第7話:石の翼

 無限に続くかと思われた螺旋階段。

 何千段登っただろうか。

 アリサの太腿はすでに感覚を失っていた。筋肉が熱を持ち、焼けるように痛い。

 一段踏み込むたびに膝が折れそうになる。

 前のめりになりながら、四つん這いに近い姿勢で足を運ぶ。


 前を行くセリアの呼吸が荒い。

 ヒュー、ヒューという乾いた音。背中の革鎧が汗で濃い色に変色している。そこから立ち昇る蒸気のような熱気。汗と鉄の臭いが鼻をつく。

 後ろのルナが苦しげな咳をした。杖をつく音が不規則だ。カツン、カツン、と石を叩く音が虚ろに響く。

 ミオは無言だ。アリサの手を握る力が弱まっている。限界が近い。


 ようやく踊り場に出た。

 四人は崩れ落ちるように足を止めた。

 そこはまだ地獄の延長だった。

 薄暗い通路。黒曜石の壁。不気味な紋様。

 落ちた場所よりは少しだけ明るいが、空気の重さは変わらない。肌にまとわりつく湿気。カビと鉄の臭い。

 遠くから咆哮が聞こえる。

 獣の声ではない。もっと硬質な、岩が擦れ合うような低い音。


 セリアが剣を構えたまま呼吸を整える。肩で大きく息をしている。


「……まだ深い。気配が濃厚すぎる。気を抜くな」


 アリサは壁に手をついて深呼吸をした。

 肺が痛む。酸素が薄い気がする。

 さっきのデスナイト戦で全身の筋肉が断裂しかけている。背中の痛みはルナの魔法で表面上は消えたが、疲労という鉛が骨の髄にへばりついている。

 指先が震えて止まらない。

 でも止まれない。

 止まれば死ぬ。


「進もう。上へ。一歩でも上へ」


 セリアの声は冷静さを装っているが掠れていた。


 四人は歩き出す。

 足音が重い。ブーツが石畳を擦る音。

 ミオがアリサの袖を掴んだ。指が白い。爪の色が悪い。


「アリサちゃん……大丈夫? 私……足が……」


 ミオの声が震えている。涙で濡れた目がすがるようにアリサを見ている。

 アリサは無理に口角を上げた。頬の筋肉が引きつる。


「大丈夫。私が背負ってでも連れて帰るから」


 嘘だ。自分の体さえ支えるのがやっとだ。腕は鉛のように重い。斧の柄を握る指が痺れて感覚がない。

 ルナが後ろから声をかけた。


「無理しないで。私の魔力はまだあるわ。……少しだけなら」


 その言葉だけが救いだった。


 通路が終わり、巨大な空間に出た。

 高い天井。闇に溶け込んで見えない。

 巨大な石柱が何本も林立している。神殿の廃墟のようだ。

 壁の松明の光が長い影を落とし、その影が生き物のように揺らめいている。


 セリアが足を止めた。

 耳を澄ます。

 静寂。

 いや、違う。微かな音。


 ジャリ。ジャリ。


 石と石が擦れる音。

 上だ。


「……何かがいる」


 その時。

 頭上から羽ばたく音が聞こえた。

 バサッ。バサッ。

 鳥の羽音ではない。重い質量のある物体が空気を叩く音。風圧が肌を打つ。


 セリアが見上げる。目が大きく見開かれる。


「上だ! 散開しろ!」


 天井の闇から影が降ってきた。

 石の塊。

 五体。


 ドスン! ドスン! ドゴォン!


 重い着地音。石の体が床を砕く。破片が飛び散りアリサの頬を打つ。痛い。

 土煙の中から現れたのは悪夢だった。

 石の翼を持つ人型の魔物。ガーゴイル。

 灰色の石のような皮膚。筋肉の隆起まで石で再現されている。鋭い鉤爪。牙を剥き出しにした醜悪な顔。赤い目が爛々と輝いている。

 無機質で冷酷な殺意。


「ガーゴイル……五体も……!」


 ミオが悲鳴に近い声を上げた。腰が抜けて座り込む。

 ガーゴイルたちが首を回す。ギギギという不快な音。

 五体が四人を包囲するようにじりじりと広がった。


 アリサの心臓が早鐘を打つ。口の中が乾ききって舌が張り付く。

 デスナイトとは違う。速い。そして硬い。

 今の消耗した状態で勝てる相手じゃない。

 でも逃げ場はない。


「囲まれた。やるしかない」


 セリアが剣を正眼に構える。切っ先が震えているのを左手で抑え込む。


「アリサ前衛。ミオとルナは後ろ。私が隙を作る。関節を狙え。石の体でも継ぎ目は脆い」


 的確な指示。だが声に余裕はない。死を覚悟した声だ。

 アリサは斧を握りしめた。手汗で滑る。服で手を拭い、握り直す。

 怖い。

 足が竦む。

 でも。

 後ろにはミオがいる。ルナがいる。そして隣には憧れのセリアがいる。

 私がやらなきゃ。私が壁にならなきゃ。

 使命感が恐怖をねじ伏せる。下腹に熱いものが溜まる。


「みんな、生きて帰ろう」


 アリサの言葉に三人が頷く。


「行くぞ!」


 セリアとアリサが同時に飛び出した。

 ガーゴイルたちが翼を広げ滑空してくる。速い。石の塊が弾丸のように迫る。


 戦闘開始。


 先頭のガーゴイルが急降下してくる。鉤爪が顔面を狙う。

 アリサは地面を転がって避けた。髪の毛数本が切り飛ばされる。

 爪が石畳を引き裂く音。火花が散る。焦げ臭い匂い。

 着地の隙。

 アリサは足元に斧を叩き込んだ。


 ガキン!


