8.少女と魔窟

 息を弾ませて、少女は洞窟への下り坂を駆けていた。

 途中、数匹の魔物に襲われたが、人面疽が勝手に舌を伸ばし、突き殺して食べてしまった。胃の重苦しさに吐き気を催しながら、それでも少女は足を止めない。

「スコウプさんの、うそつき……」

 呟いて、大きく頭を振る。違う。私のせいだ。私があのとき、すぐ逃げなかったから。

「私のせいで……」

 はっきりと傷口を見たわけではなかったが、ゲルマの腕の角度とスコウプの体勢で、何が起こったのかは分かっていた。胴を貫かれて、生きていられるとは到底思えない。死にゆく恩人を放置して逃げたうしろめたさと、言われたとおりに逃げなかった後悔と。

 だが、少女もまた、守りたかったのだ。共に旅する仲間を。道中のスコウプの、鮮やかな剣さばきが思い出される。少女は決して剣技には詳しくなかったが、あれが並の剣士の仕事だとはとても思えなかった。そのスコウプが苦戦する相手だ。少しでも力になれたら、と思ったのだ。

 少しだけ、諦め悪く。スコウプに言われた言葉を思い出し、初めて、自分の意志で人面疽を使おうとした。どうしても怖くて、悲鳴を上げて目を瞑ってしまったけれど。自分の身に危険が降りかかれば人面疽が動くことは分かっていたし、実際その通りになった。だが。

「結局、あれがいけなかった……」

 人面疽は身体を乗っ取ろうとスコウプの背後に回り、それを狙ったゲルマによってスコウプは貫かれた。そして少女はその場から逃げた。身体を移動させたのが人面疽だったとしても、それは少女の意志通りのことだ。少女自身が逃げたのと意味は同じだった。

「やっぱり、初めから私が死んでいれば」

 こんなことにはならなかったのに。やっぱりすべての悪いことが、自分が生きていたせいで引き起こされたように感じてしまう。私がここに来なければ。私があの日、人面疽なんかに取りつかれなければ。そもそも私が、生まれていなければ。

「ママとパパも、生きていられたはずなのに……」


 気がつけば、少女は洞窟の入り口に立っていた。奥の暗がりの中、微かに青白く光るものが見える。説明を受けた、光が見える洞窟。少女は確信した。

 スコウプには、光るあたりで待っていろと言われたような気がする。だが、いくら待ったところで死んだ剣士は現れないだろう、と少女は思った。彼女はスコウプの変身を見ていない。当然の判断ではあった。

 洞窟に踏み入ると、青白い光は一層輝いて見えた。幻想的な光景に、少女は思わず息を飲む。床壁天井全方位すべてが点々と、淡く光っていた。まるで、満天の星空の真ん中に立っているような。

「きれい……」

 この美しい光景を、しかし、一緒に眺めたいと思う相手は皆、自分で殺してしまったのだ。母も、父も、それから……スコウプも。

「……最後に、これが見られてよかった」

 少女は振り仰ぎ、洞窟の奥を見やった。まるでそこだけ切り取られたように輝きがなく、穴のように暗い。少女は暗闇に一歩踏み出した。この先に、魔物がいる。あまり強くはないって話だけど、真っ暗な中で襲われたらきっと、人面疽だって対処できない。渡されている明かりを使わず、少女はもう一歩、進み出た。そう、私が、死ねばいいんだ。


 少女の思惑通り、人面疽は反応しなかった。聞き耳を立てているのか、あるいは服の下からどうにかして外を見ているのか。何を引き金に人面疽が行動を開始しているのかはっきりとはわからなかったが、少なくとも、明らかな危機である暗闇へ歩みだしても人面疽が慌てる様子はなかった。少女は躊躇することなく、真っ暗な横穴を奥に向かって進み続けた。光苔が見えなくなってからは、壁にぶつからないよう、両手を斜め前に伸ばして。キールに預かったバスケットは片腕に掛けられ、静かに揺れている。


「あっ」

 突然、何の前触れもなくそれは来た。

 伸ばしていた右腕の中ほどを、何か鋭利なものがひっかいていったのだ。皮膚が切れて血の滲む感覚のあと、沁み込んでくるような強い痛みが、確かにあった。

 少女の平衡感覚が崩れ、力が抜けて両腕が下がっていく。バスケットが腕から滑り落ちた。預かっていたものが飛び出し、カシャンと割れる音がする。確か、混ぜるとランタンになるお水、だったかしら。少女はぼんやりとキールの説明を思い出し、薄れていく意識に身を任せる。

