第六章 古文書の一節
馬車と馬車が、激突する——
と思った瞬間、道明は本能的にハンドルを——いや、意識を切った。
天輪号が、横に跳ぶ。
黒い馬車が、すれ違いざまに通り過ぎる。
ぎりぎりのタイミング。もう少し遅れていたら、正面衝突していた。
『危なかったな』
アウルスの声が、頭に響いた。
「ああ。こいつ、想像以上に速い」
『闘争の御者の馬車は、奪った力で動く。あの村人たちから吸い取った生命力が、そのまま速度に変換されている』
「つまり、俺より強いってことか」
『単純な力比べなら、そうだ。だが——』
「だが?」
『お前には、二十五年の「技」がある』
道明は、わずかに笑った。
技。
タクシー運転手として培ってきた、走りの技術。
狭い路地を抜けるテクニック。渋滞を避ける判断力。客を乗せたまま、安全に、かつ迅速に走る能力。
——それが、この世界でも通用するなら。
黒い馬車が、Uターンして戻ってきた。
黒沢が、嘲笑う。
「逃げるのか、神崎さん! 情けないな!」
「逃げてない」
道明は、冷静に答えた。
「距離を取っただけだ。お前の動きを見るためにな」
「何を——」
「お前の運転、下手だな」
黒沢の顔が、歪んだ。
「何だと?」
「直線番長だ。速いだけで、カーブが甘い。急ブレーキもできない。客を乗せたことがないから、乗り心地なんて考えたこともないんだろう」
「黙れ!」
黒い馬車が、猛スピードで突っ込んでくる。
道明は、動かなかった。
ぎりぎりまで待って——
最後の瞬間に、右に跳ねる。
黒い馬車が、空を切る。
そして——
道明は、黒沢の馬車の「死角」に回り込んだ。
真横。相手の視界に入らない位置。
「——!?」
黒沢が、慌てて首を回す。
だが、遅い。
道明は、天輪号を黒い馬車に並走させながら——
その車輪を、蹴った。
天輪号の車輪が、黒い馬車の車輪に接触する。
衝撃。
黒い馬車が、バランスを崩す。
「くそっ——!」
黒沢が、必死に立て直そうとする。
だが、道明は容赦しなかった。
もう一度、同じことを繰り返す。
車輪への接触。バランスの崩壊。
三度目で——
黒い馬車が、横転した。
轟音と共に、地面に叩きつけられる。
土煙が舞い上がり、木片が飛び散る。
道明は、天輪号を停めた。
御者台から降り、横転した馬車に近づく。
その下敷きになって——
黒沢が、苦しそうに呻いていた。
「く……そ……」
「終わりだ、黒沢」
「終わり……だと……?」
黒沢が、血走った目で道明を睨んだ。
「ふざけんな……俺は……俺は負けない……!」
「お前の負けだ。認めろ」
「認めるか……! 俺は……お前みたいな老害に……!」
道明は、ため息をついた。
——この男は、何も変わっていない。
元の世界でも、この世界でも。
自分の弱さを認められない。他者を見下すことでしか、自分を保てない。
哀れな男だ。
「黒沢」
道明は、静かに言った。
「お前は、間違えた」
「何……だと……」
「客は、敵じゃない。客を奪う対象として見る限り、お前は永遠に——」
と、そのとき。
黒い馬車から、紫色の光が噴き出した。
「——!?」
道明が、とっさに飛び退く。
光は、黒沢の身体を包み込み——
次の瞬間、黒沢の姿が消えた。
馬車ごと。
後には、焦げた地面だけが残っている。
「……逃げたか」
『あれは、緊急転移だ。闘争の御者の馬車に組み込まれた、脱出用の機能。おそらく、黒鉄帝国に戻ったのだろう』
「追えるか」
『今のお前の力では、無理だ。国境を越えて追跡するには、もっと多くの功徳が必要になる』
道明は、舌打ちした。
逃がした。
だが——今は、それより大事なことがある。
道明は、村人たちの元へ走った。
「リーゼル!」
「はい!」
リーゼルが、駆け寄ってきた。
「村人たちを、医療院に運ぶ。手伝ってくれ」
「わかりました!」
二人で、村人たちを天輪号に乗せていく。
十人以上いる。一度には運べない。
何往復もすることになるだろう。
だが、構わない。
