第9話:ボス討伐
扉が開いた。
そこは広すぎた。天井は遥か彼方、闇に溶け込んで見えない。壁には無数の松明が掲げられているが、その明かりさえも広大な闇に飲み込まれそうになっている。赤い光が揺れ、影が踊る。
床は黒曜石。磨き上げられた鏡のように黒く、そして硬い。所々に走る亀裂からは硫黄の蒸気が噴き出し、シューシューという音を立てている。地獄の釜の蓋の上だ。
部屋の中央にそれはいた。
九頭蛇ヒュドラ。
伝説の魔物。全長二十メートルなどという生易しいものではない。とぐろを巻いたその姿は小山のように巨大で、圧倒的な質量を持って空間を支配している。
九つの頭が独立して鎌首をもたげている。それぞれの首が巨木のように太い。毒々しい深緑色の鱗が、松明の光を反射して濡れたように光る。鱗の一枚一枚が盾のように分厚く、隙間がない。
十八の眼球が一斉にこちらを見た。
爬虫類特有の縦に割れた瞳孔。そこに感情はない。あるのはただ、餌を見る冷徹な食欲と、縄張りを荒らされた激しい怒りだけ。
視線だけで殺される。肌が粟立つ。本能が「死」を警告する警報を鳴らし続ける。
ゴオオオオオオオォォォォォ!
九つの頭が一斉に咆哮した。
空気が破裂する。衝撃波が物理的な壁となって四人を襲う。床が割れ、天井から岩が降ってくる。鼓膜が悲鳴を上げ、奥でキーンという耳鳴りが続く。内臓がシェイクされるような振動。胃の中身が逆流しそうになる。
声だけで殺傷力がある。生物としての格が違いすぎる。
「ひっ……! あ、ああ……!」
ミオが尻餅をついた。失禁しそうな恐怖。顔色が土気色になり、唇が紫色に震えている。喉からヒューヒューという音が漏れる。過呼吸だ。
ルナが杖を取り落とす。カランという乾いた音が絶望を強調する。両手で口を覆い、ガタガタと震えている。歯の根が合わない。カチカチという音が響く。
セリアの剣が揺れている。全身から冷や汗が噴き出している。瞳孔が開ききり、焦点が定まっていない。
「無理だ……Aランク……いやそれ以上……Sランク……」
セリアが後ずさる。ブーツが床を擦る音さえ怯えている。
「逃げるぞ! 今すぐ! 走れ! 振り返るな!」
セリアの絶叫。
四人が背を向け、扉に向かって走り出した瞬間。
ズドォォォォォォン!
背後の扉が落ちてきた。
千トンの岩が落ちたような衝撃。地面が跳ね上がり、四人は転倒した。
退路が断たれる。完全な密室。処刑場。
セリアが這うようにして扉に近づき、体当たりする。
ガンッ!
びくともしない。剣の柄で叩く。火花が散るだけ。爪を立てて扉の隙間をこじ開けようとする。爪が剥がれ、指先から血が滲む。石の扉に赤い手形がつく。
「開かない……! くそっ! 開け! 開いてよ! お願いだから!」
セリアの絶叫が虚しく響く。あんなに冷静だったリーダーが、子供のように泣き叫んでいる。その姿が絶望を加速させる。
ヒュドラが動き出した。
ズズズ……という地響き。山が動くような質量感。床が悲鳴を上げる。一歩進むごとに地面が揺れ、硫黄の蒸気が激しく噴き出す。
腐った肉と猛毒の臭いが鼻を突く。息をするだけで肺が焼けるようだ。
絶望。
圧倒的な死の予感。
アリサは震えていた。
怖い。死にたくない。膝がガクガクして力が入らない。胃液が喉まで上がってきている。
でも。
ミオが震えながら杖を拾ったのが見えた。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも杖をヒュドラに向けている。
ルナが震える手で聖印を握りしめている。
私がやらなきゃ。
私が守らなきゃ。みんな死ぬ。
その思いだけが、凍りついた体を動かす熱源になる。恐怖を怒りに変える。
「戦いましょう」
アリサの声は震えていたが、意思は硬かった。
斧を握る。指が白くなるほど強く。手の皮が剥けるほど強く。柄がきしむ音がする。
「アリサ……」
セリアがハッとしてアリサを見る。
その目に光が戻る。涙で濡れた瞳に、戦士の火が灯る。恥辱と後悔、そして決意の色。
「……そうだな。ここで死ぬくらいなら、足掻いてやる。肉片になっても噛み付いてやる。泥を食わせてやる」
セリアが剣を構え直す。
震えが止まる。覚悟を決めた戦士の顔。脂汗と涙を袖で乱暴に拭う。
「作戦を立てる。首を切っても再生する。だが焼き払えば再生しないはずだ。私が囮になる。アリサが切り、ミオが焼く。ルナはサポート」
「セリアさんが危険すぎます!」
「やるしかない。みんな、死ぬ気でやれ! 魔力が空になっても、血を吐いても撃ち続けろ!」
ヒュドラの三つの頭が襲いかかってきた。
速い。巨体に見合わぬ速度。鞭のようにしなる首。
ヒュン!
