6.キールとエヴヌス
赤茶けた布の包みを持って、男が一人、洞窟へと入っていく。山の頂上にほど近いこの洞窟には、魔物の棲処として一般的に指摘される特徴は何一つ備わってはいない。周囲に散乱する骨もなければ、悪臭や異音、まして爪痕などルーペで探したって出てはこない。けれどもこの小綺麗な洞窟には、魔法や呪術に何の興味のない素人でさえ吐き気を催すほどの、ねっとりと濃密な魔力が充満していた。
奥から微かに吹き出してくる風に金色の髪をそよがせながら、ごくわずかな手元の明かり一つで男は先へと進んでいく。風に乗って届く甘い香りに、微笑みさえ浮かべながら。
不意に、男の目の前にもう一人の人影が立ち上がった。
「……久しいな、キール。もうここへは遊びに来てくれぬのかと思っていたぞ」
キールは立ち止まって、現れた人影にふわりと一礼する。
「ご無沙汰しております。といっても、ほんの半年のことですが」
「わしやおぬしにとっての一瞬で、木は枯れ、人は死に、国は生まれ滅びる。刹那と永遠は同価値のものと知らねば」
「ごもっとも」
人影は振り向いて洞窟の奥の方を見やり、キールを促した。
「立ち話もなかろう。おぬしが先日持ち込んだテーブル、捨てずにとっておいたぞ」
「あれはスコウプ君がこの山へ来たばかりの頃に作ったものでしょう。もう随分と前ですよ」
「ハハハ、所詮は主観と主観。真実などどこにもありはせぬ」
「客観性を真実と呼ぶのなら」
二人の人影は、吸い込まれるように洞窟の奥へと消えていく。
『エヴヌス窟』と呼ばれるその洞窟は、特徴的な形をしている。
九つの入り口は山の九方向へ分度器で測ったように等間隔で口を開き、そこから伸びた通路はまっすぐに山の中心部で交わる。交点は広大なドーム状の空間になっており、人間の何倍もある高さの天井は、きれいに丸く押し固められている。
そのドームを埋め尽くすように、巨大な緑色の肉塊が詰まっていた。半透明のその肉塊は、九つの通路に一本ずつ触手のような気管を伸ばし、その先から強い幻覚作用のあるガスを発散しているのだ。
魔王エヴヌス。竜の峰最大にして最賢の魔物。伸ばした触手の先は、発散する甘いガスの作用で幻覚を纏う。見る者の記憶の中でもっとも威厳と尊厳を与えられた人物の姿を。
「相変わらず、お元気そうで何よりです。また少し太られましたね」
ドームの蠢く肉塊を見上げて、キールはのんびりと評する。肉塊の表面には無数の管が浮き上がり、血液とおぼしき液体は脈打つ度に緑の光を放った。その光で、ドーム全体が薄ぼんやりと明るくなっている。
「このところ、少しばかり食い過ぎているやもしれぬ。魔物にも節制は必要、といったところか」
「おや、それではこの土産は酷でしたか」
肉塊の前にぽつりと設えられた椅子とテーブルに腰を落ち着け、キールは持参した包みを卓上に乗せた。向かい側に座った人影は、にやりと笑ってみせる。
「キャラメルかな? いや、もちろん頂こう」
半分白髪に侵された焦茶色の髪は一見、赤みがかったグレーのようにも見えた。同じ色の豊かな髭が、上唇の上にたっぷりと蓄えられている。五十代後半といった風貌は、恰幅の良さもあり堂々たるものだ。理知的な瞳にはある種の上品ささえ漂っている。
エヴヌスは包みを受け取り、慣れた様子で包装を解いた。薄い木板の上に四角く固められた、黒い菓子のようなものが現れる。チョコレートのようにも、ケーキのようにも見えるそれは、焼けつくような甘い香りの中に、強く鉄のにおいを含んでいた。
「ふむ、おぬしは相変わらず、黒キャラメルが上手いな。……だが所詮、材料はあのスコウプとかいう小僧の血なのだろう?」
「ご明察です」
にこにこと、キールが答える。鍋一杯の血液をゆっくりと弱火にかけ、少量の甘蜜を加えながらことことと焼き焦がして作るこの菓子が、エヴヌスの一番の好物だった。
「だが、幼子を三、四人、一度に搾って煮るのが本当だな。同じ人間からちびちび掬い取った血では、鮮度も良くなかろう」
「ご心配なく。冷凍保存していますから」
エヴヌスは椅子に座ったまま肉塊の方を見やり、そのまま無造作に板ごとキャラメルを放り投げた。緑の肉塊に板の角が突き刺さり、そのまま沈むように奥の方へ引き込まれていく。
「いやその魔力、わしの腹の中で行使されんで本当に良かったわい。わしとて氷菓子になっておったやも知れぬ」
実に愉快そうにエヴヌスが笑う。キールは微笑しながら首を振ってみせた。