これが、御者の仕事だ。
◇
全員を聖都に運び終えた頃には、夜が明けていた。
道明は、御者組合の椅子に座り、疲れ切った身体を休めていた。
リーゼルが、温かいお茶を運んできた。
「道明さん、お疲れ様でした」
「ああ……」
道明は、お茶を受け取り、一口飲んだ。
温かい液体が、胃に染み渡る。
「村人たちは、どうなった」
「医療院で治療を受けています。命に別状はないそうです。黒沢さん——闘争の御者に奪われた生命力は、時間が経てば回復するみたいで」
「そうか……よかった」
道明は、目を閉じた。
黒沢の顔が、脳裏に浮かぶ。
——あいつ、また来るだろうな。
今回は撃退できた。だが、黒沢は諦めない。そういう男だ。プライドが高く、負けを認めない。必ず、リベンジに来る。
その時までに、もっと強くならなければならない。
もっと多くの功徳を積み、天輪号の力を高め——
「道明さん」
リーゼルの声で、道明は目を開けた。
「何だ」
「あの……これ、読んでいただけますか」
リーゼルが、古い紙束を差し出した。
黄ばんだ紙に、古い文字が書かれている。
「何だ、これは」
「創世の神殿から持ち出した、古文書の写しです。私が、ずっと調べていたものなんですが——」
道明は、紙束を受け取った。
文字を読む。この世界の文字は、なぜか読める。御者の力の一部らしい。
書かれているのは——
「——予言、か」
「はい。千年前の予言です」
道明は、文章を追った。
『神聖なる御者、その力を以て世界を守らん』
『されど、闘争の御者、その力を以て世界を蝕まん』
『二つの車輪、相まみえる時——』
道明は、次の一節で、手を止めた。
『オバケヲ乗セシ御者、世界ヲ救ウ』
「……お化け?」
道明は、その言葉を、二度、三度、読み返した。
お化け。
タクシー業界の隠語。「思いがけない長距離客」を意味する言葉。
——なぜ、この世界の古文書に、その言葉が?
「リーゼル、これは——」
「私も、ずっと疑問に思っていたんです」
リーゼルが、真剣な顔で言った。
「『オバケ』という言葉、この国の古語にはありません。でも、この予言にだけ、出てくるんです」
「偶然の一致……か?」
道明は、首を傾げた。
偶然にしては、出来すぎている。
だが、それ以外に、説明がつかない。
——いや、待て。
道明は、記憶を遡った。
あの夜。事故の直前。老人を乗せた、あの瞬間。
老人が言った言葉——
『運転手さん、あんた、お化けを拾ったことはあるかね』
『なら、今夜が初めてになるかもしれんな』
——あの老人は、何かを知っていたのか?
「道明さん?」
「……いや、何でもない」
道明は、首を振った。
今は、考えても仕方がない。
情報が足りない。
だが、この予言は——何か重要な意味を持っている気がする。
「リーゼル、この古文書、もっと詳しく調べられるか」
「はい。創世の神殿に行けば、原本があるはずです」
「なら、近いうちに——」
道明は、言葉を止めた。
今日の依頼。後回しにした、リーゼルの依頼。
創世の神殿への移送。
「お前の依頼、覚えてるぞ」
「え?」
「創世の神殿に行きたいんだろう。今日は無理だが、明日——いや、今日か。少し寝てから、行こう」
リーゼルの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか!?」
「ああ。約束は守る。それが、俺のポリシーだ」
リーゼルは、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、道明は思った。
——お化けを乗せし御者、世界を救う。
その言葉が、何を意味するのか。
まだ、わからない。
だが、いつか——きっと、わかる時が来る。
その日まで、自分は走り続ける。
客を乗せて、目的地まで。
それが、御者の——いや、タクシー運転手の、仕事だから。
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