第3話 すべて、わすれさせて

アルバイトを始めて、一週間が経った。


 私はパン屋のレジに立っている。エプロンの紐は少し緩くて、何度か結び直した。制服の袖が手首に触れる感覚が、まだ新しい。鏡に映る自分は、少しだけ「まともに働いている人」に見えた。


 最初のうちは、何も問題はなかった。


 レジの打ち方を覚える。袋にパンを詰める。お釣りを渡す。動作は単純で、繰り返せば身体が覚える。声を出す場面も、決まった言葉ばかりだった。


 「いらっしゃいませ」

 「ありがとうございました」


 小さいけれど、声は出る。店主も、特に何も言わなかった。


 それなのに、ある日、最初の違和感があった。


 昼時で、店内が少し混み合っていた。私はレジを打ちながら、次の客に声をかけた。いつも通りのはずだった。


 「……いらっしゃいませ」


 客が眉をひそめた。


 「え?」


 聞き返される。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 「いらっしゃいませ」


 もう一度言った。少しだけ、意識して声を出したつもりだった。


 「聞こえねえよ。もっとでかい声で話せよ」


 その言葉が落ちた瞬間、店内の音が遠のいた。


 ――あれ?


 私は、その言葉に覚えがなかった。


 聞いたことがあるような気もする。でも、いつ、どこで、誰に言われたのかが分からない。胸が痛くなる理由も、分からない。


 ただ、身体だけが反応していた。


 喉が固くなる。息が浅くなる。声を出そうとすると、音が喉の奥で引っかかる。


 店主がこちらを見た。


 「……次、気をつけて」


 ため息交じりの声だった。


 私は何度も頷いた。


 仕事は続いた。ミスは増えたわけじゃない。でも、同じことが何度も起きる。


 「聞こえない」

 「ちゃんと話して」

 「何回言えば分かるの」


 その度に、胸がざわつく。


 家に帰ると、私は箱を開けた。


 怒られた場面を思い浮かべる。客の顔。声。店主のため息。次の瞬間、それらは曖昧になった。輪郭が溶けるみたいに、記憶が消える。


 胸が、軽くなる。


 翌日、私はまた店に立った。


 同じことが起きた。


 家に帰る。

 箱を開ける。

 忘れる。


 それを、何度も繰り返した。


 気づいたとき、箱はいっぱいになっていた。


 中には、紙切れや、形のない何かが溢れている気がした。でも、確かめようとしても、何が入っているのか分からない。入れたはずの記憶を、もう思い出せない。


 それでも、箱は軽かった。


 私は混乱した。


 忘れている。

 確かに、忘れている。


 なのに――。


 「どうして、また同じことになるの」


 声に出して、そう言った。


 箱は答えない。


 翌日も、私は怒られた。


 理由は分からない。ただ、怒られたという事実だけが残る。なぜ怒られたのか、何を直せばいいのかが分からない。


 声を出そうとすると、喉がひっかかる。


 私は箱を開ける。


 忘れる。


 次の日も、同じことが起きる。


 私は考えた。


 何を忘れれば、終わるのだろう。


 怒られた記憧は消えている。

 嫌な感情も消えている。

 それなのに、結果だけが繰り返される。


 「……まだ、足りないの?あとは何を消したらいいの?」


 私は箱に向かって、そう呟いた。


 答えはない。


 箱は、ただそこにある。


 私は、最後にこう願った。


 「全部、忘れさせて」


 箱を開ける。


 その瞬間、自分が何を忘れたのか、分からなくなった。


 それでも、翌日、私は店に立っている。


 レジに立ち、パンを詰め、声を出そうとする。


 喉が、ひっかかる。


 「……いらっしゃいませ」


 客が眉をひそめる。


 「聞こえねえよ」


 私は、頷いた。


 理由は分からない。

 直し方も分からない。


 ただ、また箱を開ければいいことだけは、覚えている。


 箱は満杯だった。


 それでも、静かに、機能していた。

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残響の星 綴葉紀 琉奈 @TuduhagiLuna

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