第2話 忘却
目を覚ましたとき、部屋がいつもより少しだけ明るく見えた。
カーテンは閉めたままなのに、朝の光がどこか柔らかい。気のせいだろうと思って身体を起こし、枕元に視線を落として――そこで、見慣れないものに気づいた。
小さな箱だった。
靴箱ほどの大きさで、色はくすんだ白。派手さも装飾もなく、ただそこに置かれている。誰かが持ち込んだ形跡もない。ドアは鍵をかけていたはずだ。
箱の上に、一枚の紙が乗っていた。
読みやすい、丁寧な文字。
――あなたのいらない記憶を、この箱に入れてください。
一瞬、冗談かと思った。
夢の続きかもしれない。そう考えて、頬をつねる。痛い。目も覚めている。
箱は、消えない。
私はしばらくそれを見つめていた。怖さは、不思議とない。ただ、どう扱えばいいのか分からないだけだった。触ってもいいのか、開けてもいいのか。箱は何も言わない。
深呼吸をして、私は蓋に手をかけた。
軽い。
拍子抜けするほど、簡単に開いた。
中は空っぽだった。何も入っていない。ただ、底が見えるだけ。なのに、そこを覗き込んだ瞬間、胸の奥がざわりと動いた。
――いじめの記憶。
教室。笑い声。聞こえねえよ、という言葉。
意識した途端、それがすっと遠のいた。
思い出そうとすると、指の間から砂が落ちるみたいに、形を保てない。出来事があった、という事実だけが残って、内容が掴めない。苦しく、ない。
私は慌てて、もう一度考えようとした。
誰に言われた?
いつ?
どんな顔で?
分からない。
心臓が、軽く跳ねた。
消えた。
本当に、消えている。
「……すごい」
声が、出た。
自分でも驚くくらい、はっきりした音だった。大きくはないけれど、確かに届く声。私は何度か喉を鳴らして、息を吸って、吐いた。
胸が軽い。
ずっと背負っていた荷物を、床に下ろしたみたいだった。
その日は、久しぶりに外へ出ようと思えた。
財布を持ち、靴を履く。玄関の鍵を回す音が、やけに大きく聞こえる。ドアを開けると、空気が冷たくて、少しだけ身が引き締まった。
歩く。
足が前に出る。
不思議だ。怖くないわけじゃないのに、足が止まらない。視線を下げたままでも、道は続いている。
角を曲がったところで、パン屋の前に出た。
ガラス越しに並ぶパン。焼き色。値札。香ばしい匂い。私は立ち止まり、無意識に貼り紙を見た。
――アルバイト募集。
胸の奥が、きゅっと縮む。
私が?
働く?
一瞬、笑い声の記憶が戻りかけて――戻らなかった。
理由が、出てこない。
ただ、「できるかもしれない」という感覚だけが、そこにあった。
私は店に入った。
カウンターの奥から、店主が顔を出す。年配の男性で、穏やかな目をしている。
「いらっしゃいませ」
声を出そうとして、喉が詰まらなかった。
「……あの、アルバイト募集、まだしてますか」
自分の声が、自分に返ってくる。小さいけれど、確かだ。店主は頷いた。
「してるよ。いつから来られる?」
話が進む。書類を書く。説明を受ける。私は何度も頷いた。
家に帰る頃には、少しだけ疲れていた。でも、その疲れは嫌じゃなかった。
枕元の箱を見る。
箱は、そこにある。
私はそっと蓋を閉めた。
これでいい。
忘れれば、進める。
忘れれば、私は変われる。
箱は何も言わない。ただ、静かにそこにある。
それが、今は心強かった。
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