第十章 見えない乗客

東の港町「海鳴りの街」に着いたのは、夕暮れ時だった。


 潮の匂いが、鼻をくすぐる。波の音が、耳に心地よい。遠くには、夕日に染まった海が広がっている。


 道明は、馬車を降りて周囲を見回した。


「……いい街だな」


 港には、無数の船が係留されていた。漁船、商船、客船——さまざまな船が、波に揺られている。桟橋には、荷物を運ぶ男たちが行き交い、活気に満ちている。


「この街は、聖車国最大の港町です」


 リーゼルが、説明した。


「海の向こうの国々との交易で栄えています。御者組合の支部も、ここにあるはずです」


「支部?」


「はい。かつては、各地に御者組合の支部がありました。今は、ほとんど機能していませんが——」


「なら、まずそこに行こう」


 道明は、歩き出した。


 街の中を進んでいく。


 人々は、道明の姿を見て、驚きの表情を浮かべる。神聖馬車が、この街に来るのは久しぶりなのだろう。


「あれは……神聖馬車?」


「御者様が、いらっしゃった……!」


「本当に、御者が復活したんだ……」


 囁きが、波紋のように広がっていく。


 道明は、それを無視して歩き続けた。


 やがて、一軒の建物の前に出た。


 古びた石造りの建物。看板には、車輪のマークが描かれている。御者組合の支部だ。


 扉を開けると、中は薄暗かった。埃っぽい空気。蜘蛛の巣が張った天井。長い間、誰も使っていない証拠だ。


「……誰もいないな」


「百年間、御者がいなかったですから……」


 道明は、建物の中を見て回った。


 かつての受付カウンター。崩れかけた棚。古い書類の山。


 そして——一枚の地図。


 壁に貼られた、この街の地図だ。黄ばんで、端がボロボロになっている。だが、まだ読める。


「この地図、使えそうだな」


「はい。この街の構造は、百年前とほとんど変わっていないはずです」


 道明は、地図を見つめた。


 港。市場。住宅街。神殿——


「神殿、か」


「はい。海の神を祀る神殿です。この街の守護神とされています」


「『お化け』は、そこにいるかもな」


 道明は、地図から視線を外した。


「だが、今日は遅い。明日、行こう」


「わかりました」


 二人は、御者組合の支部を宿代わりにすることにした。


 埃を払い、簡易的な寝床を整える。


 リーゼルが、近くの店で食料を調達してきた。


 二人で、質素な夕食を取る。


「道明さん」


 リーゼルが、躊躇いがちに言った。


「何だ」


「『お化け』を見つけたら……どうやって、乗せるんですか?」


 道明は、少し考えた。


「……わからん」


「わからない?」


「一柱目の時は、向こうから声をかけてきた。俺は、ただ乗せただけだ。——だから、どうやって見つけるか、どうやって乗せるか、具体的なことはわからない」


「そうですか……」


 リーゼルが、不安そうな顔をした。


 道明は、彼女を見た。


「心配するな」


「え?」


「タクシー運転手は、客を探すプロだ。二十五年、やってきた。——見えない客でも、必ず見つける」


 リーゼルは、しばらく道明を見つめていた。


 それから、小さく笑った。


「……道明さんは、本当に自信家ですね」


「自信家じゃない。経験者だ」


「同じことです」


 二人は、笑い合った。


 やがて、夜が更けていく。


 道明は、窓から外を見た。


 月明かりに照らされた港町。波の音が、静かに響いている。


 ——二柱目の「お化け」は、この街のどこかにいる。


 明日、必ず見つける。


 道明は、そう決意して、目を閉じた。


         ◇


 深夜。


 道明は、ふと目を覚ました。


 何かの——気配を、感じた。


 窓の外から、かすかな音が聞こえる。


 風の音? いや、違う。


 ——声だ。


 誰かが、呼んでいる。


 道明は、静かに起き上がった。


 隣で眠っているリーゼルを起こさないように、そっと部屋を出た。


 建物の外に出ると、夜風が頬を撫でた。


 月は、雲に隠れている。辺りは、薄暗い。


 だが、声は——はっきりと聞こえる。


『……乗せて……くれ……』


 その声は、港の方から聞こえてきた。


 道明は、声に導かれるように歩き始めた。


 石畳の道を進み、桟橋へ。


 波の音が、近づいてくる。


 潮の匂いが、濃くなる。


 そして——


 桟橋の先端に、誰かが立っていた。


 老人だった。


 白い髭を蓄え、古びた漁師の服を着ている。背は曲がり、杖をついている。


 だが、その姿は——半透明だった。


 月明かりを透かして、向こう側が見える。


 ——幽霊?


 いや、違う。


 これは——


「『お化け』、か」


 道明が、声をかけた。


 老人が、ゆっくりとこちらを向いた。


『……お前が、御者か』


「ああ」


『久しぶりだ……御者に会うのは……千年ぶりか……』


 老人の声は、風に溶けていくように、かすかだった。


「どこに行きたい」


『……海の神殿へ。そこが、わしの……』


「わかった。乗れ」


 道明は、天輪号を呼んだ。


 馬車が、光と共に現れる。


 老人は、ゆっくりと馬車に乗り込んだ。


 その身体は、まるで霧のように、馬車の中に吸い込まれていく。


「行くぞ」


 道明は、御者台に乗った。


 馬車が、動き出す。


 深夜の港町を、駆け抜けていく。


         ◇


 海の神殿は、港町の外れにあった。


 白い石で造られた、荘厳な建物。


 入口には、波と魚の彫刻が施されている。


 道明は、馬車を停めた。


「着いたぞ」


『……ああ……懐かしい……』


 老人が、馬車から降りた。


 その姿は、さらに薄くなっている。


『御者よ、礼を言う……』


「礼はいらない。仕事だ」


『……お前は、不思議な男だ……』


 老人が、笑った。


『千年前の御者たちは、もっと傲慢だった……神霊を乗せることを、名誉だと思っていた……だが、お前は……』


「俺は、ただの運転手だ」


『運転手……そうか、お前の世界では、そう呼ぶのか……』


 老人の身体が、光り始めた。


『御者よ、受け取れ……わしの力を……』


 光が、道明の身体に流れ込んでくる。


 温かい。海の匂いがする。波の音が、聞こえる。


 そして——


 道明の手の甲の紋章が、さらに輝きを増した。


『これで、二柱……あと十柱だ……』


「十柱、か」


『急げ……時間は、あまりない……』


「時間?」


『闘争の御者は、一人ではない……帝国には、まだ他にも……』


 老人の声が、遠ざかっていく。


『気をつけろ……御者よ……世界の運命は……お前の肩に……』


 光が、収束していく。


 そして——老人の姿が、消えた。


 後には、静寂だけが残っている。


「……行ったか」


『二柱目だ』


 アウルスの声が、頭に響いた。


『お前の功徳は、大幅に増えた。馬車の性能も、向上している』


「そうか」


 道明は、空を見上げた。


 雲が晴れ、月が顔を出している。


 その光が、神殿を照らしていた。


「……あと十柱」


 道明は、呟いた。


 まだ、旅は始まったばかりだ。


 だが、確実に——前に進んでいる。


 道明は、馬車に乗り込んだ。


「戻るぞ。明日から、また走る」


 天輪号が、動き出した。


 港町の夜を、駆け抜けていく。


 神崎道明の旅は、続いていく。

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