第2話
地獄とは、場所のことではない。状態のことだ。
この半年間、俺はそれを身をもって知った。
最初の三日は、文字通り死線を彷徨った。
急激な食事制限と、1.2倍の重力負荷。150kgの巨体には、歩くことすら登山に等しい苦行だった。筋肉は断裂し、骨は悲鳴を上げ、夜は空腹と全身の激痛で眠ることすら許されない。
何度も心が折れかけた。バターたっぷりのパンを一口だけでいいから食べたいと、枕を濡らした夜もあった。
だが、一週間が過ぎた頃、変化が訪れた。
立てるようになったのだ。スクワットが十回、連続でできるようになった。
脂肪の下で、眠っていた筋肉が「まだ死んでないぞ」と産声を上げた瞬間だった。
一ヶ月後。
俺は広大な屋敷の庭を走っていた。重力負荷は1.5倍。
屋敷の使用人たちは、巨大な肉塊がドスドスと地響きを立てて走る姿を、まるで狂人を見るような目で眺めていた。だが構わない。俺は止まらない。
食事は依然として、茹でた鶏肉と野菜のみ。ドレッシングすらかけない俺の姿を、専属メイドのシルヴィは震えるような目で見つめていた。「何か……悪い霊にでも取り憑かれたのでは」と囁かれているのも知っていた。
三ヶ月後。
庭に迷い込んだ下級魔物、ゴブリンと遭遇した。
以前の俺なら腰を抜かして失禁していただろう。だが、俺は無意識に手をかざしていた。
<万有引力・圧壊(プレス)>。
次の瞬間、ゴブリンは地面にへばりつく染みと化した。指一本触れていない。ただ、そいつの周囲の重力を五倍にしただけだ。
この頃から、使用人たちの視線が変わった。「狂人」から、「理解不能な怪物」を見る目へ。
そして、半年。
今日が、運命の日だ。
「……おはようございます、バルトロス様」
カーテンが開けられ、朝の光が部屋に差し込む。
シルヴィの声は、以前のような事務的な冷たさではない。どこか緊張を含んだ、腫れ物に触れるような響きがあった。
「ああ。……いい天気だ」
俺はベッドから起き上がる。
体が、羽のように軽い。
それもそのはずだ。今の俺は、就寝時ですら<万有引力>で自重を三倍に設定している。解除すれば、月面を歩く宇宙飛行士のような感覚になるだろう。
洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
「……誰だ、これ」
半年間、毎日見てきたはずなのに、改めて見ると我ながら驚く。
そこにいたのは、かつての「豚公爵」ではない。
無駄な脂肪が削ぎ落とされ、鋼のような筋肉を薄い皮膚が覆う、180cmを超える長身の男。
埋もれていた目鼻立ちは露わになり、公爵家の血筋を感じさせる彫刻のような美貌が完成していた。
金髪は短く整えられ、碧眼は半年間の地獄を生き抜いたことで、ナイフのような鋭い光を宿している。
80kg。
それが今の俺の体重だ。半年で70kgの減量。現代日本なら健康を害するレベルだが、魔力による身体強化と治癒を併用した結果、生物としてのスペックは以前とは比較にならないほど向上している。
「お召し替えを」
シルヴィが恭しく制服を差し出す。
王立魔法学園の漆黒のブレザー。特注のXXLサイズではなく、標準的なMサイズだ。
袖を通す。完璧にフィットする。腹がつかえることも、ボタンが弾け飛ぶこともない。
「……鏡、見ますか?」
シルヴィが恐る恐る尋ねてくる。俺は小さく頷いた。
全身鏡に映る漆黒の制服姿の俺は、どこからどう見ても「悪役」だった。ただし、噛ませ犬の豚ではなく、冷徹で残忍なラスボスの風格が漂っている。
