死線を越えて磨き上げられた、至高の芸術だったのだ。
「レオン、集中しろ!」
ケイン教官の木剣が、レオンの肩を強かに打った。
「ぐっ……!」
「どうした、動きが固いぞ。また『坊ちゃん』に戻ったか?」
「……ケイン、あんたも知ってたんだろ。オヤジが……ガルド・バロウがどれだけ凄かったか」
ケインは動きを止め、ふっと溜息をついた。
「ああ。知っているさ。俺が軍にいた頃、あいつは伝説だった。戦場にガルドが現れるだけで、兵士たちの士気が跳ね上がった。あいつの背中は、そこに在るだけで『誰も死なせない』という約束そのものだったんだ」
ケインは木剣を肩に担ぎ、レオンを真っ直ぐに見据えた。
「今の評価を教えてやろうか。ギルドの連中はお前を見てこう言っている。『あの人の息子か……なるほどな、筋はいい。だが、あの親父の域に達するのは百年早い』とな」
「……っ、分かってるよ! 言われなくたって!」
レオンは叫んだ。
胸の中で、どろどろとした感情が渦巻く。
父が偉大であればあるほど、今の自分が受けている評価が「自分の実力」ではなく、「父の余光」に見えてしまう。
昨日、初めて手にした銀貨1枚の喜びさえ、父の築いた巨大な金字塔の前では、砂粒のように虚しいものに思えた。
「ふざけんなよ……。あんなに凄かったんなら、なんで何も言わなかったんだ。なんで、ただの不器用な親父のフリしてやがったんだよ!」
怒りが込み上げた。何も教えてくれなかった父へ。
そして、その父を「古臭い」と馬鹿にしていた、何も知らなかった自分へ。
「……誇りになんて、思えるかよ」
レオンは木剣を地面に叩きつけた。
手が痺れるほどの衝撃。だが、その痛みさえ、心の奥にある空虚さを埋めてはくれなかった。
「俺は、あいつの息子として評価されたいんじゃない。俺は、俺として……!」
「なら、超えてみせろ」
ケインの声が、冷徹に響いた。
「お前が今感じているのは、ただの甘えだ。親の影が巨大なら、それを踏み越えるだけの力をつければいい。ガルド・バロウの息子という呪縛から逃れる唯一の方法は、あいつ以上の結果を出すことだけだ。違うか?」
レオンは歯を食いしばり、地面を見つめた。
土の匂い、汗の混じった不快な感触。
視界が熱くなる。
今の自分は、父の伝説という巨大な山脈の麓で、立ち尽くしているだけの迷子だ。
「……ああ。そうだな」
レオンはゆっくりと、叩きつけた木剣を拾い上げた。
その手はまだ震えていたが、先ほどとは違う「覚悟」の色が混じっていた。
「オヤジ、あんたは確かに凄かったらしい。……でも、俺はあんたの影に隠れて生きるつもりはねえ」
レオンはケインに向かって、低く、鋭い構えをとった。
それは父の「鉄壁」とは違う、攻めに特化した、危うくも鋭利なレオン独自の型。
「『なるほどな』なんて二度と言わせねえ。俺の名前だけで、あんたの伝説を上書きしてやる」
劣等感が、烈しい闘争心へと昇華される。
父の巨大な影を見据えながら、レオンは再び、泥臭い訓練の海へと身を投じた。
いつかあの「伝説」の背中を、真正面から、自分の手で引きずり下ろすために。
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**次回、第7話:真実の断片**
父の傍にいた女性、シェリーの過去。彼女が父にとって「愛人」ではなく、かけがえのない「戦友」であったことを知る時、レオンの家出のきっかけとなった誤解が解け始める。
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