第1章 生存 1-9 身体検査



検査室は、病院の診察室のような空間だった。


白い壁。清潔なリノリウムの床。窓はなく、蛍光灯の光だけが室内を照らしている。


中央には診察台があり、その横に様々な測定機器が並んでいた。血圧計、心電図モニター、そして——俺の知らない機械もいくつかあった。


恐らく、魔力測定用の機器だろう。


ダンジョン出現後、人類は「魔力」という新しいエネルギーの存在を認識した。それを測定する技術も、この4年半で発展したのだろう。


俺は室内を見回しながら、対策を最終確認した。


```

[身体検査対策]

問題点:俺の身体能力は人間の限界を超えている

対策:出力を意図的に抑制し、「人間の平均値」に偽装する

具体的手法:

 ・心拍数:60〜80bpmに調整

 ・血圧:120/80mmHg前後に調整

 ・体温:36.5℃前後に調整

 ・魔力量:E級冒険者の平均値に調整

 ・反射速度:測定時は意図的に遅延を入れる

リスク:偽装が不完全だった場合、再検査の可能性あり

```


問題は、俺がどこまで「自分の体を制御できるか」だった。


俺の体は、八神博士によって設計された。だが、全ての機能を俺自身が把握しているわけではない。無意識のうちに、異常値を出してしまう可能性もある。


慎重にいかなければ。


ドアがノックされた。


「失礼します」


入ってきたのは、白衣を着た中年の男性だった。


禿げ上がった頭。丸い眼鏡。温厚そうな顔立ち。首からはIDカードを下げており、「検査担当・野村」と書かれていた。


「新規登録の方ですね。検査担当の野村です」


「よろしくお願いします」


俺は軽く頭を下げた。


野村は俺の用紙を確認しながら、診察台の横に立った。


「零さん、ですね。記憶喪失とのことですが、体調はいかがですか?」


「特に問題ありません」


「それは良かった。では、簡単な検査を行いますね。痛いことはしませんので、リラックスしてください」


野村の物腰は柔らかかった。


何百人、何千人もの新規登録者を検査してきたのだろう。手慣れた様子で、機器の準備を始めた。


「まず、血圧と心拍数を測ります。こちらに腕を」


俺は診察台に座り、左腕を差し出した。


野村が血圧計のカフを巻きつける。


俺は意識を集中させた。


```

[出力調整]

心拍数:65bpmに固定

血圧:118/76mmHgに調整

実行中......

```


シュー、とカフが膨らむ。


圧迫感。だが、痛みはない。


野村はモニターを見つめている。


数秒後、カフの空気が抜けた。


「血圧118の76、心拍数65。正常値ですね」


野村がメモを取る。


第一関門、クリア。


「次に、体温を測ります」


耳式の体温計が、俺の耳に当てられた。


ピッ、と電子音。


「36.4℃。こちらも正常です」


第二関門、クリア。


「では、魔力測定を行います」


野村が、見慣れない機器を持ってきた。


透明な球体が台座に乗っており、その周囲には複雑な紋様が刻まれている。科学と魔法が融合したような、不思議な装置だった。


「この球体に手を触れてください。魔力量と属性を測定します」


「分かりました」


俺は右手を伸ばし、球体に触れた。


冷たい。


ガラスのような質感だが、どこか「生きている」ような感触がある。


俺は魔力の出力を調整した。


本来の俺の魔力量は——正確には把握していないが、恐らく相当なものだ。体内に埋め込まれた魔物の素材が、魔力を生成している。


だが、それをそのまま出すわけにはいかない。


```

[魔力出力調整]

目標値:E級冒険者の平均(100〜150MP相当)

現在の出力:5%に抑制

実行中......

```


球体が、淡く光り始めた。


青白い光。ゆっくりと、内部から発光している。


野村がモニターを確認する。


「魔力量......127MP。E級相当ですね。属性は——無属性、ですか」


「無属性?」


「特定の属性に偏っていない、ということです。珍しくはありませんよ。むしろ、無属性の方が汎用性が高いと言われています」


野村はメモを取り続けた。


第三関門、クリア。


だが——ここからが問題だった。


「では、最後に身体能力の簡易テストを行います」


野村が、別の機器を準備し始めた。


「握力計と、反射速度測定器です。冒険者としての基礎能力を確認するためのものですね」


握力と反射速度。


これが一番危険だ。


俺の握力は——測定したことはないが、恐らく人間の限界を遥かに超えている。反射速度も同様だ。


意識的に抑えなければ、確実に異常値が出る。


「まず、握力から。この握力計を、思い切り握ってください」


野村が握力計を差し出した。


俺はそれを受け取った。


思い切り握る——わけにはいかない。


俺は、「人間の平均的な握力」を計算した。


```

[計算]

成人男性の平均握力:約45〜50kg

冒険者志望の若者の場合:やや高め、50〜60kg程度が妥当

目標値:55kgに調整

