第4話:孤独
ギルドの隅にある安寮の部屋は、カビの匂いと、拭いきれない埃の感触に満ちていた。
ギシギシと悲鳴を上げるベッド。薄汚れた毛布。レオンは泥のように重い体を引きずり、硬いマットレスに倒れ込んだ。ケインとの特訓で全身は痣(あざ)だらけで、打ち据えられた関節が脈打つたびに、鋭い痛みが脳を突き抜ける。
「……っ、痛てえな。あのクソオヤジ……じゃなくて、ケインの野郎」
これまでは、稽古が終われば最高級の薬草湯が用意され、メイドたちが冷えたハーブティーを運んできた。濡れた衣服は脱がされ、清潔な寝着に着替えさせてもらうのが当たり前だった。だが、今のレオンを待っているのは、窓の隙間から入り込む冷たい夜風と、静寂だけだ。
翌朝、レオンは自分の異変に気づいた。
「……あ、つ……」
喉が焼けるように熱い。肺の奥からせり上がる咳を堪えると、頭蓋骨の裏側を金槌で叩かれたような激痛が走った。視界が歪み、天井の染みが這い回る虫のように見える。風邪だ。慣れない過酷な訓練と、慣れない劣悪な環境。17歳の強靭なはずの体が、音を立てて悲鳴を上げていた。
「おい、レオン! 起きてるか、朝練だぞ!」
隣の部屋の冒険者仲間が扉を叩く音が、今のレオンには爆音のように響いた。返事をしたかったが、舌が上顎に張り付いて、ただのかすれた吐息しか出ない。
「……あ、あ……」
足音が遠ざかっていく。誰も、扉を開けて中に入ってはこない。
ここは屋敷じゃない。黙って寝ていれば、心配した母(のような存在のシェリー)や使用人が様子を見に来てくれる場所ではないのだ。
「……はは、マジかよ」
レオンは震える手で、枕元にあるはずの水差しに手を伸ばした。だが、指先が触れたのは空っぽの陶器の底だった。昨夜、喉の渇きに任せて飲み干してしまったことを思い出す。
水が欲しい。
たったそれだけのことが、今のレオンには絶望的な難業に思えた。
視界がふらつき、床に足をついた瞬間に膝から崩れ落ちた。冷たい床の感触が顔に伝わる。かつてはシェリーが「レオン、無理しちゃダメよ」と笑いながら額に冷たいタオルを当ててくれた。父は無言で、だが滋養のあるスープを運ばせていた。
「……俺、今まで……何してたんだ……?」
這いずりながら、部屋の隅にある洗い場へ向かう。
蛇口をひねる力さえ入らない。指先が震え、ようやく滴り落ちた数滴の水を口に含んだ時、レオンの目から熱いものが溢れた。
「……クソッ、なんでだよ……なんで涙が出てくんだよ……」
情けなかった。オヤジを「ざまぁ」してやると息巻いて家を飛び出した自分が、たかが風邪一つで、水一杯さえ満足に飲めずに泣いている。
今まで自分を支えていた「強さ」が、どれほど他人の献身の上に成り立っていたか。それを奪われて初めて、レオンは自分の本当の小ささを思い知らされた。
自分一人で大きくなったつもりだった。
父の教えを「古臭い」と切り捨て、シェリーの気遣いを「余計なお世話」と罵った。
だが、その傲慢さを支えていたのは、彼らが整えてくれた「安全で清潔な世界」だったのだ。
「……俺、今まで……一人じゃ、何も……」
喉の奥で言葉が詰まった。
「何もできなかったのか?」という問いが、熱に浮かされた頭の中で何度もリフレインする。
泥水を啜るような思いをして手に入れた水は、鉄の味がした。だが、その苦みが、少しずつレオンの意識を現実へと繋ぎ止めた。
「……ふざけんな。ここで死んだら、あのクソオヤジの思うツボだろ……」
レオンは壁に手をつき、震える足で立ち上がった。
棚の奥に、昨日ケインから「非常食だ」と渡された、硬くて不味そうな干し肉と黒パンがあるのを思い出した。
今のレオンにとって、それは王宮の晩餐よりも重要な、生きるための糧だった。
「食ってやる……食って、治して……絶対、あんたを超えてやるからな……オヤジ……」
涙を拭い、レオンは黒パンを口に押し込んだ。石のように硬いそれを、唾液でふやかして飲み込む。一口ごとに命の火が灯るような感覚があった。
看病してくれる人はいない。
心配してくれる声も届かない。
けれど、今この瞬間、自分の意志で食べ、自分の力で立とうとしている。
それは、屋敷にいた頃の「坊ちゃん」には決してできなかった、本当の意味での「自立」の産声だった。
窓の外では、ギルドの喧騒が再び始まっていた。
レオンは冷たい水で顔を洗い、鏡に映る、酷い顔をした自分を睨みつけた。
「……見てろよ。俺はもう、守られるだけのガキじゃない」
孤独という名の冷たい炎が、少年の心にある「甘え」を焼き尽くし、鋼のような覚悟へと変えていった。
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**次回、第5話:初勝利**
病を乗り越え、再び依頼へ。今度は一人ではない、だが「坊ちゃん」ではない対等な仲間との共闘。
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