第五章 最初の乗客

御者として活動を始めて、三日が経った。


 この三日間で、道明がこなした依頼は——四十七件。


 病人の搬送。荷物の運搬。緊急の連絡。遠方の親戚への訪問。さまざまな依頼を、休む間もなくこなし続けた。


 手の甲の紋章は、日に日に輝きを増している。功徳が蓄積されている証拠だ。


 だが、道明の体力には限界があった。


「道明さん、少し休んでください」


 リーゼルが、心配そうな顔で言った。


 御者組合の受付カウンター。道明は、椅子にもたれかかるようにして座っていた。


「……大丈夫だ」


「大丈夫じゃないです! 三日間、ほとんど寝てないじゃないですか」


「タクシー運転手は、寝ないで走ることもある。隔日勤務なら、二十時間以上の拘束だって——」


「ここは異世界です! 道明さんの身体は、前の世界のままじゃないですか」


 リーゼルの声が、珍しく強い調子を帯びた。


 道明は、彼女を見た。


 その目には、本気の心配が浮かんでいる。


「……わかった。少し休む」


「本当ですか?」


「ああ。今日は、あと一件だけやって、それで終わりにする」


 リーゼルは、ほっとしたように息を吐いた。


「よかった……道明さん、無理しすぎです」


「二十五年の癖だ。すぐには直らん」


 道明は、依頼書の山から一枚を取り出した。


 今日の最後の依頼。


「——人の移送。『創世の神殿』まで。依頼者——」


 道明は、依頼者の名前を見て、眉をひそめた。


「リーゼル、この依頼を出したのは」


「え? ああ、それは——」


 リーゼルが、急に視線を逸らした。


「あの、実は——私です」


「お前が?」


「はい……すみません、勝手に依頼を入れてしまって。でも、どうしても行きたい場所があって——」


 道明は、リーゼルの顔を見つめた。


 彼女は、どこか罪悪感を滲ませながらも、真剣な目をしている。


「……創世の神殿ってのは、どこにある」


「聖都から北に半日ほどの場所です。古い神殿で、今はほとんど誰も訪れません」


「なぜ、そこに行きたい」


 リーゼルは、少し躊躇った。


 それから、意を決したように言った。


「私の——故郷、みたいなものなんです。定期的に、お参りに行かないと……」


「故郷?」


「はい。私は、あの神殿で育ちました。幼い頃から、神官たちに預けられて——」


 道明は、黙って聞いていた。


 リーゼルの過去。彼女は、これまであまり自分のことを話さなかった。だが、今——何かを打ち明けようとしている。


「道明さん、私——」


 と、そのとき。


 組合の扉が、勢いよく開いた。


「御者様! 大変です!」


 飛び込んできたのは、治安組織の隊長だった。三日前に、御者組合で初めて会った男。


「どうした」


「国境付近で、異変が——黒鉄帝国の軍が、動いています!」


 道明の目が、細くなった。


 黒鉄帝国。リーゼルから聞いた、この国の敵対国。百年前の戦争で、御者の一族を全滅させた国。


「詳しく聞かせろ」


「はい。国境警備隊からの報告によると、帝国軍の一部が国境を越えて、こちらの領土に侵入しているとのことです。規模は小さいですが——」


「偵察か」


「おそらく。ですが、問題は——」


 隊長が、言葉を止めた。


 その顔に、恐怖の色が浮かんでいる。


「——彼らの中に、『馬車』がいるとのことです」


「馬車?」


「はい。黒い馬車です。御者が乗っている——神聖馬車のような、しかし禍々しい気配を放つ馬車が——」


 道明は、アウルスに意識を向けた。


『——聞いているか』


『ああ。おそらく、「闘争の御者」だろう』


『闘争の御者?』


『かつて黒鉄帝国が生み出した、呪われた御者の系譜だ。神聖馬車とは真逆の存在。乗客を守るのではなく、乗客から奪う——』


「道明さん」


 リーゼルが、道明の袖を掴んだ。


 その顔は、青ざめている。


「行かないでください。危険です」


「行かないわけにはいかない」


 道明は、立ち上がった。


「国境付近には、村がある。そこの住人が危険にさらされているなら——」


「でも、闘争の御者は——」


「リーゼル」


 道明は、彼女の目を見た。


「創世の神殿への依頼、後回しでいいか」


 リーゼルは、しばらく道明を見つめていた。


 それから、小さく頷いた。


「……わかりました。私も、一緒に行きます」


「危険だぞ」


「それでも。道明さんの助手ですから」


 道明は、少し考えた。


 危険な場所に、彼女を連れていくべきではない。だが——リーゼルの目には、決意が宿っている。無理に止めても、ついてくるだろう。


「……わかった。ただし、俺の指示に従え」


「はい!」


 道明は、組合を出た。


 外で、天輪号を呼ぶ。


 馬車が、光と共に現れる。


「行くぞ、アウルス」


『ああ。だが、覚悟しておけ。闘争の御者は、お前が今まで相手にしてきたものとは違う』


「わかっている」


 道明は、御者台に乗った。