空気を裂く音。鎌首をもたげた蛇が弾丸のように迫る。
「散開!」
四人が四方へ跳ぶ。
直後、床が粉砕された。
ドゴォォォン!
爆心地のようなクレーターができる。石礫が散弾のように飛び散る。
セリアが叫びながら正面へ走る。
「こっちだ化け物! 私を見ろ! ここだ!」
五つの頭がセリアを追う。赤い眼球が一斉にセリアを捉える。涎が雨のように降り注ぐ。
アリサは右から回り込む。
一番端の頭。首筋。鱗の隙間。
踏み込む。
斧を叩き込む。
ガキィン!
硬い。鉄の塊を叩いた感触。衝撃が骨を伝わり肩まで痺れる。斧が弾かれる。
でも鱗が割れた。
もう一度。
渾身の力。
ガキッ!
肉に食い込む。
ガキッ!
血が出る。黒い血。酸の臭い。
別の頭がアリサに気づく。
鎌首をもたげ、大口を開ける。牙の列。噛みつかれる。
セリアが飛び込み、目を突いた。
ギャオオオ!
怯んだ隙にアリサが踏み込む。
渾身の一撃。
ザシュッ!
首が落ちる。ドスンという地響き。
断面からどす黒い血が噴水のように吹き上がる。
「ミオ! 焼け!」
ミオが前に出る。杖を突き出す。
「ファイアボルト! ファイアボルト!」
初歩的な火球魔法。
威力は弱い。だから焼くには数発を要する。
ボッ! ボッ!
肉が焼ける嫌な臭い。傷口が炭化するまで、何度も何度も火球を打ち込む。
再生が止まる。
「いける! 次! 次!」
ミオが叫ぶ。顔が煤と血で汚れている。
だがヒュドラが激昂した。
残り八つの頭が一斉に咆哮する。
八つの頭が一斉にブレスを吐く。
炎。氷。毒霧。酸。雷。
地獄絵図。
炎が床を溶岩に変える。氷が空気を凍らせる。毒が視界を奪う。
逃げ場がない。全方位からの飽和攻撃。
「ルナ!」
「プロテクション! 展開!」
ルナが絶叫した。
四人の前に薄い光の壁が現れる。
初歩的な防御魔法。ブレスを防げるような代物じゃない。
ドゴォォォ!
ブレスが壁に衝突する。
ミシッ。
壁にヒビが入る。
「う、ぐぅぅぅっ!」
ルナが歯を食いしばる。杖を両手で握りしめ、全身の魔力を注ぎ込む。
魔力の許容量を超える負荷。
ルナの鼻からツーと血が流れる。毛細血管が切れる。
脳みそが沸騰するような頭痛。
それでも維持する。
パリン。
壁が砕けた。
だが、ブレスの勢いは殺がれた。
四人は吹き飛ばされたが、直撃は免れた。
ルナが地面に転がる。白目を剥きかけている。
「今だ! 反撃!」
セリアが走る。
アリサは二つ目の頭に飛びついた。
斧を振るう。無心で。
首を落とす。
「ファイアボルト! ファイアボルト!」
ミオが走る。息が上がっている。
傷口に火を放つ。
一発では焼けない。二発、三発。
魔力消費が激しい。
ミオの額から冷や汗が流れる。視界がチカチカする。
敵の攻撃は止まない。
ヒュドラの尾が薙ぎ払われる。
避けられない。
「プロテクション!」
倒れていたルナが杖を掲げる。
咄嗟にセリアを守る。
ガキン!