 硬い。

 想像を絶する硬度。石に弾かれる感触。

 手首に電流のような痺れが走る。骨がきしむ。斧を取り落としそうになる。

 ガーゴイルが翼で殴りかかってくる。

 ただの石板での殴打だ。

 アリサは斧の柄で受けた。

 ドゴッ。

 重い。内臓が揺れる。

 翼の先端がアリサの脇腹を掠める。服が裂け、皮膚がめくれる。熱い痛み。血が滲む。


「関節だ! 継ぎ目を狙え! 闇雲に叩くな!」


 セリアが叫ぶ。

 セリア自身も苦戦していた。剣が弾かれ火花が散る。剣先が欠けている。

 セリアは剣を滑らせるようにして肩の付け根を突いた。


 ガリッ。


 嫌な音。黒板を爪で引っ掻いたような音。石が削れる粉っぽい臭い。

 ガーゴイルが金切り声を上げる。ガラスを擦り合わせたような不快な悲鳴。


「ファイアボルト!」


 ミオの援護射撃。炎が一体を包む。熱波が顔を焼く。

 その隙にアリサは目の前の敵の足首を狙った。

 一撃。

 ガキッ!

 まだだ。

 二撃。

 ガキッ!

 ヒビが入る。

 三撃。

 一点集中。浑身の力。


 バキン!


 砕けた。

 ガーゴイルがバランスを崩し膝をつく。

 今だ。

 首。頭と胴体の継ぎ目。

 アリサは獣のような声を上げて斧を振り下ろした。


 ザシュッ!


 首が飛ぶ。石の塊が転がる音。ゴロン、ゴロン。

 一体撃破。

 だが残り四体。

 息つく暇もない。


 二体目と三体目が同時に襲ってくる。

 空中からの立体機動。死角からの強襲。


「アリサ左! 私は右!」


 セリアの指示。

 アリサは左へ跳んだ。遅れた。

 爪が頬を掠める。熱い。血が飛んで視界が赤くなる。

 構わない。

 着地したガーゴイルの背後に回る。

 膝裏。

 斧を叩き込む。

 筋肉が断裂しそうなほど力を込める。血管が浮き上がる。


 ガキッ! ガキッ!


 膝が砕ける。前のめりに倒れる敵。

 トドメを刺す余裕はない。倒れた敵の頭を踏みつけ、次の敵を見る。


 右側ではセリアが血を流していた。

 腕を切り裂かれている。鮮血が滴り、剣の柄を濡らす。


「セリアさん!」


 アリサが叫ぶ。


「構うな! 目の前の敵を見ろ! 集中しろ!」


 セリアが叫びながら剣を振るう。鬼気迫る形相。

 肘関節を砕く。正確無比な突き。

 ガーゴイルの腕がだらりと下がる。

 セリアは返す刀で首の継ぎ目を貫いた。

 二体目沈黙。


 残り三体。

 アリサの息が上がる。ゼーゼーと喉が鳴る。肺が焼けるように熱い。口の中が血の味でいっぱいだ。腕が鉛のようだ。斧が重い。

 セリアも肩で息をしている。額から汗と血が流れている。足が震えている。


 三体が同時に空へ舞い上がった。

 上空からの包囲網。

 急降下の運動エネルギーを利用した特攻。


「柱を使え! 真ん中に集まれ!」


 セリアの指示で四人が太い柱の影に滑り込む。

 爪が柱を削る音。ガリガリガリ。

 石飛礫が散弾銃のように降り注ぐ。顔を守る。腕に石が突き刺さる。

 柱を盾にして死角へ回り込む。

 着地した一瞬の隙。

 アリサは一番近くの敵に飛びかかった。

 翼の付け根。


 ガキィン!


 翼を砕く。飛べなくなったガーゴイルが地面でのたうち回る。

 アリサは馬乗りになった。

 石の冷たさが内腿に伝わる。

 斧を振り下ろした。

 何度も。何度も。

 理性が飛ぶ。ただの暴力装置になる。


 ガキッ! グシャッ! バキッ!