「……まだ、軽いな」
俺は呟き、魔力を練り上げる。
<万有引力・常時展開>。負荷、四倍。
ズンッ、と空気が重くなる。シルヴィが一瞬、ビクリと肩を震わせたのが分かった。
今の俺の周囲には、高密度の重力場が形成されている。俺に近づくだけで、普通の人間なら気圧の変化で耳鳴りがするはずだ。
「さあ、行くか。……処刑台へ」
「え?」
「いや、独り言だ」
俺はマントを翻し、部屋を出た。
足取りは重くない。四倍の重力を背負っているにも関わらず、かつての150kgの時よりも遥かに軽快だ。
屋敷の長い廊下を歩く。
すれ違う使用人たちが、壁際に寄って深々と頭を下げる。以前は嘲笑を含んでいた視線が、今は完全な畏怖に変わっている。
俺が通ると、彼らは息を止めているように見えた。俺が発する「重圧」のせいだろうか。ごめん、これトレーニングなんだ。別に威圧してるわけじゃないんだ。
一階のロビーに降りる大階段。
そこには、見送りのために家族と主要な使用人たちが整列していた。
父であるガルガンチュア公爵、そして二人の兄。彼らは皆、朝から不機嫌そうだった。
「遅いぞ、バルトロス! 入学式だというのに、あの愚図は……」
次男のベルンが苛立ちを口にする。
俺は階段の踊り場に姿を現した。
コツ、コツ、と革靴の音が響く。
全員の視線が俺に集中する。
そして――時が止まった。
父が、兄たちが、そして数十人の使用人たちが、口を半開きにして俺を見上げている。
誰だこいつ、という顔だ。
無理もない。半年間、俺はトレーニングのために部屋と庭以外にはほとんど出なかった。食事も自室だったから、家族と顔を合わせるのは久しぶりだ。
俺は階段を降りきり、父の前に立った。
かつては見上げるだけだった父と、今の俺は視線の高さがほぼ同じだ。
「父上。行って参ります」
俺は短く告げた。
低い、よく通る声。脂肪に邪魔されない声帯は、我ながらいい響きをしている。
「……は?」
父が間の抜けた声を漏らした。
公爵としての威厳などかなぐり捨てて、俺の顔をまじまじと見つめる。
「き、貴様……誰だ? バルトロスの客人か?」
「ご冗談を。三男のバルトロスです」
「なッ……!?」
父が絶句した。後ろに控えていた執事長が眼鏡を落としかけている。
広間にどよめきが広がった。
「バルトロスだって? あの豚が?」
「嘘だろ、別人じゃないか……」
「いや、だが面影は……そしてあの魔力の色は……」
驚愕と混乱。
その中で、次男のベルンが顔を真っ赤にして前に出てきた。
「ふ、ふざけるな! 貴様ごときが、そんな……そんな姿になれるわけがない!」
ベルンは以前から俺をいじめていた。才能はあるが怠惰な俺を「一族の恥」と罵り、ストレス発散の道具にしていたのだ。
俺が変わったことが、そして自分より遥かに見栄えが良くなったことが、彼のプライドを刺激したらしい。
「何か細工をしたな? 幻覚魔法か? それとも、禁忌の薬でも使ったか! この恥さらしめが、正体を現せ!」
ベルンが杖を振り上げる。
風属性の中級魔法<ウィンド・カッター>の構えだ。本気で俺を傷つけるつもりらしい。
俺は内心、ヒヤッとした。
(やべっ、兄さんマジでキレてる。怖い。殴られる!)
ビビリの俺は、反射的に身構えた。
「防御しなきゃ」という防衛本能が働く。
常時展開していた四倍の重力負荷を、一瞬だけ解除。そして、その分の魔力を全て「対人防御用の斥力場(バリア)」へと回す。
――ズゥンッ!!