「ママ、パパ、もうすぐ」

 会えるよ。ゆっくりと目を閉じて、暗闇の中で少女は微かに笑みを浮かべた。

 毒。レッサーイェールは牙に毒を持つ。暗闇に順応した視覚と鋭敏な嗅覚を持ち、音もなく即効性の毒を打ち込み相手を捕食するのだ。

 割れて混ざった床の液体が、光苔によく似た色の光を放ちはじめる。人面疽はようやく、慌ててその醜い舌を伸ばした。だが、少女の身体は既にぐったりと力を失い、呼吸もほとんど感じられなくなっていた。

「クソがよおっ、女の身体に何しやがったこの腐れ猫めがあっ!」

 少女の腹からダミ声が響いた。床の液体から放たれた光で、洞窟内の魔物の姿が青白く浮かび上がっている。瘦せた小さめの虎のような姿。三つ目であることの他は、口の横に髭のように左右にぴんと突き出た白いものが特徴だ。この牙をこすりつけるようにして、相手に毒を送り込むのだ。

「クソがっ、クソがよおっ! 殺しやがったのか、俺の宿主! 宿主が死んだら、俺は……!」

 口角に泡を垂らして、吠えるように人面疽はまくしたてる。レッサーイェールは耳だけをぱたぱたと振り、三つのの目でじっと人面疽を見ていた。この魔物にとって、一度毒を送り込んだ相手はもはや食材だ。動かなくなるまで、ただ待てばいいのだ。

「いやだーっ、死にたくねぇっ! 死にたく……そうだ……!」

 人面疽はレッサーイェールを見据え、舌を伸ばしてその胴に巻き付けた。驚いたレッサーイェールがびくりと身じろぎした瞬間に、紫色の舌先は既に魔物の胃を突き刺している。

「大した身体じゃあねぇが、仮住まいだ。もらっとくぜぇ」

 胃の中に吸い込まれるように、ずるずる、ずるずる、と舌が入り込んでいく。やがては人面疽のすべてが舌状になり、呼吸を止めた少女の身体から抜け出ていった。倒れ込んだ少女のはだけた白い腹には、傷一つ残っていない。

 やがて、醜い大ミミズのような人面疽が潜り込んだレッサーイェールの腹に、例の醜い顔が浮かびあがってきた。ぐぇへへへへ、と醜い声を上げる。

「さぁて、身体が定着したら、女の死骸でも喰っておくかぁ」

 人面疽がもう一度下卑た笑い声を上げようとした、そのとき。


「はい、お疲れ様です。お見事でした」

 入り口側から声がした瞬間、激しい光芒が洞窟全体を焼いた。

 ミギャアアアアアアアアッ! と叫んだのはレッサーイェールだ。暗闇の生活に慣れた目には、光の洪水は劇薬だった。

「なんだぁっ!?」

 薄目を開けて見ようとした人面疽の目には、かつての宿主を抱き上げる、淡い金色の長い髪が見えた。金髪の青年は、エメラルドの瞳を細めてにっこりと笑う。

「まさかここまで筋書き通りに動いていただけるとは。ありがとうございます」

「筋書きだぁ!?」

 はい、と答えて、キールは左腕に少女を抱いたまま、右腕をかざして手のひらを開いた。

 瞬間、ズシン、と鈍い音が響く。人面疽にもレッサーイェールにも、何が起こったのかしばらく理解できなかった。キールが作り出した分厚い氷の壁はあまりにも透明で、外側から入り口を完全にふさがれたことに気づけなかったのだ。キールは優雅に人面疽たちに手を振ると、やがて窒息死する哀れな魔物たちに背を向け、洞窟を出た。


「さて、と」

 洞窟を出てすぐ、キールは少女を地面に寝かせ、しゃがみ込んで手早く施術をはじめた。

 少女の腕の傷を見つけると、鞄からメスを出し、取り出した小瓶の液体に浸す。傷口を撫でるように少し切り込み、包帯を巻くと、少女の様子を伺った。

「戻ってきてください、終わりましたよ」

 まるでその言葉に応えるかのように、少女はゆっくりと息を吸い、吐き出した。眠ったままではあるものの、静かに呼吸が続いている。

「念のため、閉じておきましょうか」

 立ち上がったキールは洞窟の前に立ち、こともなげに眼前の空間を撫でるような所作をする。刹那、圧縮されたように洞窟の入り口は轟音を立てて潰れ、瓦礫の壁となった。




 未だ、スコウプはゲルマに食らいついたままだった。

 ぶよぶよと柔らかそうな頭はしかし、柔らかすぎて逆に食いちぎれなかったのだ。いくらでも牙が食い込み、引っ張ればもっちりと、強靭な表皮が阻む。喉の奥から低い唸り声を上げ、スコウプは数え切れないほど引っ張り続けたゲルマの頭皮をもう一度、引きちぎろうと試みた。徒労が、巨躯から体力を奪っていく。

 それでも、この鉱物食の巨大な魔物をここに足止めできているだけで、ギリギリ及第点というものだった。ゲルマは尚も、少女が去った先を目指そうとしている。一体彼女に何の執着があるのか。強めに押し返して、もう一咬みしようと口を開き直したとき。