 リーゼルが、客席に座る。


 馬車が、走り出す。


 国境へ向かって。


 未知の敵へ向かって。


 神崎道明は、この世界で初めて——「戦い」に赴こうとしていた。


         ◇


 国境付近に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。


 そこには、小さな村があった。名前は「境の里」というらしい。聖車国と黒鉄帝国の国境線上に位置する、両国の交易拠点だ。


 だが、今——


 村は、静まり返っていた。


「……誰もいない」


 道明は、馬車を降りて周囲を見回した。


 家々の扉は閉ざされ、通りには人影がない。まるで、村全体が息を潜めているかのような——


「道明さん、あれ——」


 リーゼルが、指さした。


 村の中央広場。


 そこに——黒い馬車が停まっていた。


 天輪号とは、明らかに異なる。黒い木製の車体。赤い装飾。車輪には、禍々しい紋様が刻まれている。


 そして、御者台には——


 男が座っていた。


 三十代前半だろうか。黒い髪を短く刈り込み、目つきは鋭い。顔立ちは、どこか——


 道明の心臓が、一瞬、止まった。


 ——知っている顔だ。


 忘れるはずがない。三日前まで、毎日のように顔を合わせていた。いつも偉そうに、いつも嫌味を言い、いつも自分を「老害」と呼んでいた——


「よう、神崎さん」


 男が、ニヤリと笑った。


「あんたも、こっちに来てたのか」


 黒沢剛。


 元の世界での、同僚のタクシー運転手。


「……黒沢」


 道明の声は、かすれていた。


 なぜ。どうして。この男が、ここに——


「驚いたか? 俺も驚いたよ。まさか、あんたが『神の御者』だなんてな」


 黒沢が、御者台から降りた。


 その動作は、優雅ですらあった。まるで、この世界に元からいたかのような自然さで。


「三日前に、ここに来たんだ。転生ってやつかな。死んで、気づいたらこっちにいた」


「お前も……死んだのか」


「ああ。あんたと同じトラックに突っ込まれたんだよ。覚えてないか? 俺、あんたの後ろを走ってたんだ。無線配車を横取りした後でな」


 黒沢が、愉快そうに笑った。


「で、気づいたら、この黒い馬車の前にいた。『闘争の御者』ってやつになれって言われてさ。最初は意味がわからなかったけど——」


 黒沢の目が、ギラリと光った。


「——悪くないな、これ。力がある。誰にも頭を下げなくていい。客から奪うだけで、強くなれる」


 道明の背筋が、冷たくなった。


 ——こいつ、変わっていない。


 いや、むしろ——より「そう」なっている。


 元の世界でも、黒沢は「客」を金づるとしか見ていなかった。愛想よく振る舞うのは、チップを弾んでもらうため。態度が悪い客には、平気で嫌味を言う。


 その本性が、この世界で——さらに増幅されている。


「黒沢、村人たちはどこだ」


「ああ、こいつらか」


 黒沢が、顎をしゃくった。


 その先——広場の隅に、村人たちが倒れていた。


 息はあるようだ。だが、顔色は青白く、ぐったりとしている。まるで、何かを吸い取られたかのような——


「少しだけ、『乗せて』もらったんだ。この馬車に」


 黒沢が、黒い馬車を撫でた。


「いい気分だぜ。こいつら、俺に命を差し出すしかないんだ。俺が『御者』だからな」


「それが——闘争の御者の力か」


「そういうこと。神の御者は『守る』んだろ? 俺は『奪う』。正反対だな」


 黒沢が、道明を見た。


 その目には、明確な敵意が宿っている。


「で、あんたはどうする? 神崎さん。俺と戦うか? それとも——」


「黒沢」


 道明は、一歩、前に出た。


「お前、客を何だと思っている」


 黒沢の眉が、わずかに動いた。


「客? 金づるだろ。何を今さら——」


「違う」


 道明の声が、低く響いた。


「客は、人間だ。目的地に行きたいと願う、一人の人間だ。金を払うから運ぶんじゃない。困っているから、助けるんだ」


「……何言ってんだ、あんた」


「お前には、わからないかもな。二十五年、俺はそうやってきた。客を人間として見て、目的地まで送り届けてきた。それが——」


 道明は、右手を挙げた。


 手の甲の紋章が、金色に輝く。


「——俺の仕事だ」


 黒沢の顔が、歪んだ。


「……上等だ。なら、やってみろよ」


 黒沢が、黒い馬車に飛び乗った。


「神の御者と、闘争の御者。どっちが強いか、試してやるよ」


 黒い馬車が、動き出した。


 道明も、天輪号に乗り込んだ。


「リーゼル、降りろ」


「え——」


「危険だ。ここにいろ」


 リーゼルは、一瞬躊躇したが、すぐに馬車を降りた。


「道明さん、気をつけて——」


 道明は、頷いた。


 そして——


 天輪号が、走り出した。


 黒い馬車に向かって。


 これが、道明にとっての——この世界での、最初の「戦い」だった。

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