第6話:脱出

 四人は歩き出した。

 一歩一歩が重い。足裏から伝わる冷気が骨まで染みてくる。

 周囲は漆黒。壁に取り付けられた古い松明が頼りなく揺れている。炎が青白い。

 遠くから聞こえる咆哮。重低音。腹の底が共鳴して震える。


 アリサはミオの手を握りしめていた。

 ミオの手は氷のように冷たい。震えている。小刻みな振動がアリサの腕に伝わってくる。

 アリサ自身の心臓もうるさい。肋骨を裏側から蹴り上げているようだ。喉が渇く。唾液が出ない。


「私がついてるから」


 アリサが耳元で囁く。自分の声も震えているのが分かる。

 ミオが小さく頷き身を寄せてきた。柔らかい腕の感触。恐怖で強張った筋肉。


 セリアが前を歩く。剣を正眼に構えたまま一歩も気を抜かない。背中の筋肉が張り詰めているのが服の上からでも分かる。脂汗の臭いがした。

 ルナが最後尾を守る。杖を握る指が白くなっている。時々振り返り闇を睨む。その瞳にはいつもの慈愛はなく、生存への渇望だけがある。


 通路は異様だった。

 壁は黒曜石。濡れたように黒光りしている。所々に刻まれた不気味な紋様。見ているだけで視界が歪むような錯覚。

 床には乾いた黒い染み。血だ。

 散乱する瓦礫。壊れた武器。防具の破片。

 へし折れた長剣。ひしゃげたフルプレートメイル。粉々になった盾。

 どれも高価な装備だ。かつてここにいた実力者たちの末路。死の跡形。


 アリサは息を飲んだ。肺が痛い。

 ここで何が起きたのか。どんな暴力が振るわれたのか。

 想像するだけで膝が笑う。


「……こんな場所で……」


 セリアの声が掠れている。Dランクの自分たちには場違いな場所。食物連鎖の最下層。

 セリアが剣を握り直す。革手袋が軋む音。


 ミオが爪が食い込むほど強くアリサの手を握った。痛み。でもその痛みが現実を繋ぎ止めている。


「アリサちゃん……帰れるかな……」

「帰れる。絶対に」


 アリサは短く答えた。言葉にすることで自分を騙す。


 セリアが立ち止まり地図を開くふりをした。ここには地図などない。ただの確認動作。心を落ち着けるための儀式。


「とにかく階段を探す。上へ。それだけだ」


 セリアの瞳が揺れている。


「魔物との戦闘は避ける。音を立てるな。気配を消せ。遭遇したら逃げる。逃げられないなら……」


 セリアが唇を噛んだ。血が滲む。


「死ぬ気で殺すしかない」


 重い沈黙。

 誰も言葉を発しない。遠くから聞こえる咆哮が空気を振動させる。


「行くぞ」


 セリアが足を踏み出す。


 通路は長く暗い。

 天井から水滴が落ちる。ポタ。ポタ。

 規則的な音が神経を逆撫でする。

 分岐点。左は微かに風が流れている。右は澱んでいる。


「左だ」


 セリアが即決する。

 狭い通路。壁が迫ってくる圧迫感。天井が低くなり頭を掠める。息苦しい。閉所恐怖症になりそうな狭さ。

 しばらく歩くと空間が開けた。天井が高くなり少し息がしやすくなる。


 その時。


 前方から重い音が響いた。

 ガシャン。

 ガシャン。

 金属が石を叩く音。鎧が擦れ合う音。

 規則的なリズム。


「隠れろ!」


 セリアが喉の奥で叫んだ。

 四人は咄嗟に壁のくぼみに身を潜める。折り重なるように体を密着させる。

 息を止める。

 心臓の音がうるさい。ドクンドクンと耳元で鳴っている。隣にいるミオの心音まで聞こえてきそうだ。

 セリアの体温。ルナの柔らかさ。汗と土と錆の臭い。


 通路の奥から巨大な影が現れた。

 デスナイト。

 全身を漆黒のフルプレートメイルで覆っている。関節まで隙間がない。

 片手には身の丈ほどある大剣。刃こぼれし、赤黒い錆がこびりついている。

 もう片方にはタワーシールド。

 兜のスリットから赤い光が漏れている。眼光だ。揺らめく不気味な光。

 鎧には無数の傷。歴戦の証。殺戮の記録。


 アリサは息を殺した。

 見つかったら終わる。あの鎧は斬れない。あの大剣を受けたら潰れる。

 足音が近づいてくる。

 ガシャン。ガシャン。

 死神の足音。床が微かに振動する。

 ミオがアリサの服を掴んで震えている。歯がカチカチと鳴りそうだ。アリサはミオの口を手で塞ぎ抱き寄せた。温かい体温。生きている証。


 デスナイトが目の前を通り過ぎようとした。

