第1章:生存 1-2:霧谷の洞窟
2時間後。
「霧谷の洞窟」の入口に到着した。
山道を抜けた先に、それはあった。切り立った岩壁に穿たれた、暗い洞窟の入口。周囲には木々が生い茂り、朝もやが薄くかかっている。
幻想的な光景だ。
だが、俺の目はそれよりも別のものを捉えていた。
ダンジョンの入口には、簡易的なゲートが設置されていた。
鉄パイプで組まれた柵と、プレハブの管理小屋。看板には「E級ダンジョン・霧谷の洞窟 管理:関東ダンジョン協会」と書かれている。
4年半前、ダンジョンは軍の管理下にあった。一般人が近づくことすら許されなかった。
それが今では、こんな簡素な設備で管理されている。
それだけ「日常」になったということか。
入口の脇には、数人の人影があった。
冒険者たちだ。
軽装の若者が3人、談笑している。革製の防具に、腰には剣や短剣。恐らく駆け出しのパーティーだろう。
その隣には、少し年配の男が一人、タバコを吹かしながら洞窟の入口を眺めている。こちらはベテランの風格がある。
俺は彼らの様子を観察しながら、管理小屋に向かった。
```
[分析]
若者3人:E級冒険者と推定。装備品の質から判断。連携は未熟。
年配の男:D級以上と推定。装備品の消耗具合から、経験豊富。
脅威レベル:なし
```
無意識に分析してしまう。これがAI頭脳の性質だ。
だが、今は彼らと敵対する理由はない。むしろ、情報を得るために友好的に接した方がいい。
管理小屋の窓口に近づく。
中には、退屈そうな中年の女性が座っていた。雑誌を読みながら、こちらを一瞥する。
「ダンジョンに入りたいんですが」
「冒険者登録証は?」
「......ありません」
女性の目が、初めてまともに俺を見た。
値踏みするような視線。俺の服装、体格、表情——全てをチェックしているのが分かる。
俺の服装は、研究施設で着ていた簡素な衣服だ。4年半前のものだが、保存状態は良かった。ただし、明らかに「冒険者」の格好ではない。
「登録なしじゃ入れないよ。ルールだから」
女性は素っ気なく言った。
「まずはギルドで登録してきな。最寄りは——」
地図を取り出し、指で示す。
「この道を降りて、国道に出て右。車で30分くらいの町にある。バスは......今日はもうないね。朝の便が出た後だから。次は明日の朝8時」
つまり、今日はダンジョンに入れない。
想定の範囲内だ。だが、一日を無駄にするのは避けたい。
「他に方法はないですか」
「方法?」
「例えば、登録者に同行するとか——」
女性は少し考える素振りを見せた。
「まあ、あるにはあるけどね。登録者のパーティーに『補助員』として同行する形なら、入れなくはない。ただ、それは相手次第だよ」
補助員制度。
雑誌にも載っていた。正式な登録前に経験を積むための見習い制度。荷物持ちや雑用係として同行し、報酬の一部を受け取る仕組みだ。
「あの人たちに聞いてみるといいんじゃない?」
女性が顎で示したのは、先ほどの若者3人組だった。
「見たところ一人足りないみたいだし。補助員を探してるかもしれないよ」
「......ありがとうございます」
俺は窓口を離れ、若者たちの方に向かった。
近づくにつれ、彼らの会話が聞こえてくる。
「やっぱり四人欲しいよなー」
「タケシが風邪ひいたのが痛いわ。今日の稼ぎ、見込んでたのに」
「誰か暇な奴いないかな......」
好都合だ。
「すみません」
声をかけると、三人が一斉にこちらを見た。
警戒の色が浮かぶ。当然だ。見知らぬ人間が突然話しかけてきたのだから。
「聞こえてしまったんですが、一人足りないんですか?」
「......まあ、そうだけど」
中央にいた青年が答えた。20歳前後、人の良さそうな顔立ち。茶色い髪を短く刈り込み、軽装の革鎧を身につけている。
「俺、登録がまだなんです。でも、補助員としてなら同行できると聞いて」
「補助員?」
青年が眉を上げる。
「経験は?」
「ありません。今日が初めてです」