「スコウプくん、ご苦労さま」

 ふわりと現れたキールが、抱きかかえていた少女をそっと地面に寝かせた。手に持っているのは、出かける際に少女に持たせた香りのサシェだ。キールは包みを解き、花のポプリの中から艶のある乳白色の石を取り出した。

「もう大丈夫ですよ、離れてください」

 言って、手の中の石をゲルマの横に放る。ころころと転がる白い石めがけて、ゲルマの爪が降り注いだ。一瞬の粉砕。七枚の爪の付け根にある吸入口から石の破片を吸い込むと、ゲルマは満足したようにもぞもぞと踵を返し、巣のあるジオノイル方面に向かって移動を始めた。

「……ッ、そレ、石、おマエ……」

 ええ、と頷いて、にっこりとキールは微笑む。

「ゲルマの大好物です。信じていましたからね。スコウプくんなら、やり遂げてくれると」

 グルルルルアァ! とスコウプは激しい唸り声を上げた。

「おレはイイ! キールてメェ、嬢ちャンまで危険にサらシヤガッて、オイ……!」

「荒療治だったことは認めます。ですが……成功しましたよ」

 ふわりと笑みを見せるキールにスコウプは次の言葉を詰まらせた。代わりに、ガウッと一際大きく咆哮する。

「ムチャクチャしヤガッて……! アの人面野郎、アヤうク俺ニ、トリツくトコだッタンだゾ!?」

「おや、それは残念」

 キールはエメラルドの瞳をきらりと光らせた。

「もし上手くいくなら、スコウプくんに取り込んで欲しかったんですよ。ぜひ、研究してみたかった」

 変身を使わずに済んだ場合ですけどね? そう言って少女を抱き上げたキールに、スコウプは激しい唸り声を浴びせる。

「ガルルァアァア!? 何いッテンだ!? 俺ニ、ドうシテ……。ダイたイ、コンな危ナッかシイことシナくテモ、モットあッタダろ、ヤリかタガ……!」

「ええ、ありましたよ。密室でスコウプくんと二人きり、君から彼女にそれと分からせず、仮死の神経毒を刺してもらう方法です。それならもっと安全に、彼女から君へ人面疽を移し替えることができましたが……可能、でしたか?」

 スコウプは大ぶりのオオカミの耳をピンと立て、ぶるぶると首を横に振った。例え助かると分かっていても、何も知らない女の子に仮死状態にする毒を刺すなど、とてもできる気がしない。第一、二人きりの密室で、相手の女性を警戒させず密着できるような状況を作る、なんて真似は……。

「デキるワケ、ネェダろ!」

「ですよ、ね?」

 キールの笑顔が腹立たしい。その笑顔が空を仰ぎ、おや、という表情に変わった。

「日が傾いてきました。あと一、二刻、と言ったところでしょうか。今回の効果は」

 グゥ、とスコウプが呻く。

「せっかくですし、その翼で山頂全体を見回ってきてくれますか? なるべく、有翼人さんたちを驚かせないように」

 また無茶な、と言い返そうとして、スコウプは口を噤んだ。どうせやらされることは覆らないし、とにかく口がしゃべりにくい。空気を漏らさずに声を出せる、唇という人体器官の偉大さを改めて噛み締めてしまう。それより、聞けるうちにもっと大事なことを聞いておきたい。

「……今回、モトニもドルノに、何日クラいカかル……?」

「早めを意識してみましたが、早すぎるのも危険です。やはり三日はかかると覚悟してください」

 グゥゥ、とさらにスコウプが呻く。

 それでは先に戻っていますね、と、キールは一礼してふわりとその場を離れた。


 巨躯の灰狼はその精悍さに見合わぬ大きな溜息をつき、ぺったりと耳を寝かせてうなだれた。しばらくそうしたあと、ふと、周辺を見回す。

「ソウいヤ、俺ノ足……」

 手の届く範囲にちぎれた右脚を見つけると、あァ、と落胆するような声を上げて、スコウプはそれを拾い上げた。足首をつかまれて拾い上げられた右脚は、腿の重みでゆっくりと膝が曲がる。中に残っていた血液が、搾り出されるように滴り落ちた。

「なイト、ヤべェよナァ……」

 スコウプはおもむろに、拾った自分の脚に囓りつく。獣らしい荒々しさで、大まかに噛み砕いた足を、あっという間に飲み込んだ。

 スコウプは狼の額に皺を寄せ、何とも言えない表情をした。旨いとか不味いとか、そういう判断をしないために。怖いのだ。これを旨いと言ってしまったら、心まで獣になってしまうような気がして。

 本能的に舌なめずりをすると、スコウプは四枚の翼を広げて、夕暮れが近づく空に飛び上がった。

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