 首が潰れるまで叩く。石の粉が舞い目に入る。涙が出る。

 三体目撃破。


 だがセリアが追い詰められていた。

 背後を取られた。

 ガーゴイルの爪がセリアの背中を深々と引き裂く。

 革鎧が紙のように裂け、白い肌に赤い線が走る。肉がめくれる。


「ぐっ……!」


 セリアが膝をつく。苦悶の声。


「セリア!」


 ルナの悲痛な叫び。


「ヒール! ヒール!」


 光がセリアを包む。傷が塞がる速度よりも血が出る速度が速い。

 セリアが立ち上がる。ふらついている。

 失血。


「ありがとうルナ……! まだやれる!」


 残り二体。

 ミオが叫ぶ。杖を掲げる手が震えている。


「ファイアボルト! ファイアボルト!」


 二連射。魔力が尽きかけの火球。炎が小さい。

 それでも目くらましにはなる。

 炎に包まれたガーゴイルが怯む。


 アリサは跳んだ。

 もはや斧を振るう力も残っていない。

 空中のガーゴイルの足首を素手で掴む。

 全体重をかけて引きずり下ろす。

 重力に任せて地面に叩きつける。


 ドガン!


 衝撃でガーゴイルの翼が折れる。

 アリサは膝をつき、渾身の力で斧を落とした。

 膝に。

 ガキッ!

 砕く。

 立てない敵の首を斧の刃ではなく、峰で叩き潰す。

 四体目撃破。


 最後の一体。

 セリアと対峙している。

 セリアの動きが鈍い。疲労の極致。剣先が下がっている。足元がおぼつかない。

 ガーゴイルが爪を振り上げる。死刑執行の合図。


「セリアさん!」


 アリサが叫ぶ。足がもつれる。間に合わない。

 ミオが最後の力を振り絞った。鼻血を流しながら。


「フラッシュ!」


 閃光。

 ガーゴイルが一瞬動きを止める。

 そのコンマ一秒の隙。

 セリアが踏み込んだ。

 残りの全精力を込めた突き。命を削る一撃。

 肩の関節を貫く。

 ガーゴイルの腕が止まる。


 アリサが滑り込む。

 摩擦で膝の皮が剥けるのも構わずスライディング。

 足首を薙ぎ払う。

 体勢を崩したガーゴイルの首に、アリサの斧とセリアの剣が同時に突き刺さった。


 ザシュッ!


 首が飛ぶ。

 石の頭部が転がり、セリアの足元で止まった。

 最後の一体が崩れ落ちた。


 終わった。

 静寂。

 石粉の舞う音。

 荒い呼吸音だけが響く。ヒュー、ヒュー。


 アリサはその場にへたり込んだ。

 斧が手から滑り落ちる。カランという乾いた音。

 指が痙攣して動かない。爪が割れて血が滲んでいる。

 全身が痛い。打撲、切り傷、擦り傷。汗と埃と血にまみれている。

 セリアも膝をつき肩で息をしている。背中の傷跡から滲む血が止まらない。


「ヒール……ヒール……」


 ルナがふらつく足取りで近づく。顔色が死人のように白い。

 二人に魔法をかける。

 光が淡い。蛍の光のようだ。ルナの魔力も限界だ。

 傷は塞がるが、疲労は消えない。失った血液は戻らない。体が泥のように重い。


「ありがとう……ルナさん……」


 アリサが掠れた声で礼を言う。


 ミオが座り込んでいる。白目を剥きかけている。魔力欠乏による眩暈と吐き気。

 セリアが剣を杖にして立ち上がった。足が小鹿のように震えている。

 倒れたガーゴイルの残骸に近づく。

 胸から赤い石が浮かび上がっている。

 五つの魔石。


「……また出たか」


 セリアが一つ一つ拾い上げる。

 拳大の魔石。赤い輝き。

 袋に入れる。重い音がする。ジャラリ。


「やったね……私たち、すごい……」


 ミオが虚ろな目で笑う。限界ギリギリの笑顔。涎が垂れているのを拭う力もない。


「ああ。でも……まだ終わってない」


 セリアが気を引き締めるように言ったが、その声には疲労の色が濃い。

 汗で濡れた髪が頬に張り付いている。頬に血がついている。

 そのボロボロの姿が、どうしようもなく色っぽく見えた。

 生への執着がにじみ出ている。


「安全な場所を探す。休まないと……全員死ぬ」


 四人はよろめきながら歩き出した。

 足を引きずる音。ズリ、ズリ。

 アリサはセリアの肩を借りる。セリアの体温が異常に高い。

 ミオはルナに支えられている。

 互いの体温と汗の臭い。鉄の臭い。

 生々しい生存の感触。

 肌が触れるたびに、生きていることを確認し合う。


 やがて小さな部屋を見つけた。

 鉄の扉がついている。倉庫のような場所。

 中は狭いが魔物の気配はない。埃っぽい乾燥した空気。

 セリアが壁を叩き罠を確認する。コンコン。


「……大丈夫だ。ここで休む」


 四人は部屋に倒れ込むように入った。

 扉を閉める。重い閂を下ろす。

 ガチャン。

 外界との遮断。

 狭い密室。

 四人の荒い呼吸音と熱気が瞬く間に充満する。

 むせ返るような女の臭い。


 まだここがどの階層なのかはまだ分からない。

 上に戻る道はまだ遠い。


 でも4人は諦めなかった。束の間の休息を取り、再び歩き出すために。


 生き延びるために。

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