第2話 大騎士の主人
背の籠に薪はない。
ヒトキの顔面にも色はない。
(ああ、そうだ。薪を拾って来れなかった。ルカ様に怒られる……)
思考が落ち着いたのは、野営用拠点の外縁が見えてきた頃だった。なんとか主人であるルカの天幕に帰らないといけない。必死に自分にそう言い聞かせる。
「……」
無意識に、右手を握り締める。掌の中にあったのは空気だけだ。
『刀』などもうどこにもない。
伝説の彼方へと消え去った筈の凶器など、森のどこかに捨ててきた。
「関係ない、あれはもう僕には関係ない……」
幾度自分に言い聞かせても、記憶が勝手に燻る。
皮膚の奥で焼付く柄の輪郭。
鼻腔を擽る鉄と鮮血の匂い。
鍔から冷たく伸びる三日月。
命を断ったささやかな反動さえも、今そこにあるかのように鮮明だ。
「……違う、ぼくは、人斬りなんかじゃ……!」
血花を舞い散らし、ヒトキを責める二つの頭部も消えない。
「あ、ああああああっ!!」
丸呑みにせんと咢を広げる幻覚から必死に逃げ出す。
けれど走れど走れどどこまで行こうと、血と頭と刀が散らかっている。
息を切らして跪く。
すると視界の端を、拠点の水源である小川が流れていた。
「か、川……血を拭かなきゃ……ルカ様に怒られる……!」
吸い寄せられるように駆け寄り、両手を水に浸す。
掬った水を顔面にぶつけ、必死に擦る。
次に両手を顔面から離した時には、
――斬れ。
……黒い羽織を纏った自分が、水面の向こうからヒトキをじっと見つめていた。
「あ、ああ、ああああ……ちがう、ちがう、ちがう!!」
力任せに水面を叩く。
白い縞が戯れて、後に残るは自分の鏡像。
何度水を掬おうと、水面越しの目線を消すことは出来ない。
――斬れ。斬れ。
迸る幻聴。
耳を塞ぐ濡れた手が、次第に頭蓋を抱える。
痛みだけが現実逃避の
「ぼくは、ぼくは誰も斬ってなんか……!!」
……100年前の残酷昔話。
刀を手にした人間は誰でも『人斬り』になったのだという。
ダンジョンの最下層を踏破した冒険者も、
魔術という魔術を知り尽くした賢者も、
人格者として讃えられた名君さえも、
みな、こうやって壊れてしまったのだろうか――。
「おい、邪魔だな」
頭上から、声。びくりと肩が跳ねる。
振り返ると、そこには煌びやかな鎧を纏った青年貴族が立っていた。
その後ろには、鎖付きの首輪を嵌められた筋骨隆々の奴隷が一人。
奴隷は俯き、地面を見つめたまま動かない。
「こんなところで水遊びとは、随分と余裕な奴隷だな?」
「……す、すみません……」
条件反射で、頭を下げた。その視界の中に、右腕を囲った腕輪を見た。
鈍く光る金属に剣の紋章が刻まれている。目前の奴隷が着用した首輪と同じ、『拘束具』の証だ。
「この騎士ロウゾ様が急に森の小競り合いに駆り出されたってのによー、奴隷は暢気に水遊びか?」
青年貴族のブーツに肩を乱暴に蹴り押され、小川に倒れ込む。
身を起こすも纏わりつく服の重さと凍えるような寒さ。
「川が汚れたらどうすんだ。醜さを自覚しろゴミ」
「ぎ、ぐ」
何度も蹴られる。だがロウゾはそれが許される身分なのだ。
王国では、称号や権力を持つ戦士を『騎士』と呼ぶのだから。
それ以外は『兵』と一括りにされている。
……奴隷は、さらにその下だ。
「あー。いい余興を考えた。我が奴隷ゴアに命令する。コイツを痛めつけろ」
びく、とゴアと呼ばれた奴隷が顔を上げる。外見に反した優しい顔つきからは、寧ろ暴行を拒絶するような意志を感じた。
だがゴアの表情に反し、巨大な拳が投石のように振り下ろされる。
視界が振動する。
「あ、あ……すまないっ……!」
何度も鈍い音。
肩が外れたヒトキに、巨体は覆いかぶさり壊してくる。
そこに本人の意志は無い。代わりに首の『拘束具』による強制服従魔術によって、主人の言いなりになってしまっているのだ。
拘束具にかかれば自らを傷つけることも、人を殺すことさえ出来てしまう。
それが奴隷の宿命。
まるで、刀に憑りつかれた人斬りみたいに。
――斬れ。
ふと。
刀が無い筈なのに、左手は気付けば左腰へと伸びていた。
「――私の所有物に何をしている」
低く、澄んだ声が響いた。
場の空気が、一瞬で変わる。
振り向いたロウゾの表情が、凍り付いた。
「……ル、ルカ・フォン=ランスロット……!」
銀縁の外套を纏いし若き大騎士は、凛としてロウゾを凝視する。
彼こそがルカ・フォン=ランスロット――ヒトキの主人である。
卑屈に背を歪めていなければ、誇張して胸を張ってもいない。
自然な直立で、静かに場の空気を掌握していた。
「あなたの奴隷でしたか。こ、困りますなルカ殿。奴隷に神聖な小川を穢させるなど!」
ロウゾが狼狽を隠し切れないまま、それでも食い掛って見せる。
少しでも優位に立とうと見栄を張り始めた部下の騎士に、守衛軍を統括するルカは静かに目を瞑る。
「奴隷の身分で天の恵みたる小川に触れたのか」
「ちゃんと『拘束具』を繋いでくれませんと……!! こ奴らは罪深き存在ながら人間ごっこを直ぐにしたがるのですから……!」
自身の奴隷たるゴアの
「そうだな」
だからだろうか。ヒトキの目には、ルカの静謐が際立って見える。
「しかし奴隷であると同時に、私ルカ・フォン=ランスロットの所有物でもある」
「えっ……!?」
「つまり貴様はランスロットの所有物を許可なく玩具にしたわけだ」
「あっ、あっ」
「つまり私の名誉を傷つけた。理解しているか」
ルカは何もしてない。
ただ諭しながら、距離を詰めただけ。
左腰に差した宝剣を抜く気配もない。
だがロウゾの笑みは、吹雪の中に放置された様に凍り付いていた。
火を見るよりも明らかな力関係がそこにはあった。
「そ、そんな態度をとっていいのですかな? 私はかつて王国の危機を救った大騎士レヴァナントの末裔で……!」
「七代前の英傑がどうした。当代の貴様はこの戦で何をした」
綺麗な武装を纏ったロウゾは何も答えられない。
「貴様には過ぎた爵位だ。この場で庶民に落とそうか。それくらいは王家に融通が利く身でな」
「ま、待ってください!! それだけは……!」
「分かったなら、警戒に就け。帝国軍の動きが怪しい――我らが剣は
血の気が引いたロウゾは、震える声を絞り出す。
「……我らが剣は
互いに胸元にピースサインを当て、王国騎士の敬礼を交わす。
戦々恐々としたまま、ロウゾはヒトキとさえ目線を合わせることなく、ゴアを連れて逃げて行った。
去っていく嵐を呆然と見ていると、隣で甲冑の擦れ音があった。
「何を俺の顔に泥を塗っている」
天幕へ向かう主人に、ずぶ濡れのまま小走りで着いていくヒトキ。
「も、申し訳ありません。ルカ様」
「無様な姿を衆目に晒すな。さっさと天幕へと来い」
いかなる敵であろうと凛として立ち向かう騎士ルカの背中。
ヒトキはこの主人を、心から尊敬していた。
本当にかっこいい。そう思うのだった。
――斬れ。
すごく遠い、けれど確かに聞こえた『自分』の声。寒くなったのは、張り付いた水で体が冷えたからではない。
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