 鉄の臭い。古い血の臭い。

 通り過ぎろ。行ってくれ。


 その時。


 カラン。


 乾いた音が響いた。

 床に落ちていた壊れた短剣の柄に、デスナイトの足が当たったのだ。

 時が止まる。


 デスナイトが足を止めた。

 ゆっくりと首が回る。ギギギという錆びついた金属音。

 兜の奥の赤い光が動く。

 そして四人が隠れているくぼみを捉えた。


 殺意。

 純粋で濃密な殺意が肌を刺す。


「まずい……!」


 セリアが飛び出した。

 デスナイトが大剣を構える。風を切る音。

 低いうなり声。


「逃げろ!」


 セリアの絶叫。

 四人は一斉に走り出した。

 背後から重い足音が追ってくる。ドスンドスンと床が揺れる。

 速い。あの巨体で信じられない速度。

 アリサはミオの手を引いて走った。肺が焼けるように熱い。足がもつれそうになる。


「もっと速く!」


 セリアが叫ぶ。

 必死に走る。角を曲がる。

 だがデスナイトは止まらない。壁を肩で砕きながら直進してくる。瓦礫が飛ぶ。


「こっちだ!」


 セリアが別の通路へ飛び込む。

 アリサたちも続く。

 しかし。


 行き止まりだった。

 冷たい石壁。逃げ場がない。


「嘘……!」


 ミオが絶望的な声を上げた。足から力が抜けて座り込む。

 背後からデスナイトが迫る。巨大な影が四人を覆う。

 通路を塞ぐ鉄の塊。

 もう逃げられない。


「やるしかない……!」


 セリアが剣を構えた。顔面蒼白だが目は死んでいない。覚悟を決めた目。

 ルナとミオも杖を構える。ミオの膝がガクガク震えている。ルナの手が震えている。


「私が前に出ます」


 アリサが斧を構え前に出た。

 村で何年も木を切ってきた腕力。この体を信じるしかない。


「アリサ!」

「任せてください。サポートお願いします」


 デスナイトが大剣を振り上げた。空気が裂ける音がする。

 圧倒的な質量。


 戦闘開始。


 大剣が振り下ろされる。

 アリサは斧の柄でそれを受け止めた。


 ガキィィン!


 凄まじい衝撃。

 火花が散る。腕の骨が軋む。足元の石畳が砕け足首まで埋まる。

 重い。山が降ってきたような重さ。

 だが押し負けない。

 アリサの怪力がデスナイトの剛腕を押し返す。筋肉が悲鳴を上げるが構わない。細胞の一つ一つが発熱する。

 デスナイトが僅かによろめく。


「いける……!」


 デスナイトが驚いたように動きを止める。赤い眼光が揺れる。

 アリサは踏み込んだ。

 再び大剣が来る。横薙ぎ。風圧で髪が舞う。肌が切れるような風圧。

 アリサは斧で弾いた。


 ガキン!


 火花。視界が白む。

 その隙に懐へ飛び込む。

 獣臭い。鉄錆の臭い。

 鎧の隙間。関節。脇の下。

 斧を叩き込む。


 ガキィン。


 硬い。

 斧が弾かれる。手首が痺れる。鎧が厚すぎる。

 デスナイトが盾で殴りかかってくる。アリサは斧の腹で受けた。


 ドゴッ。


 内臓が揺さぶられる衝撃。体が宙に浮く。壁に叩きつけられる。

 口の中に血の味が広がる。鉄の味。

 痛い。でも足は地面を離れない。踏ん張る。

 デスナイトが大剣を振り下ろす。追撃。

 アリサは横に跳んだ。

 剣が床を叩き割る。破片が飛び散りアリサの頬を切る。熱い血が流れる。


 硬い。どうすればいい。

 その時ミオが叫んだ。


「ファイアボルト!」


 火球がデスナイトの兜に直撃する。

 爆発。熱波。

 炎が視界を奪う。デスナイトが怯む。

 今だ。


 アリサは地面を蹴った。高く跳ぶ。

 デスナイトの背中に飛びついた。

 鎧にしがみつく。鉄の冷たさと魔物の体温。

 太腿でデスナイトの胴体を締め上げる。筋肉を総動員して締め付ける。

 ロデオのように暴れるデスナイト。激しい揺れ。

 落ちたら死ぬ。

 左手で兜の隙間を掴む。指が切れそうだ。

 右手で斧を振るう。


 首の後ろ。鎧の継ぎ目。そこだ。


 斧を叩き込む。


 ガキン!


 食い込んだ。手応えがある。

 もう一度。

 アリサは斧を引き抜き再び叩き込む。同じ場所。一点集中。

 村で薪を割る時のように。巨木を切り倒す時のように。

 何度も何度も。


 ガキッ! ガキッ! ガキッ!


