残響の星

綴葉紀 琉奈

第1話 記憶

私の声は、小さい。


 それは昔からだ。喉が弱いとか、肺活量がないとか、そういう身体の話じゃなくて、たぶん性格の方に原因がある。声を出す前に一度「これを言って大丈夫か」と考えてしまう。その間に息が浅くなって、音は喉の奥で丸まってしまう。


 「え? 何?」


 聞き返される。


 「ごめん、もう一回」


 もう一回と言われた瞬間、声はさらに小さくなる。自分でも馬鹿みたいだと思う。大きい声を出せばいい。分かっているのに、出ない。


 だから私は、よく頷いた。笑った。曖昧に流した。相手の望む反応だけを返すようにした。


 そうすれば、波風は立たないはずだった。


 でも、波風は勝手に立つ。


 中学の頃だったと思う。教室の窓から入る光がやけに白くて、机の表面の傷がよく見えた日のことを覚えている。誰かに呼ばれた。返事をした。たぶん、した。


 「は?」


 誰かが言った。


 「無視?」


 無視じゃない、と言おうとした。口は動いた。けれど音が出たかどうかは覚えていない。覚えているのは、その後に起こった笑い声だけだ。笑いは連鎖する。理由が曖昧なほど、よく伸びる。


 「声ちっさ」


 「聞こえねえ」


 「キモ」


 それが、いじめの始まりだったのか、ただのきっかけだったのか、もう分からない。


 最初は「聞こえないから大きい声で言って」だった。注意の形をしていた。次に「もう一回言ってみ?」になった。冗談の形になった。最後は、私が何か言おうとするだけで誰かが息を吸い、笑う準備をした。


 私は何も言えなくなった。


 授業で当てられても、声が出ない。先生が眉を寄せる。周りがざわつく。誰かが「聞こえねえよ」と言って笑う。先生は注意するけれど、私の方を見る目は苛立っている。


 「ちゃんと答えなさい」


 ちゃんと、って何だろう。


 声を出すだけで、心臓が痛くなる。喉が熱くなる。息が詰まって、自分の鼓動だけが大きくなる。私は答えを知っているのに、出てこない。成績だけはそれなりだった。だから余計に、「できるのにやらない」「ふざけてる」と思われた。


 家に帰ると、母はいつも通りだった。


 「今日、学校どうだった?」


 聞かれて、私は「普通」と言った。小さく。母は聞き返した。


 「え?」


 その一言だけで、胸の奥が冷える。


 私は笑って、首を振って、部屋に戻った。


 それからは、少しずつ外に出なくなった。学校に行く回数が減り、授業の内容が遠くなり、部屋が私の世界になった。スマホの画面だけが、私に話しかけてくる。画面の中では、声は必要なかった。文字ならいくらでも書けた。

 SNSに並ぶ140字だけが私の救いだった。


 気づけば、二十歳を過ぎていた。


 成人式の写真がSNSに流れてくる。晴れ着、笑顔、集合写真。知らない人たちの幸福そうな顔が、私の部屋にまで入り込んでくる。その度に、胸の奥に重いものが溜まる。


 ――私は、こんなふうになるはずじゃなかった。


 いじめなんかに、あの人たちにあったせいで私はこんなふうになってしまった。


 今画面の中で、晴れ着で笑っている人は私だったかもしれないのに。


 だから、ある夜、布団の中でふと思った。


 もし、あの時いじめに遭った記憶さえなければ。


 もし、あの笑い声を、あの教室の空気を、あの「聞こえねえよ」という言葉を、私が知らなかったら。


 私はもう少し、普通に生きられたのかな。


 自分に自信を持てたのかな。


 外へ出られたのかな。


 誰かと話せたのかな。


 そう考えた瞬間、胸の奥の重さが、少しだけ形を持った。


 「忘れたい」


 声に出したつもりだった。


 けれど、部屋は静かだった。


 私の声が小さいのか、それとも本当に何も出ていないのか、分からない。耳を澄ませても、自分の音は聞こえない。ただ、窓の外の車の走る音と、どこかの家のテレビの笑い声だけが聞こえた。


 私は目を閉じた。


 忘れたい。


 理由も、正しさも、誰が悪かったのかも、もうどうでもいい。


 ただ、あの記憶がなければ、私は――。


 眠りに落ちる直前、何かがひとつだけ、確かにほどけた気がした。


 それが願いだったのか、諦めだったのか、まだ分からない。

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