楓 ~戦国時代で経済戦~
五平
第一部「黄金の定礎編」
第1話:独眼竜、計算外を拾う
天正十五年。奥州の冬は、命のやり取りすら凍てつかせるほどに峻烈だった。
出羽湊安東氏の拠点、土崎湊(つちざきみなと)。かつて「安東の北前船」が富を運んだその港は、今や伊達政宗の軍門に下り、重苦しい静寂に包まれている。
湊安東家の庶流、楓(かえで)は、雪の混じる冷たい板間に跪いていた。
周囲には、勝ち誇った伊達の将兵たちの熱気が渦巻いている。彼らにとって、この地を切り取ったことは、奥州統一への単なる一過程に過ぎない。略奪の許可を待つ兵たちの下卑た視線が、楓の背中に突き刺さる。不揃いな呼吸の音が、冷えた大気をわずかに震わせていた。
「湊の姫。顔を上げよ」
低く、地鳴りのような声が響いた。
正面に座すのは、奥州の新たな支配者、独眼竜・伊達政宗である。
弱冠二十一歳。その若さに似合わぬ威圧感は、彼がこれまでに流してきた返り血の量ゆえか。漆黒の陣羽織に身を包んだ政宗は、唯一の右眼を鷹のように鋭く光らせ、楓を射抜いていた。その眼光は、単に美しい女を眺める男のそれではなく、手に入れた領土の検地を行う冷徹な支配者のものだった。
楓は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、敗軍の将の娘らしい悲壮感も、命乞いの卑屈さもなかった。ただ、深い夜の海のような、静謐な知性だけが宿っている。
「……貴様が、湊の生き残りか。安東の男どもは、逃げ足だけは速かったようだが」
政宗の皮肉に、家臣たちがドッと沸く。嘲弄の波が広間を埋め尽くすが、楓はその波に呑まれることなく、静かに口を開いた。
「男たちは、失うべき『土地』を守ろうとして敗れました。私は、土地など初めから信じてはおりませぬ。ゆえに、ここに残ったまでにございます」
「土地を信じぬ、だと?」
政宗の眉がピクリと動く。
戦国大名にとって、土地こそが力の源泉だ。石高、つまりその土地からどれだけの米が獲れるか。それが兵の数、武器の質、ひいては己の格を決定する。それを否定することは、この時代の道理そのものを否定することに等しかった。政宗の周囲に控える屈強な武者たちの手が、不快げに刀の柄へと伸びる。
政宗の視線が、楓が胸に抱きかかえている「奇妙な木枠」に止まった。
それは、彼女の細い指に、まるで皮膚の一部であるかのように馴染んでいる。
「それは何だ。安東の家宝か。あるいは、俺の首を呪うための呪物か」
「……算盤(そろばん)にございます。伊達の当主様」
「算盤だと?」
政宗は鼻で笑った。算盤など、勘定方が蔵の隅で弾く道具だ。主君にまみえる席で、敗者が抱きかかえるようなものではない。
「下らぬ。商人の道具を抱えて、命乞いか。貴様の家格なら、褥(しとね)を温める役ぐらいは与えてやろうと思っていたが、興が削げた。追い出せ。どこか適当な寺へでも放り込んでおけ」
政宗が興味を失い、視線を逸らそうとしたその時。
楓は、その算盤の珠を、一瞬で「弾いた」。
――ジャッ。
硬く、乾いた音が謁見の間に響き渡る。
その音は、まるで鋭い刃物が大気を切り裂いたかのような、異様な響きを持っていた。政宗の背筋に、わずかな悪寒が走る。それは戦場で矢が頬をかすめた時の感覚に似ていた。
「伊達の軍勢、一万二千。この地を落とすために費やした兵糧、三千石。さらに、進軍路の補修と人足の徴用で、金百枚が動きましたね。……ですが、この港を十日占拠しただけで、その損失の三倍が、すり抜けて消えております」
政宗の動きが止まった。
家臣の一人、片倉小十郎が鋭い眼光で楓を睨みつける。
「……女、何をデタラメを。我が主の軍略に、一分の無駄もない」
「無駄はございません。ただ、『計算違い』があるだけです」
楓は、算盤の珠を見つめたまま、淡々と告げた。珠を弾く指先は、まるで熟練の弦楽器奏者のように滑らかで、確信に満ちている。
「皆さんは、この土地を『米が三千石獲れる村』として見ている。ですが、この港の真の価値は、米ではありません。北風です。今、この瞬間も、蝦夷から吹く風が、ニシンを、昆布を、干鮑を運んできている。それらを運ぶ船が、伊達の軍船を恐れて沖で停滞している。その停滞一日に付き、銀十匁の損失。船上の荷が腐る速度を計算に入れれば、損失は刻一刻と膨れ上がる。……お分かりですか? 伊達家は、この城を落とした快感の裏で、目に見えぬ銀を海に捨てているのです」
楓の脳内では、すでに思考が加速し、現実を侵食し始めていた。
彼女の視界には、目の前の粗末な畳や、汗臭い武者たちの姿は見えていない。