尾が弾かれる。セリアは無事だが、衝撃のフィードバックがルナを襲う。
ルナが口から血を吐く。内臓への負担。
「ルナさん!」
「構わないで! 前を見て! 殺して!」
ルナが叫ぶ。血まみれの口元で叫ぶ。
ミオも止まらない。
残りの頭が次々と襲ってくる。
噛みつき。体当たり。
ミオは走りながら魔法を連射する。
「ファイアボルト! ストーンバレット!」
ありったけの初歩魔法。
威力はない。だが目潰しにはなる。
的確にヒュドラの目を狙い、鼻先を焼く。
一発撃つごとにミオの顔色が白くなる。
魔力枯渇の頭痛。脳みそを紙やすりで削られるような痛み。
喉が裂けるほど詠唱を繰り返す。
「来ないで! あっち行ってよ! みんなに触るな!」
恐怖を魔力に変えて叩きつける。
杖を持つ手が震える。指の感覚がない。
その援護のおかげで、アリサとセリアは動ける。
三つ目の頭を切り落とし、焼く。
泥沼の消耗戦。
代償は大きかった。
セリアが右腕を噛まれた。牙が貫通している。ボキリという骨が砕ける音が聞こえた。
アリサも背中を尾で叩かれた。肋骨が何本か折れている。息をするだけで激痛が走る。内臓に刺さっているかもしれない。口の中に鉄の味が広がる。血反吐を吐く。
ミオは魔力を使いすぎて目が充血している。鼻血が止まらない。立っているのがやっとだ。
ルナは何度もヒールとプロテクションを使い、意識が飛びかけている。地面を這いながら杖を掲げている。
残り6つ。
絶望的な数字。
ヒュドラはまだ元気だ。再生こそしていないが、傷ついた様子がない。体力が底なしだ。
こちらは満身創痍。
「まだだ……まだ終わってない……」
セリアが左手一本で剣を構える。
「ルナ! 動けるか!」
「やります……!」
ルナが最後の魔力を絞り出す。命を削る。
ヒール。
セリアとアリサに回復魔法をかける。
ルナが倒れた。意識を失った。これ以上は死ぬ。
「ルナが繋いでくれた! 行くぞ!」
セリアが叫ぶ。
4つ目の頭。
セリアが囮になり、アリサが切る。
だが反応が遅れた。疲労で足が動かない。
別の頭がアリサの背後から迫る。音もなく。
「させない!」
ミオが前に出た。
杖を突き出す。魔力はもうない。
ただの魔力放出。暴発に近い。
「うわあああああ!」
ミオの杖が発光し、爆発した。
ヒュドラの顔面が焼ける。
だがミオ自身も爆風で吹き飛ばされる。
壁に激突し、ミオがぐたりとなる。杖が砕け散っている。
ミオの体が動かない。
「ミオ!」
アリサが叫ぶ。
その隙にセリアが割り込んだ。
ドガッ!
セリアが弾き飛ばされ壁に激突する。
ぐしゃりという嫌な音。
セリアが地面に落ちる。動かない。
血だまりが広がる。
「セリアさん!」
ルナも、ミオも、セリアも。
みんな倒れた。
魔力が枯れるまで、血を吐くまで、骨が砕けるまで、私を守ってくれた。
アリサの中で何かが切れた。
プツンという音。
理性の糸。恐怖のリミッター。人間としての枷。
視界が赤く染まる。
恐怖が消え、純粋な殺意だけが残る。ドロドロとした熱い殺意。
斧を捨てる。刃こぼれして使い物にならない。ただの鉄屑だ。
拳を握る。爪が掌に食い込み血が出る。
体中の血液が沸騰する感覚。
心臓が早鐘を打つ。
ドクン。ドクン。ドクン。
エンジンの回転数が限界を超えるような音。血管がきしむ音。
腹の底から熱い奔流が湧き上がる。魔力。生命力。魂そのもの。
緑色の光がアリサの体を包む。オーラのように立ち昇る。
血管が浮き上がる。筋肉が膨張する。皮膚が裂けるほどのエネルギー。
ミオの炎よりも熱く、ルナの光よりも濃密なエネルギー。
「……殺す」
アリサは呟いた。低い、地を這うような声。
ヒュドラがアリサを見た。5つの頭が警戒するように鎌首をもたげる。
本能的な恐怖を感じているのだ。獲物が捕食者に変わった瞬間。
アリサは跳んだ。
人間離れした跳躍。床が踏み込みで砕ける。爆発的な加速。
天井近くまで舞い上がる。
時間が止まって見える。
眼下にはヒュドラ。巨大な的。
右拳に全魔力を集中させる。光が凝縮され、空間が歪む。空気がビリビリと震える。重力が歪む。
拳が重い。星を持っているような重さ。
落下。
流星のような一撃。大気圏突入のような熱と圧力。
「おおおおおおおおっ!」
喉が裂けるほどの絶叫。魂の咆哮。
ドゴォォォォォォォォォン!