俺を中心にして、爆発的な重力波が広がった。
意図した攻撃ではない。単に、俺が「怖いから近寄るな」と念じただけだ。
だが、その余波は凄まじかった。
「ひっ……!?」
杖を振り上げていたベルンが、突然、見えない巨人の手に頭を押さえつけられたように、その場に崩れ落ちた。
ガシャーン!
ベルンの膝が床の大理石を砕く。
「あ、が……ッ!? な、なんだ、体が……動か……ッ!」
ベルンだけではない。
近くにいた使用人たちも、突風に煽られたように後ずさる。
父である公爵ですら、「うぐっ」と呻いて一歩下がった。
ロビーの空気が、重い。
物理的に、呼吸が困難なほどのプレッシャーが充満している。
その中心に立っているのは、涼しい顔をした俺だけだ。
(あ、やべ。出力間違えた)
俺は慌てて魔力を絞る。
だが、周囲の目にはそうは映らなかったらしい。
床に這いつくばり、脂汗を流しながら俺を見上げる兄。
その兄を、無表情で見下ろす美貌の弟。
「……兄上。急に座り込んで、どうなさいました?」
俺はなるべく穏便に済ませようと、手を差し伸べようとした。
だが、ベルンは「ひいっ!」と悲鳴を上げて後ずさる。その目には、明確な恐怖が浮かんでいた。
「く、来るな……! 化け物……ッ!」
化け物。
その言葉に、ロビーが静まり返る。
父が、震える声で呟いた。
「……まさか、これほどの魔圧を、無詠唱で……? バルトロス、お前、一体何を……」
説明するのは面倒だ。それに、「毎日スクワットしてました」なんて言っても信じてもらえないだろう。
俺はフッと鼻で笑うような演技をした。貴族としての余裕を見せるためだ。内心は(怒られないかな……)とドキドキしているのだが。
「少し、身軽になっただけですよ。……では、行って参ります」
俺は踵を返し、出口へと向かう。
今度は、誰も俺を呼び止めなかった。
背中に突き刺さる視線は、もはや「豚」を見るものではない。
得体の知れない「魔王」を見るような、畏怖と戦慄に満ちていた。
***
公爵家の紋章が入った豪華な馬車に揺られながら、俺は窓の外を流れる王都の景色を眺めていた。
向かいの席には、付き添いのシルヴィが座っている。彼女は先ほどから、膝の上で手を組み、俺の方を直視できずにいる。
「……シルヴィ」
「は、はいッ!」
名前を呼んだだけで、彼女は直立不動のように背筋を伸ばした。
「さっきは、やりすぎたかな」
「いえ……! ベルン様の無礼をあの一瞬で、しかも指一本触れずに制するとは……。バルトロス様の御力、このシルヴィ、感服いたしました」
「……そうか」
違うんだ。ただビビってバリア張ったら、兄さんが勝手に潰れただけなんだ。
だが、訂正するのも格好悪い。俺は黙って窓の外へ視線を戻した。
遠くに、王立魔法学園の尖塔が見えてきた。
あそこが、俺の死刑台になるはずだった場所。
そして、ゲームの主人公アレンと、ヒロインたちが集う場所。
手元のグローブを強く握りしめる。
俺の体は変わった。力も手に入れた。
だが、相手は「勇者」だ。世界を救う運命を持つ男だ。
油断すれば、首が飛ぶのは俺の方だ。
(怖いな……)
本音を言えば、今すぐにでも逃げ出して、田舎で農業でもして暮らしたい。
でも、逃げれば公爵家の追っ手がかかるし、原作のシナリオが崩壊して世界が滅ぶかもしれない。
やるしかないのだ。
「……来るなら来い、アレン」
俺は誰にも聞こえない声で呟いた。
窓ガラスに映る俺の顔は、不安など微塵も感じさせない、冷酷な笑みを浮かべていた。
顔がいいと、ビビって引きつった表情すら「不敵な笑み」に見えるらしい。
これは便利だ、と俺は少しだけ自嘲した。
決戦の地、王立魔法学園まで、あと少し。
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