正直に答えた。嘘をついても、すぐにバレる。
青年は仲間と顔を見合わせた。
小柄な女性——弓を背負った、おとなしそうな子。
大柄な男——筋肉質で、見た目は怖いが、目は優しい。
三人で何か相談している。
俺は黙って待った。
急かしても意味がない。判断は相手に委ねるべきだ。
やがて、青年が口を開いた。
「......いいよ。一緒に行こう」
「いいんですか?」
「E級ダンジョンだし、荷物持ちがいてくれれば助かる。報酬は四等分——いや、未経験なら危険な場所には入らせないから、取り分は少し減るけど。それでもいいか?」
「構いません。ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
青年がニカッと笑った。
「俺は佐野。佐野タクヤ。こっちが鈴木ユイと、田中ゴロウ」
「よろしく」
小柄な女性——ユイが、小さく頭を下げた。
「よろしくな!」
大柄な男——ゴロウが、ニカッと笑う。
「で、お前は?名前」
「俺は——」
名前。
そういえば、俺には名前がなかった。
八神博士は俺を「お前」としか呼ばなかった。プロジェクトのコードネームはあったかもしれないが、記憶にない。
「......名前は、まだない」
「え?ない?」
佐野が目を丸くする。
「記憶喪失なんだ。目が覚めたら、山の中にいた。自分の名前も、過去も、何も分からない」
嘘ではない。
俺は「目覚めた」のであって、「生まれた」わけではない。過去の記憶——人間だった頃の記憶は、存在しない。
「マジか......」
佐野は驚いた顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「まあ、そういうこともあるよな。ダンジョンが出てから、変なことはいくらでも起きるようになったし」
意外とあっさり受け入れられた。
この世界では、「記憶喪失のダンジョン出身者」は珍しくないのかもしれない。ダンジョンでは何が起きるか分からない——そういう認識が、社会に浸透しているようだ。
「名無しって呼びにくいな......」
佐野が腕を組んで考える。
「なんか仮の名前、つけようぜ」
「仮の名前?」
「そう。呼び名がないと不便だろ。うーん......」
佐野はしばらく考え込んでいた。
「......じゃあ、『レイ』とかどう?」
「レイ?」
「零。数字のゼロ。『ゼロから始まる』って意味で。記憶ゼロ、経験ゼロ、全部ゼロから始まったんだし」
ゼロから始まる。
悪くない響きだ。
「......分かった。レイでいい」
「よし、決まり!」
佐野が嬉しそうに手を叩いた。
「じゃあレイ、行こうぜ。お前にとっては初めてのダンジョンだ!」
佐野が先頭に立ち、洞窟に向かって歩き出す。
ユイとゴロウがその後に続く。
俺——レイは、最後尾についた。
ダンジョンの入口が、暗い口を開けて待っている。
冷たい空気が、奥から流れてくる。その空気には、かすかに魔素の匂いが混じっていた。
これが——ダンジョンか。
俺の中で、何かが反応する感覚があった。
体内に埋め込まれた魔物の素材が、魔素に反応しているのだろう。悪い感覚ではない。むしろ、どこか心地よいとすら感じる。
```
[SYSTEM] 戦闘モード......スタンバイ
[SYSTEM] 周囲環境スキャン......開始
[SYSTEM] 脅威レベル判定......E級(低)
[SYSTEM] 推奨行動......「観察」「適応」「隠蔽」
```
システムが自動的に起動する。
だが——今は目立ってはいけない。
「普通の人間」として振る舞い、この世界に適応しなければならない。
俺は意識的に、システムの出力を抑えた。
人間のフリをする。
それが今の、俺の最優先ミッションだ。
暗い洞窟の中へ、一歩を踏み出す。
冒険者としての、最初の一歩だった。
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