第2話

 扉の向こうに、男がいる。


 私は声を落とし、ゆっくりと言った。


「……少し、来て」


 言い切りではない。

 呼び寄せるだけの、余白を残した声。


 扉が開く。

 男は私を見ると、一瞬だけ足を止め、それから距離を詰めてきた。

 視線が、顔から喉元へ落ちる。その時点で、答えは出ている。


 私は近づく。

 触れない。だが、逃げ場は残さない。


「静かにして」


 男は小さく息を飲み、頷いた。


「目を、閉じて」


 理由は言わない。

 言わないことで、相手に考えさせる。


 距離は、吐息が触れるほど。

 沈黙が長いほど、男の解釈は一つに寄っていく。


「……口を、少しだけ」


 命令ではない。

 拒否される想定もしていない。


 男は口を開いた。

 期待が混じった呼吸が、はっきりと分かる。


 私はさらに一歩、近づいた。


「舌を、出して」


 その瞬間、男は完全に誤解した。

 そう思わせる距離と沈黙を、私は選んでいる。


 鋏は、視界に入らない位置にあった。


 短い音がして、

 床に何かが落ちる。


 理解が追いつく前に、私は禁術を起動する。

 詠唱は短く、ためらいはない。

 条件は、すでに満たされていた。


 空気が、沈んだ。


 ───


 悲鳴が廊下に響く。


 扉が乱暴に開き、数人がなだれ込んでくる。

 最初に目に入るのは、私の手だ。


 血に濡れている。


 次に、床。

 そして、私自身。


 恐怖が走るのが、はっきりと分かる。

 同時に、身体が応える。


 骨格が安定し、重心が落ちる。

 力が戻る感覚。


 私は最も近い男に踏み込み、拳を振るった。

 一撃で、相手は崩れ落ちる。

 殴り潰し、意識を断つだけで十分だ。


 他の者は、動けなかった。


 ───


 部屋が静まったあと、私は洗面台で手を拭いた。

 赤はすぐに落ちる。


 服を整え、扉を出る。


 調理用の室へ向かい、人のいる場所で立ち止まる。


「料理をしてみたい」


 視線が集まる。

 誰も、近づかない。


「場所と、道具を貸してほしい」


 拒否の言葉は、出なかった。


 恐怖は、もう十分にある。




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