肉塊が一瞬ちかちかと強く光り、ドーム内を一陣の風が吹き抜ける。洞窟内のキールを気遣って、エヴヌスが残り八本の触手から取り込んだ新鮮な空気を送り込んだのだ。生暖かい風を受けてキールの髪が揺れる。黒キャラメルは、すでに跡形もなくなっていた。
「しかし、騎士団とか名乗る男どもを八人まとめて食ったのがいけなかった。少しおぬしにも残しておくべきだったかな?」
「いえ、人体器官は今のところ間に合っていますよ。どの国の騎士団か……聞くだけ野暮ですね」
「名乗る前にわしの腹の中よ。うむ、大変美味」
エヴヌスは目を閉じ、まるで音楽を聴くようにじっくりと黒キャラメルを味わっている。キールは軽く会釈して、ありがとうございます、と返した。
「人間、と言えばですが」
言って、キールはテーブルの上の両手を軽く組み合わせた。目を閉じていたエヴヌスが瞼を開く。
「先日、少女をひとり通されましたね」
「ははあ、あの娘、本当におぬしのところまでたどり着きおったか」
エヴヌスは愉快そうに目を細めた。
「どのみち途中で食らいつくされると踏んでおったのだが」
「四日ほど前、私の庵に訪ねてきたのです。人面疽を患っていました」
「ああ、わしも見た」
咳払いしてエヴヌスがテーブルの下で片手を振った。奇術のように忽然と、その手には先ほどキャラメルの載っていた板が握られている。肉塊状の本体から、触手を伝って送り込まれたものだ。
「あやつ本人も喰われたがっておったし、またとない希少な食材でもあったのだがな。あの人面疽は実に厄介であろう? 宿主を殺せば、殺した相手に宿ってしまう」
「どうやら、運悪く森の瘴気溜まりから拾ってきてしまったようです。……私の庵を教えましたね?」
悪戯を見つかった子どものような表情をわざと作って、エヴヌスはとぼけてみせた。
「いくら若い娘の血肉の代価とは言え、あのような厄介者と共に暮らす義理はないわい」
「なるほど。それで私に治療させて、治ったところを食べるおつもりでしたか」
微笑を浮かべたままキールは言う。エヴヌスは豪快に笑った。
「ハハハ、そこまで見透かされては手も足も出ぬわ。やむを得ん、あの娘の身柄、このキャラメル一枚で売り渡そうぞ」
卓上に板を置き、エヴヌスが言う。キールは首を竦めてみせた。
「身柄、とはまた大層ですね。彼女がここを通るとき、手出ししないでいただければ結構ですよ」
「どうせあのスコウプとか言う小僧に護らせるのだろう? おぬしも人が悪い」
にやりと笑うエヴヌスに、キールはにっこりと微笑み返す。
「ありがとうございます。これで安心して治療の成果を確認できますよ」
「ほほう、もう手を打ったか」
満足そうにエヴヌスは髭を撫でた。ドームがにわかに明るく輝き、再び暖風がキールの喉元を掠める。
「おぬしのことだ、また術策の数々を駆使しておるのだろうな」
「術策、などという緻密なものではありませんよ」
そう言って微笑むキールの耳元に、キキ、と小さな鳴き声が届いた。
「おや、残念です。そろそろ私の出番が来たようですね」
木の板を布で包みながら、キールは実際残念そうに眉根を寄せた。キールの肩の上では、小さな猿のような生き物が何か言いたそうに小声で鳴き声を上げている。
「うむ。もう少しじっくりと語り合いたかったが。伝令を飛ばしておったか」
「あの少女の治療が済んだら、またお邪魔しますよ」
キールが席を立ち、エヴヌスも椅子から腰を上げた。
「また再び、永遠なる刹那を待ち続けることとしよう」
そう言ったエヴヌスの顔をしばらく眺め、キールはくすりと笑った。
「はい。……それにしてもエヴヌス殿、今ではすっかりその姿はあなたのものですね」
エヴヌスは片眉を上げた。
「おぬしの父の姿だそうだな。一度見てみたいものよ。わしには鏡を使ったとて見ることはかなわぬ」
「貧しい医者でしたがカリスマのある男でしたよ」
キールは言うと、ふわりとエヴヌスに一礼した。
「お邪魔いたしました。どうぞ、お元気で」
「うむ。おぬしも娘のチェルを大切にな」
「はい」
細く暗い通路を戻っていくキールの片耳に両手を乗せ、小さな猿様の生物は耳の中を覗き込むように身を乗り出した。そしてそのまま、煙のように細くなって耳の中へと消えていく。小さくなっていくキールの後ろ姿を、エヴヌスは微笑ましげに見送っていた。
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