見えているのは、奥州を網の目のように流れる、目に見えぬ「富の川」だ。熱を持って流れる銭の動き、風に乗って変化する物価の波。それは彼女にとって、戦場の矢面よりも克明な「戦場」だった。
(……伊達の当主。この男は、奥州の土地を欲しがっている。だが、土地は縛るもの。米は重く、運ぶだけで価値が目減りする。石高という物差しに縛られている限り、この男は、いずれ中央の巨大な『石高』に押し潰される。……この男を救うには、あるいは私が生き残るには。この『物差し』を破壊するしかない。米が統べるこの国に、別の理を持ち込むしかない)
「……面白いことを言う」
政宗は、無言で楓に近づいた。
その歩みは遅いが、一歩ごとに床が軋み、楓の肌を重圧が撫でていく。
政宗は、楓の目の前まで来ると、乱暴にその算盤を奪い取った。
裏を返せば、そこには針の先で彫り込まれた、微細な数字の羅列があった。
『天候:北西。潮の流れ:三ノ一。マニラよりの交易船、入港確率:三割――』
「……貴様、これは何だ。マニラ? 交易船だと? 蝦夷の北に何があるというのだ」
「世界にございます」
楓は、初めて微笑んだ。
その微笑みは、捕らえられた小鳥のものではなく、獲物を罠に誘い込んだ獣のそれだった。
「伊達の当主様。あなたは、この小さな日本という島を、石高という物差しで測り、その頂点に立とうとしている。ですが、海の向こうには、石高などという言葉すら知らぬ国々がございます。彼らが欲しがるのは米ではなく、奥州の金であり、銀であり、そして私たちが捨てている干鮑です。……この算盤があれば、私はあなたに、秀吉の百万石すら霞む『富』を献上できる。あなたが望む覇業の、そのための裏帳簿を、私が書き上げましょう」
政宗の独眼が、限界まで見開かれた。
彼の内側にある野心という名の渇きが、楓の言葉という毒を含んだ水を得て、激しくのたうち回った。
政宗は、算盤を楓の膝元に叩きつけるように返した。
「……狂っておるな。安東の姫。貴様の言っていることは、この国の理を根底から腐らせる毒だ。だが、その毒……飲み干せば天を衝く力となるか」
「毒は、薬にもなりましょう?」
「ふん。……よし、賭けだ。楓と言ったか。貴様に、伊達領の最北端、石巻のさらに北にある『雄勝(おがつ)』という村をやる。石高はゼロ。ただの岩場と、使い物にならぬ港があるだけのゴミ捨て場だ。伊達の家臣の誰一人として、見向きもせぬ場所だ」
家臣たちがざわめく。雄勝。そこは、かつて反乱分子を押し込めた不毛の地だ。食う物すら事欠くその地を与えることが、政宗なりの処刑宣告であると誰もが思った。
「名目は、俺の側室。だが、俺の褥に呼ぶことはない。貴様はそこで、その算盤とやらで、俺に『金』を見せてみろ。もし一年で、俺の軍費の半分でも稼ぎ出してみせれば、貴様を伊達の『影の蔵元』として認めよう。伊達の家計のすべてを、貴様の計算に預けてやる」
「……承知いたしました」
「ただし!」
政宗は、腰の太刀の柄を鳴らした。
「一円(いちえん)でも計算が合わねば、あるいは貴様の言葉がただの法螺だと分かれば。その時、貴様の首は、俺が自ら撥ねる。……端数としてな」
謁見の間を出た楓を、奥州の厳しい寒風が迎えた。
だが、彼女の頬は熱く火照っていた。胸元に抱いた算盤が、心音に合わせて刻んでいるかのように、カチリ、と小さな音を立てた。
「側室……か。皮肉なものですね」
楓は、手元の算盤を愛おしそうに撫でた。
政宗が与えた「雄勝」という地。そこは、地図の上では確かに不毛の地だ。
だが、楓の脳内地図では、そこは太平洋という大海原へ突き出した、巨大な「槍の穂先」に見えていた。
(米が獲れぬなら、石高は計上されない。石高がなければ、秀吉も家康も、そこを『価値なき地』として見逃す。……最高。これ以上の潜伏場所はございません、政宗様。あなたの影に隠れて、私はこの国の神経を一本ずつ、金と銀の糸で繋ぎ変えて差し上げましょう)
楓は、政宗が去った後の城門を振り返り、優雅に一礼した。
彼女には見えていた。
いずれ、石高という古い物差しに縛られた大名たちが、自分たちが作り出す「経済」という名の怪物に飲み込まれ、溺れていく姿が。
そして、その怪物の手綱を握るのは、自分と、あの独眼の男だけであることを。
これが、後に歴史が「関ヶ原」という分岐点に辿り着いた時、日本を真っ二つに割り、太平洋を伊達の湖へと変貌させる。
世界を二分する恋と覇業の、これが最初の一石であった。
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