```


俺は握力計を握った。


力を入れる——ふりをしながら、出力を55kg相当に抑える。


難しい。


本来なら、この握力計を握り潰せる。だが、それを「ギリギリ頑張っている」ように見せなければならない。


顔に力を入れる。歯を食いしばる演技。腕に力が入っているように見せる。


数秒後、力を抜いた。


「——55kg。平均的ですね」


野村がメモを取る。


俺は内心で安堵した。


演技は成功した。


「では、次に反射速度です」


野村が、小さな装置を持ってきた。


ランプが付いており、ボタンが一つある。


「このランプが光ったら、できるだけ早くボタンを押してください。反射速度を測定します」


「分かりました」


俺は装置を受け取った。


反射速度の測定。これが最も難しい。


俺の本来の反射速度は、人間の限界を遥かに超えている。ミリ秒単位で反応できる。だが、それを出すわけにはいかない。


```

[計算]

一般人の平均反射速度:約200〜250ミリ秒

冒険者志望の若者の場合:やや速め、180〜220ミリ秒程度が妥当

目標値:200ミリ秒に調整

```


ランプが点灯した。


俺は——意図的に遅延を入れて——ボタンを押した。


ピッ、と電子音。


「反射速度......198ミリ秒。良好ですね」


野村が頷いた。


「冒険者としては十分な数値です。探知系スキルをお持ちなら、実戦ではもっと速く反応できるかもしれませんね」


「そうですか」


俺は曖昧に頷いた。


第四関門、クリア。


全ての検査が終わった。


野村は書類をまとめながら、俺に向き直った。


「検査は全て正常です。冒険者登録に問題はありません」


「ありがとうございます」


「受付に戻って、登録手続きの続きを行ってください。冒険者カードは、今日中に発行されますよ」


「分かりました」


俺は立ち上がり、検査室を出ようとした。


その時——


「あ、零さん」


野村に呼び止められた。


振り返る。


野村は、少し不思議そうな顔をしていた。


「何か?」


「いえ......」


野村は首を傾げた。


「記憶喪失とのことでしたが、体の状態は非常に安定していますね。普通、記憶喪失の患者さんは、どこかに不調を抱えていることが多いのですが」


「......そうなんですか」


「ええ。頭痛がしたり、めまいがしたり、体のどこかに違和感があったり。でも、あなたの数値は全て正常——むしろ、理想的なくらいです」


野村の目が、俺を観察している。


警戒心はない。純粋な好奇心だ。医者として、あるいは研究者として、俺の体に興味を持っているのだろう。


「運が良かったのかもしれません」


俺は曖昧に答えた。


「ダンジョンで何があったか分かりませんが、大きな怪我はなかったようなので」


「そうですか......」


野村は納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。


「まあ、健康なのは良いことです。冒険者は体が資本ですからね。お体に気をつけて」


「ありがとうございます」


俺は頭を下げ、検査室を出た。


廊下を歩きながら、俺は考えていた。


野村は鋭かった。


俺の「異常な健康さ」に、疑問を持っていた。今回は追及されなかったが、今後もこういう場面はあるだろう。


「普通の人間」を演じるのは、想像以上に難しい。


完璧すぎても駄目。異常があっても駄目。「ちょうどいい人間らしさ」を演じ続けなければならない。


それは——終わりのない綱渡りだ。


だが、やるしかない。


これが、俺がこの世界で生きていくための、唯一の方法なのだから。


---


受付に戻ると、山岸が待っていた。


「検査は問題なかったようですね」


「はい」


「では、登録手続きを完了させます。少々お待ちください」


山岸がキーボードを叩く。


数分後——


「はい、これで登録完了です」


山岸が、一枚のカードを差し出した。


俺はそれを受け取った。


プラスチック製のカード。表面には俺の名前と、ランクが記されていた。


「E級冒険者・零」


顔写真なし。仮登録の印字。シンプルなデザイン。


だが——これは、俺の「存在証明」だった。


「このカードがあれば、ダンジョンへの入場、素材の換金、各種施設の利用が可能になります」


山岸が説明を続ける。


「ランクアップは実績に応じて審査されます。依頼をこなし、活動記録を積んでください」


「分かりました」


「何か質問はありますか?」


「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」


俺は頭を下げた。


山岸は事務的に頷き、次の客の対応に移った。


俺はカードを握りしめ、ギルドのロビーを後にした。


---


自動ドアを抜けると、外の空気が肌を包んだ。


太陽は高く昇り、街は昼の賑わいを見せている。


俺は手の中のカードを、もう一度見つめた。


「E級冒険者・零」


これで、俺は「社会的に存在する人間」になった。


ダンジョンに入れる。金を稼げる。この世界で、生きていける。


第一歩を、踏み出した。


「おーい、レイ!」


声がした方を見ると、佐野が手を振っていた。


ビルの入口の横、自動販売機の前に立っている。手には缶コーヒーを持っていた。


「終わったか?」


「はい。登録できました」


俺はカードを見せた。


佐野がそれを覗き込み、ニカッと笑った。


「おお、E級冒険者・零か。正式に仲間だな」


「......はい」


「よし、じゃあ祝いだ。昼飯おごるよ」


「いいんですか?」


「いいっていいって。後輩の登録祝いくらい、先輩として当然だろ」


佐野は俺の肩を叩いた。


俺は——少しだけ、笑顔になっていた。


作り物ではない、自然な笑顔。


「ありがとうございます」


「よし、行くぞ。この辺に美味い定食屋があるんだ」


佐野が歩き出す。


俺はその後に続いた。


空は青く、太陽は眩しかった。


冒険者としての、最初の一日が始まろうとしていた。


---


**第1章 生存 1-9 身体検査 終**

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