拳がヒュドラの胴体中央に突き刺さった。
接触した瞬間、世界が白く染まった。音さえも置き去りにする衝撃。
爆発。
衝撃波が部屋を揺らす。壁の松明が吹き飛ぶ。
魔力の奔流がヒュドラの体内を駆け巡る。細胞の一つ一つを破壊し、分解し、消滅させていく。
鱗が蒸発する。
肉が霧散する。
骨が粉になる。
内臓が沸騰し気化する。
アリサの拳から放たれた破壊のエネルギーが、ヒュドラの巨体を貫通した。
胴体に直径五メートルの風穴が開いた。
綺麗な円形の穴。向こう側の壁が見える。
心臓ごと消滅している。切断面すら焼き焦げている。血の一滴も残らない完全な破壊。
ヒュドラの動きが止まる。
5つの頭が力を失い、糸が切れたように垂れ下がる。
目から光が消える。
ズズズゥゥン……。
巨体が崩れ落ちた。地響き。砂煙。
アリサは膝をついた。
右腕の感覚がない。
皮膚が裂け、筋肉が断裂し、白い骨が見えている。血が滴り落ちる。
魔力を使い果たし、意識が遠のく。
視界が暗くなる。
勝った。
それだけを確認して、アリサは闇に沈んだ。
……。
…………。
「……サ……アリサ……!」
遠くから声が聞こえる。
泣き声。
温かい滴が顔に落ちる。
重い瞼を開ける。睫毛が震える。
セリアが泣きながら顔を覗き込んでいた。
血と埃と涙でぐしゃぐしゃの顔。美しい顔。
「セリア……さん……」
掠れた声。喉が痛い。鉄の味がする。
「馬鹿! 死んだかと思ったじゃないか! 馬鹿!」
セリアが抱きついてくる。痛い。肋骨が軋む。でも温かい。
セリアの心臓の音が聞こえる。体温が伝わってくる。
ミオもルナも泣いている。三人ともボロボロだ。でも生きている。
ルナが震える手でヒールをかけてくれる。
もう魔力なんて残っていないはずなのに、命を削って魔法を使っている。
温かい光。右腕の傷が塞がっていく。肉が盛り上がり、皮膚が再生する痒み。痛みは残るが、腕は繋がった。
セリアがヒュドラの死体を指差した。
風穴が開いた巨体。その傍らに宝箱が出現している。黄金の輝き。
そして部屋の中央に青白い魔法陣。
帰還のポータルだ。静謐な光。
「帰れる……」
誰かが呟いた。
四人は支え合いながら立ち上がった。足が震える。互いの肩を貸し合う。
宝箱を開ける。
中には心臓の欠片。深緑色に輝く巨大な鱗。伝説級の武具。
炎を纏った長剣。魔力を増幅する宝珠のついた杖。加護の首飾り。そして漆黒の大斧。
アリサは新しい斧を手に取った。ずっしりと重いが、手に吸い付くように馴染む。これなら、もう折れない。
魔法陣に乗る。
光に包まれる。浮遊感。
泥のような疲労感と共に、安堵が押し寄せる。
次の瞬間、一階層の広場に立っていた。
眩しい太陽。午後の日差し。目が眩む。
喧騒。街の匂い。焼き菓子の匂い。人々の笑い声。
平和な日常の音。
冒険者たちが驚愕の表情でこちらを見ている。
血まみれの四人。服はボロボロ、肌は泥だらけ。そして手には伝説の武具。
地獄から帰還した者たちの異様な迫力。
「帰還のポータルだ……!」
「ボスを倒したのか……!?」
「あのDランクの嬢ちゃんたちが……?」
ざわめきが波紋のように広がる。
「生還したぞ!」
誰かが叫んだ。
歓声が上がる。拍手。指笛。
セリアがアリサの肩に顔を埋めて泣き出した。緊張の糸が切れたのだ。
あの強いセリアが、子供のように声を上げて泣いている。震える肩。
アリサも涙が止まらなかった。
生きて帰れた。
みんなと一緒に。
四人は強く抱き合った。
お互いの体温を確かめ合うように。
汗と血と涙の味がした。
鉄の味。塩の味。
それが生きている味だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます