9.帰還
少女は、キールの庵に戻ってすぐに目を覚ました。
「私、生きてる……?」
ベッドの中から不思議そうに天井を見上げ、覗き込むキールの顔を見つける。
はっと息を飲んで顔を曇らせ、スコウプの死を報告しようとする彼女を、キールは優しく押し留めた。
「ご安心を。スコウプくんは死んではいませんよ」
それより、患部をご確認ください、とキールは微笑む。まるで何事もなかったかのように綺麗になった腹部を見て、しばらく呆気に取られたあと、少女は大粒の涙を零した。
「あいつは……、あの化物は、どうなったの……?」
「洞窟内の魔物に取りついたまま、密封してきました。おそらく今頃は、呼吸もままならずに落命していることでしょう」
万一そうでなかったとしても、洞窟から生きて脱出することは難しいでしょうね。キールの説明に、少女は胸をなでおろす。
「本当に……終わったのね……」
ええ、とキールが柔和に微笑む。
キールに手渡されたガーゼで涙を拭き、でも、と少女は続けた。
「スコウプさんは、今どこに……?」
「ご心配はいりません。そろそろ、戻ってきてほしい頃合いなのですが……」
開け放った窓からは、少し遠くに不思議な建造物が見えた。三階建てかそれ以上の、巨大な小屋のようなもの。だがよく見れば、天井も屋根もないことがわかる。言わば、大きな囲いなのだった。スコウプたちはそれを、皮肉を込めて『休憩所』と呼んでいる。
「あそこに帰ってくるはずですよ」
あんな場所に……? 少女は首を傾げた。
「申し訳ありません。今晩から明日の晩あたりまで、不快な騒音でご迷惑をおかけすることとなってしまいます」
ご容赦ください、とキールが少女に深々と頭を下げると、淡い金色の髪がさらさらと流れた。
それから半刻後。鳥のように見えていた空の黒点が徐々に大きくなってきた。夕焼けを
背に、巨大な何かがふらふらとこちらへ飛んでくる。
「先生、あの、空になにか恐ろしいものが……!」
あれがスコウプくんですよ、というキールの答えにはやはり納得できず、少女はベッドから窓の外を凝視した。蝙蝠のような四枚の翼にはいくつも大きな穴があり、少しの横風で大きく体勢を崩している。近づくにつれ、異様に大きな身体は人間のそれではなく、巨大な獣のものであることに気づいた。魔物。きゃあああっ、と少女は悲鳴を上げる。
「先生、スコウプさんは、魔物だったの!?」
「いいえ、彼はれっきとした、混じりけのない人間ですよ。……だからこそ、これから少し、苦しい思いをしてもらわなければならないのですが……」
「苦しい、思い……?」
ええ、と申し訳なさそうにうなずくと、キールは窓の外を見たまま続けた。
「魔法の力で何かを変身させるのは、実はそれほど難しくないのです。力を与えて、そこになかったものを付け足すだけですから、一瞬で行うことも可能です。でもこれでは、変身したまま、元の姿に戻すことはできません」
正統魔法に変化の術など、聞いたことがない。まるでおとぎ話を聞くようで、少女は続きを促すようにこくりと頷いた。
「一生変化したまま、この場合は『変形した』といったほうがいいのかもしれませんが、その状態でいいのなら構いません。問題は、元の姿に戻りたいときです。元の姿に似たものに再変身するのではなく、同じ肉体を使って戻したいのなら、魔法で付け足した部分だけを丁寧に取り除き、元の細胞をつなぎ合わせる必要があります」
うんうん、と少女は頷いてみせる。初めて聞く話ばかりだ。
「これは、一時的な魔力付与で変身している場合にも重要です。付与した魔力が一度に消えてしまうと、身体がスポンジのようにスカスカになって、壊れてしまいますからね」
急に怖い話になった。少女はおずおずと頷く。
「そこで、私はまずゼリー型のようにスコウプくんの原型を情報として取って、付与する魔力の有効期限を細かく分けて時間差をつけました。徐々に魔法を解いてスコウプくんの肉体を原型に戻し、一定のタイミングまでに足りないところがあった場合はそれを補うわけです。時間をかけて魔法で与えられた部分を排出しながら、身体を縮めていく方法です」
さすがに、ここまで来ると少女には理解が及ばなかった。
「同時に、集まった肉体の再生を行うための回復魔法を起動させ……おや」
飛来するスコウプを見やっていたキールが、言葉を切った。
「……失礼。やっぱり、空で一悶着あったようですね」
すっと立ち上がり、少女に一礼する。
「スコウプくんのお世話をしてきますね。夕食のご用意はできますので、それまでこちらでお休みください」
少々騒音でご迷惑をおかけしますが。最後にまたそれを言い置いて、キールは『休憩所』に向かっていった。
傾きながらふらふらと飛び、穴だらけの翼を羽ばたかせていたスコウプはついに、『休憩所』の上空にたどり着いた。そのまま気を失うように、まっすぐ囲いの中に落ちていく。完全な失速、墜落だった。ドォン、とすさまじい音が響き、囲いの中から土煙が立ち上る。あまり慌てる様子もなく、キールは『休憩所』に備えられた人間サイズの扉を開けて、中へ入っていった。
「遊びすぎですよ、スコウプくん」
「……コれガ、遊ンでルヨうニ見エルか?」
床のない土面にぐったりと横向きに倒れ伏し、荒い息遣いで巨狼は言った。
「なン箇所カ……折レタ……」
でしょうね、とこともなげに言って、キールは小山ほどもあるスコウプの身体を点検した。墜落の衝撃で腕や肩に潰れている部分があるが、直ちに命に係わる状況ではない。背中を中心に何本か、木の矢が刺さっている。
「……やはり天使族さんに、ご迷惑をおかけしたようですね?」
「ワざトジャねェ……。ムこウガ勝手に、襲イかカッテきテ……。シンじテクれ、俺はイッさイ、反撃シてネェ……!」
「こんな姿を見たら、誰だってびっくりしてしまうものでしょう。君にはもう少し、配慮というものを……」
だから無茶言うなって。今度こそ言ってやろうとして、折れていない手を突いて上体を起こしかけたスコウプは、びくん、と硬直した。
「ハ、ハじマッタ……!」
ぶるぶると大きな身体を震わせる。地に突いた手のひらが土を掻くと、すべての爪が弾けるように抜け落ちた。身体中の灰色の被毛がごっそりと抜け、背中の翼はメリメリと音を立てて脱落する。狼の表皮が、腐り落ちるように溶けはじめた。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオッ。スコウプが轟音のような吠声を上げる。全身が溶け落ち崩れる苦しみ。骨は節々から軋みはじめていて、筋肉という筋肉はぎゅっと縮み上がるように固くなる。筋肉が出し得る最も強い痛みだ。スコウプはもう一度、激しく吠えた。
「落ち着いて、ゆっくり呼吸してくださいね」
どうやってこれで落ち着くんだよ。キールの言葉に反論したいが、スコウプの牙はたった今すべて抜け落ちたところだった。歯茎が溶け、黒ずんだ血が溢れ出す。吸い込んだ空気を吐き出せぬまままた吸い込むような荒い呼吸。耳が、ちぎれて落ちた。
「初めてじゃないでしょうスコウプくん? 一旦、ゆっくりと息を吐いてください」
どうしてこの医者は、無茶ばかり言うのか。いや、全身が溶け落ちるのを何度も味わっているほうがどうかしているか。苦しみのあまりもう一度咆哮を上げようとして、スコウプは喉からせり上がってきた大量の赤黒い粘液を地面にぶち撒けた。胃腸の内側に排出された肉体の一部の、最初の吐き出しだった。苦しみのあまり堪らず身体をくねらせると、背骨が引っ張られるような感覚のあと、ズルリと尻尾が抜ける。両脚の大腿骨がギシギシと鳴って、縮もうとしているのが分かった。
これから丸三日、溶け続けゆっくりと変形する身体に苦しみながら、止まらない下痢と嘔吐に苛まれることをスコウプは知っている。いっそ殺してくれ、そんな言葉すら声にはできず、ぐえええ、と激しく声帯を鳴らしてスコウプは二度目の嘔吐をした。息つく間もなく、三度目、四度目。とにかく意識を失わないことだけが、目下の目標だった。
少女は、思わず毛布を強くつかんだ。キールが出て行ったあと、あのオオカミの化け物と思われる恐ろしい叫び声が始まり、絶え間なく続いている。怖かった。藍色の空に沈んでいく巨大な囲いのシルエットには、なんの変化もなく見えた。
「この騒音で、落ち着いてください、と言うのも、無理がありますね」
いつの間にか戻ってきていたキールが申し訳なさそうに言い、窓を閉めた。それでも、苦しげな獣の声はなおも、部屋の中まで響き渡ってくる。キールが灯したランプの炎が、ゆったりと揺れた。
「この声は、スコウプさんの……?」
「ええ。頑張ってくれていますよ」
「そんな……!」
やっぱり私のために、苦しむ人がいる。少女は下唇を噛んで俯いた。
「私なんかの、ために……!」
「……なるほど」
キールは小さく頷いた。
「あなたは、スコウプくんの苦しみは自分のせいだ、とお考えなのですね」
「だって……私が来なければ……!」
ふふっ、と微笑んで、キールは続ける。
「ではあなたは、この竜の峰に医者がいなければ、あなたが来ることも、スコウプくんが苦しむこともなかったと、お考えでしょうか」
「そ、それは……」
そんな風に言いたいわけじゃなくて……。少女は言葉を濁した。
「因果とは、そういうものです。誰かが原因として、その責を一身に負うべきことではありません」
「だけど、先生はお医者さんとして、ここでたくさんの人を助けてきたんでしょう!?」
キールは首を振った。ランプの光で、天使の輪のようなキールの髪の反射が揺れる。
「私が下界に下りず、こんなところに住んでいるせいで、今日も何十人という病気やケガの方が死んでゆきます。私が診ていれば、きっと助かった方々です。これも、私が殺したということになってしまいますね」
少女は俯いた。しばらく思いつめたように一点を見つめ、口を開く。
「……そうよ」
少女は咎めるようにキールを見た。
「できることをやらないで誰かを苦しめるのは、直接苦しめているのとおんなじだわ。先生がほかの患者さんたちにそう思うのなら、きっとそうなんでしょう。それなら先生だって、罪人でしょうね」
「これは手厳しい」
キールは微笑む。外からは相変わらず、地響きのような獣の唸声が聞こえてくる。その声は、キールを責めているようでもあった。
「それを突き詰めてしまうと、すべての責任は、私たちをお創りになった女神の罪、ということになりはしませんか?」
はっ、と少女は息を飲んだ。女神様が、罪人? 少女は思わず口を押さえた。
「私、なんてことを……!」
「いいのですよ」
そうして罪を転嫁して、安寧に暮らせるのなら。それが、人が神を発明した理由のひとつかもしれません。その言葉は口に出さず、キールは静かに目を閉じた。
「自分であれ、他者であれ、防げなかった苦しみを誰かのせいにしたところで、苦しみがなかったことにはなりません。悲しみや苦しみは傷のようなもの。耐え難い時期もありまずか、生きてさえいれば必ず、必ず治るものです」
あなたより長生きの私が言うのですから、保証しますよ。そう言って、キールは少し、いたずらっぽく笑う。
少女は、ランプの光に照らされた美しい青年の顔をじっと見た。不老不死。いったいどれほどの苦しみを、この青年は乗り越えてきたのだろう。
「たくさん眠って、たくさん食べてくださいね。今は、それがいちばんのお薬です」
そう言って部屋を出たキールは、夕食を乗せたトレイを運んできた。
翌朝、少女はキールとチェルとともに朝食のテーブルを囲んでいた。
ラディッシュのサラダ、チキンのスープ、焼きたてのパン。どれもめずらしいものではなかったが、少女は今いる場所が標高一万メートルを超える山頂であることを思い出し、首をかしげる。
「あの、どうやって、こんなに豊かな食材を……?」
サラダをチェルに取り分けながら、キールが答えた。
「大したおもてなしもできていませんが、豊かといってもらえると救われます。畑と鶏小屋を少し持っているのと、遠方からの友人たちの品ですよ」
こんな場所にも友人が訪ねてくるという。いったいどんな人たちなんだろう。
「もちろん、無料でいただいているわけではありません。お薬や、ここで作れる彼らの好物などと引き換えにすることが多いですね。お金を使うこともあります」
お金。その言葉に、少女は大事なことを忘れていることに気がついた。
「お金……! 先生、私、治療のお代を……!」
死ぬつもりで入った山に、大金など持ち込めようはずがない。食事だって、もうずっと摂らずに来た。ポケットの中の数枚の銅貨が、少女の全財産だった。
「ああ、そういえば、そうでしたね、では……」
少し考えてから、キールは頷く。
「スコウプくんが籠っている間の家事のお手伝いと、チェルのお相手をお願いできますか? まだ体調が万全ではない中で、大変申し訳ないのですが……」
「え、そんな、それだけ、ですか……?」
苦しみのもとを完全に排除してもらった上、洞窟を一つ潰し、見たことのない強い魔法の変身薬まで。本当なら、金貨が何枚あっても足りないはずだった。
しかしキールはにっこりとして、少し頼みすぎなくらいです、などと言う。チェルはサラダをフォークで刺して口に入れ、きゅっと眉根を寄せるとぺっと吐き出した。ラディッシュの辛みを嫌ったようだった。
「すっかりわがままに育ててしまいましたから、ご迷惑にならないといいのですが……」
「本当に、それだけでいいんですか……?」
はい、とにっこり笑うキールに、少女はありがとうございますっ、と頭を下げる。
「さあ、冷めてしまう前にぜひ、召し上がってください」
キールは言って、少女のグラスに水を注ぎ入れた。
こうして朝食を摂っている間も、獣のような絶叫は絶え間なく響いていた。一晩中続いていたその音に、少女の耳もすっかり慣れてしまってきている。そういえば、少し声が高めになってきたかしら。申し訳なさを感じながらも、少女は朝食を摂ることに専念することにした。人間に戻りつつあるのなら、きっと順調なのだろう、と考えながら。
「龍のおよめさんは、それはそれは美しい衣装に身を包み、青年の前に立っていました」
翌日の午後、少女はチェルにせがまれて絵本を読んでいた。
「龍のお父さんの病気が重いことを、青年は知っていました。でも、結婚を決めた理由はもちろん、それだけではありません」
見たこともない、古い絵本だった。おそらく何度も読み聞かされているだろうのに、チェルは神妙な面持ちで聞いている。
「およめさんの美しさに、青年はすっかり心をうばわれていました。見た目の美しさだけではありません。ほんとうの美しさは、心にあるのです」
描かれている龍の父親は、まるで本物の竜を見てきたかのように精巧な描画だった。深緑色の肌に、鱗が一枚ずつ、丁寧に描き込まれている。
どれほどの悪童なのかと警戒していたが、チェルはいたっておとなしい子どもだった。いたずらをすることもなければ走り回ることもない。言葉を発さないために注意深く見守っていないと彼女の気持ちを汲み取り損ねることはあったが、たいていそんなときは、チェルのほうから服の裾を引っ張って教えてくれた。チェルとの時間は、かえって少女自身の楽しみですらあった。
「およめさんはにっこりして、青年に言いました。私のほんとうの姿を見て、それでも好きでいてくださる、あなたのことが大好きです」
午前中、真っ白な羽をもつ天使が何人も気色ばんでなだれ込んできたのには少女も驚いた。が、キールはちょうど良かった、などと言って彼らをもてなして宥めてしまった。獣の正体を明かして謝罪した上、さらにキールは少女を彼らに紹介し、時が来たら彼らの手によって下界まで運ばせる約束まで取りつけてしまう。あまりにも見事な交渉に、少女は呆気にとられるばかりだった。
「青年は美しいおよめさんと、お父さんとなる龍の姿をじっと見つめました。青年の長い焦茶色の髪には……」
ギィ、と重い玄関扉の開く音がして、少女は顔をあげた。いつの間にか、外の苦しげな声は聞こえなくなっていた。様子を見てきますね、と言って一刻ほど、キールはあの囲いの中にいたのだ。
キールとともに入ってきたのはスコウプだった。人間の姿で、全身を小刻みに震わせている。肩にかけたシーツで全身を包んでいるが、突き出た両足には何も着けていない。髪は濡れていて、毛先から水の雫が垂れていた。
「スコウプさん……!」
スコウプはうう、と小さく呻き、震える足を一歩前へ出した。ゆっくりでいいですよ、とキールが声をかける。半分だけ開いた瞼の奥の瞳は、まるで何も映していないかのようにぼんやりと空中を見ていた。
「あのっ、スコウプさんっ! 大丈夫、ですか!?」
駆け寄って、少女が声をかける。スコウプはわずかに少女のほうへ首を向けたが、目の焦点が合うことはなかった。
「地獄見た……」
力なく掠れた声でそうつぶやくと、いくぶんかうなだれて、引きずるようにもう一方の足を出す。今にも倒れ込みそうなスコウプの姿を目の当たりにして、少女はそれ以上、何もできなくなってしまった。お気に入りの絵本を途中で止められたチェルは、つまらなそうにスコウプを眺めている。チェルにとって瀕死のスコウプは『わりとよく見るありふれた光景』らしかった。
寝室までの距離をかなりの時間をかけて歩き、ようやくスコウプは自分のベッドにたどり着いた。毛布を持ち上げた瞬間、羽織っていたシーツが落ち、一糸纏わぬ姿が露わになる。きゃっと叫んで、少女は顔を覆った。だが、陰部などより、精悍な身体に刻まれた幾多の生々しい傷跡のほうが少女にとって衝撃的だった。
この人は、いったい今までいくつの死地を潜り抜けてきたんだろう。スコウプがベッドに潜り込んだ頃合いで目を開けると、少女はベッドサイドに駆け寄った。
「スコウプさん、あのっ、ごめんなさいっ!」
わずかに開いた瞼の隙間から、今にもこと切れそうなスコウプが少女を見上げる。言わなければ、とずっと思っていた一言だった。だが。
「……違うな……、ありがとう、だろ……?」
呟くように言って、スコウプは微かに口角を上げてみせた。あ、と少女は口ごもる。言葉を継ごうと少女がもう一度口を開こうとすると、スコウプは薄目を開けたまま、既に深い眠りに落ちていた。
さらに、数週間後。
少女とスコウプは、キールたちが『駅』と呼ぶ場所にいた。断崖絶壁にある少し開けた場所だが、簡単な魔物除けが施され、比較的安全な場所になっている。あれからしばらく養生して生気を取り戻したスコウプは、下界に送り出す少女の護衛としてここに来ていた。
「すごい……!」
平らな岩の上にスコウプと並んで座って、少女が言う。エヴヌス窟より少し下、竜の峰の北側を望む見晴らしは、帝国内のどんな場所からでも見ることができない絶景だった。竜の峰の先は地の果て、そう信じている帝国民にとって、信じられないような、見てはいけないような光景だった。
「北側にもこんな、豊かな土地があったなんて……」
「あー、下ではあんまり言いふらさないほうがいいぞ? 良くて狂人、最悪の場合は騒乱罪だ」
こくりと少女が頷く。ここでの思い出はむしろ、誰にも話したくなかった。自分だけの、特別な記憶。
光苔の洞窟で、最期の時を覚悟したことを少女は思い出す。あのとき、隣にいて欲しいと願った人。その人と今、彼女は素晴らしい眺めを共有しているのだった。
遠くの空からは、鳥のような影が近づいてきていた。天使族の一団だ。彼女らは唯一下界との接点を持つ有翼族で、神話に語られるような神の力を行使する存在ではない。だが翼のない人間たちとの見た目の違いは、彼女ら一族を長らく苦しめてきた。かつては、捕らえられて見世物にされたり、引きちぎられた翼を霊薬として売りさばかれることもあったという。今は北のオルセンキア辺境に小さな村を作り、年に一度の祭りの際、下界のある村にだけ天使として降臨していた。人間の信仰心を逆手に取るやり方ではあるが、こうした彼女らの生き方は、長い歴史の中で形作られた共存の姿なのだった。
「まぁ、いろいろあったが、嬢ちゃんが元気になったんだ、何よりってやつだろ」
ふ、とスコウプが笑う。少女はその横顔を、ちらと盗み見た。
少女の手には、大きな鞄があった。キールが用意した、これからの暮らしに必要なものが入っている。天使族への手土産もあった。少女はこれから天使族の村にしばらく滞在し、この冬の祭りの際に、下界の村に戻されることになるという。その先、どこでどうやって生きていくことになるのかは、まだわからない。が、おそらく、スコウプとはこれで最後になるだろう。
『駅』の突端に、天使族の篭が降ろされた。促されて、少女は篭に乗り込む。スコウプは小さく、安堵の吐息をついた。少女は振り返って、満面の笑みを浮かべた。
「……ありがとう、大好きよ! 私の狼さん!」
えっ、とスコウプが慌てたところで、篭が持ち上がり、少女はふわりと離陸した。両手を挙げて、大きく振っている。
「またねー!」
呆気にとられた格好のまま、スコウプは小さくなっていく少女を見送っていた。
「さて、スコウプくん。『休憩所』のお掃除が終わったら、お仕置きですよ。……庵を出てすぐ、彼女を不必要に怖がらせていましたね?」
「はぁ!? 怖がらせたのはキールも一緒じゃねぇか! あれだけ地獄見せられたあとに、俺に一体何しろってんだ!?」
「そうですね、少しで結構です。血液か、肝臓か……。彼女を見逃していただいたお礼に、エヴヌス様への手土産を作りたいのですよ」
「嫌だ……、ぜッッッッてーに、嫌だ!!!」
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