猫の手も借りたいといってみたら。

神代ゆうき

第1話 猫の手も借りたいといってみたら。

私の右手には、三千万円の保険金がかけられている。


指先一ミリのささくれは欠陥品であり、

一筋の血管の浮きは致命的なノイズだ。


この皮膚の下に血が流れていることすら、

カメラの前では隠さなければならない。


シルクの手袋を脱ぐのは、

暖房の効きすぎたスタジオか、

あるいは誰の目にも触れない深夜のバスルームだけ。


数々の名だたるジュエラーの広告塔となっている私の手は、

もはや私の一部ではなく、

高価な宝石を際立たせるためだけに存在する、

体温を奪われたオブジェだった。


撮影のスケジュールは、再来年まで埋まっている。


連日の撮影で疲れ果て、

私の部屋はすっかり荒れ果てていた。


そんな生活の中で、

唯一の楽しみが、深夜のネットサーフィンだった。


何を探すでもなく、

画面を眺める。


「あーあ……ハンバーグ、食べたい」


冷めきったコンビニのサラダを、

シルクの手袋をはめたまま、

割り箸でつつきながら、私は独りごちた。


その時だ。


スマホの画面に、

場違いなほど愛らしいフォントの広告が躍り出たのは。


『株式会社 猫の手――

家事代行サービス。忙しい貴方をお手伝い致します』


「なに、これ……㈱猫の手って」


半笑いでスクロールする。


掃除、洗濯、買い物代行、料理。


思わず、手元のコンビニサラダに視線が落ちた。


軽い気持ちだった。


業界の仲間内では、

こういったサービスを使うのも珍しくない。


希望理由の欄に

「猫の手も借りたいほど忙しいため」

と打ち込み、

ベテラン、料理上手、フレンドリー。


思いつくままにチェックを入れて、送信する。



翌朝。


インターホンを鳴らしたのは、

二本足で直立し、

ビジネスライクな一礼を決める一匹の猫だった。


ミルクティー色の毛並みに、

前足だけ、

まるで白い手袋をはめたような柄。


「おはようございます。派遣のミトンです。

㈱猫の手から参りました」


一瞬、言葉を失った私に構わず、

ミトンは名刺を差し出した。


小さな前足には、確かに肉球がある。


猫……どう見ても猫だ。



「お客様のご希望理由に

『猫の手も借りたい』とございましたので……」


慌てて派遣元に電話をした私に、

㈱猫の手の受付が悪びれもなく言う。


「だからって……」


「ご心配には及びません。当社のミトンは経験豊富なベテランですので」


「はあ……」



それが、私の「手」が再び体温を取り戻すまでの、

物語の始まりだった。



ミトンの仕事ぶりは、完璧だった。


掃除機は家具に一切ぶつけず、

洗濯物は素材ごとに分けられて、

丁寧に畳まれていく。


部屋が一通り片付いたところで、

ミトンは小さく息をつくような仕草をした。


小さなリュックの中から、

きちんと畳まれた割烹着とキッチングローブを取り出す。


ミトンは割烹着を広げ、

白い前足で紐を引いた。


きゅっと結ばれるその動きが、

あまりに手慣れていて、

私は一瞬、呼吸を忘れた。


そして、肉球があるはずの前足で、

包丁を驚くほど繊細に操りはじめた。


私はただ、

距離を取ってそれを眺めていた。


――傷つくから。

――荒れるから。


そう言って避けてきた家事を、

猫が軽やかにこなしていく。


夕食のテーブルに並んだのは、

手捏ねのハンバーグと、里芋の煮物。


豆腐とわかめのお味噌汁から、

湯気が立ちのぼっている。


ハンバーグの表面に、

まだ熱が残っているのがわかった。


「……これ」


「昔、お好きだったと記録にございましたので」


私は、思わず言葉をのんだ。


(そんなこと、一言も伝えた覚えは……)


「どれも、

手が荒れてしまいがちなお料理ですから。

この機会に」


その言葉に、

思わずミトンの顔を見た。


好きだった。確かに。


でも、手が荒れるからと、

いつの間にか作らなくなった。


宝石を際立たせるための、

静止した私の手。


誰かを喜ばせるために動く、

ミトンの手。


その差が、

胸に刺さった。


契約終了の時間。


帰り支度を整えたミトンに、

私は思わず尋ねていた。


「……どうして、そんなに器用なの?」


ミトンは、

自分の前足をじっと見つめたあと、

ほんの一瞬、口元が緩んだように見えた。


「私たちは、

お客さまのご要望に応じて手を貸すだけです」


「その手で何をするのかを決めるのは、

お客様自身ですから」


差し出された白い前脚に、

私は一瞬ためらい、

それから――シルクの手袋をはずした。


そっと手を伸ばす。


ふわふわの、

柔らかな肉球の感触。


その温もりに、

ふと、遠い記憶がよみがえる。


小学生だった私が、

学校帰りに拾った子猫。


マンションだから飼えないのよ、

と母に言われ、泣いたっけ。


やむを得ず里親を探してもらった、

あの子猫は――


こんな柄では、なかっただろうか。



翌朝、私はマネージャーに電話をかけた。


「次のCMなんですが」


「手を動かしているカット、増やせませんか」


一瞬の沈黙のあと、私は言った。


「……命が、映るようにしたいんです」


電話口の向こうで、

マネージャーは、少し考えるように黙った。


私はそれ以上、何も言わなかった。


電話を切ったあと、

ふと、ミトンの前足に触れたときの感触を思い出した。


あの柔らかさが、

まだ手のひらに残っている気がした。





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