 デスナイトが吠える。背中から壁に突っ込む。


 ドガン!


 衝撃。

 アリサの背中が壁と鎧に挟まれる。

 肺が潰れる。背骨が軋む。息が止まる。

 激痛。視界がチカチカする。

 でも離さない。絶対に離さない。

 アドレナリンが痛みを麻痺させる。脳内物質が溢れ出す。

 殺す。殺す。殺す。

 快感に近い殺意。


 ガキッ! ガキッ!


 斧が深くまで入る。

 黒い血が噴き出す。生温かい。顔にかかる。目に入る。

 セリアが飛び出してきた。


「アリサ! そこだ!」


 セリアがデスナイトの膝裏、鎧の隙間に剣を突き刺す。体重を乗せて深く。

 デスナイトが膝をつく。体が傾く。


 アリサは背中から飛び降り、正面へ回った。

 首。

 鎧が歪んで隙間が広がっている。

 肉が見える。どす黒い血管が脈打っている。


 全力で。渾身の力で。

 全身のバネを使って。


「はあああっ!」


 ザシュッ!


 鈍い音がして斧が首を断ち切った。

 肉を断ち、骨を砕く感触。

 デスナイトの兜が宙を舞う。

 鮮血の噴水。

 アリサの全身が赤く染まる。温かい。粘りつく。鉄の臭いでむせ返る。


 巨大な体がゆっくりと倒れる。

 ズズーン。

 地響き。鎧が音を立てて崩れ落ちる。


 アリサはその場に膝をついた。

 荒い息。

 心臓が破裂しそうだ。手足が震えている。背中が痛い。

 全身が熱い。体の中から焼かれているようだ。

 でも生きてる。勝った。


「アリサ!」


 三人が駆け寄ってくる。

 ルナが杖を掲げる。手が震えている。


「ヒール!」


 温かい光。

 傷が塞がる感覚。細胞が再生する熱。痛みが引いていく。快感に近い安堵。

 ミオが泣きながら抱きついてきた。


「アリサちゃん……っ、怖かった……!」


 ミオの体温。涙で濡れた顔が首筋に当たる。柔らかい胸が押し付けられる。

 アリサは血まみれの手でミオの背中を撫でた。

 生きている体温。


「大丈夫……倒したよ」


 セリアが呆然とアリサを見下ろしている。剣を取り落としている。


「……信じられない。デスナイトの剣を受け止めるなんて……」


 セリアの声が震えている。畏怖と興奮がないまぜになった声。

 セリアがしゃがみ込みアリサの肩を掴んだ。力が強い。指が食い込む。


「怪我は……ああ、治ってるな。……すごいぞ」


 セリアの瞳が潤んでいる。

 アリサの顔についたデスナイトの血。

 セリアが親指でそれを強く拭った。皮膚が擦れる感触。

 セリアの荒い息が顔にかかる。瞳孔が開いている。

 ゾクゾクするような視線。


「ありがとうアリサ。あんたがいなきゃ全滅だった」


 セリアがアリサを抱きしめた。

 汗と血の混ざった匂い。硬い胸当て越しの心音。

 アリサの体が震えた。恐怖の余韻と、抱擁される快感。


 その時セリアが何かに気づいた。

 倒れたデスナイトの残骸。鎧が崩れた中。

 拳ほどの大きさの赤い石が転がっている。内側からドクンドクンと脈打つように光っている。


「魔石……! それも特大の……」


 セリアが拾い上げる。ずっしりと重い。


「デスナイトの魔石。これだけで金貨数十枚にはなる」

「アリサちゃんのだよ! 一番頑張ったもん!」


 ミオが涙目のまま言う。アリサは首を横に振った。


「ううん。みんなのおかげ。山分けしよ」


 セリアが魔石を袋に入れた。手がまだ震えている。


「とにかく移動するぞ。血の匂いで他の魔物が来るかもしれない」


 通路の奥へ進む。

 微かな風の流れ。空気の動き。

 光が見えた。


「あれは……!」


 階段だ。

 上へと続く階段。松明の光が優しく照らしている。希望の光。


「見つけた……! 階段だ!」


 セリアが叫んだ。声が裏返っている。

 ルナがその場に座り込みそうになるのを堪えて胸を撫で下ろす。


「よかった……これで戻れるわ」


 四人は階段へ走った。

 一段一段踏みしめるたびに生の実感が湧いてくる。足の裏の感触。

 泥と血にまみれた生還。

 アリサはセリアの背中を見ながら、体の中に燻る熱を感じていた。

 殺し合いの興奮。極限状態での仲間との密着。

 血の味と汗の臭い。

 この感覚は癖になる。


 まだここがどの階層かも分からない。

 でも四人は確かに生きていた。

 希望を胸に、血に濡れた足で階段を登り続ける。

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