第七章 黒鉄帝国の影
黒沢との戦いから、一週間が経った。
その間、道明は御者としての活動を続けていた。依頼をこなし、功徳を積み、天輪号の力を高めていく。手の甲の紋章は、日に日に輝きを増している。
だが、平穏は長くは続かなかった。
「道明さん、これを見てください」
リーゼルが、深刻な顔で報告書を持ってきた。
御者組合の受付カウンター。朝の依頼整理の時間だった。
「何だ」
「国境警備隊からの報告です。黒鉄帝国の軍が、大規模な移動を始めているそうです」
道明は、報告書を受け取った。
内容を読む。
——帝国軍の複数の部隊が、国境付近に集結している。その規模は、通常の警備部隊の三倍以上。明らかに、何かを企図している動き。
「戦争の準備、ってことか」
「可能性は高いです。百年前の講和以来、帝国がここまで大規模な軍を動かしたことはありません」
道明は、窓の外を見た。
聖都の街並みが、朝日に照らされている。人々は、日常を送っている。この平和が、もうすぐ破られるかもしれない。
「……黒沢だな」
「え?」
「あいつが、帝国に戻って何か吹き込んだんだろう。『神の御者が復活した』とな」
リーゼルの顔が、青ざめた。
「そうなると——」
「帝国としては、今のうちに潰しておきたい。百年前の二の舞は御免だからな」
道明は、立ち上がった。
「王城に行く。国王に、直接話を聞きたい」
「わかりました。私も一緒に——」
「いや、お前はここに残れ。依頼の受付を続けてくれ」
「でも——」
「俺がいない間も、御者組合は動いていなければならない。お前が責任者だ」
リーゼルは、しばらく道明を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……わかりました。気をつけてください」
「ああ」
道明は、組合を出た。
◇
王城の謁見の間。
国王アルベルトは、疲れ切った顔をしていた。
「……神崎殿、状況は把握している」
王の声には、力がなかった。
「帝国軍の動きは、我々の予想を超えている。このままでは——」
「戦争になる、ということですか」
「避けられないかもしれない」
王は、深いため息をついた。
「百年前、我々は御者の一族を失い、帝国に屈服した。以来、毎年、膨大な資源を献上し、かろうじて国を維持してきた。だが、もはや——」
「資源が尽きた?」
「そうだ。これ以上の献上は、国民を飢えさせることになる。断るしかない。だが、断れば——」
「戦争になる」
王は、頷いた。
「神崎殿。そなたの力は、確かに心強い。だが、たった一人の御者で、帝国の大軍を相手にできるとは——」
「一人じゃない」
道明は、きっぱりと言った。
「俺には、天輪号がある。アウルスがいる。そして——この国の民がいる」
王が、目を見開いた。
「民?」
「俺がここに来てから、何百人もの依頼をこなしてきた。病人を搬送し、荷物を運び、人々を助けてきた。その一人一人が、俺の味方だ」
「しかし——」
「戦争は、軍隊だけでやるもんじゃない。補給がある。連絡がある。避難がある。それを支えるのが、俺の仕事だ」
道明は、王の目を見た。
「陛下、俺を信じてくれ。俺は、この国を守る。それが——御者の、仕事だからだ」
王は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「……神崎殿」
「はい」
「そなたは、不思議な男だ。異界から来た、何の後ろ盾もない男が——なぜ、そこまで我が国のために」
「後ろ盾がないから、ですよ」
道明は、小さく笑った。
「俺には、元の世界に戻る方法がない。帰る場所もない。なら、ここで——この世界で、やれることをやるしかない。それだけです」
王の目に、何かが光った。
涙、だろうか。
「……わかった。神崎殿、そなたを信じよう。我が国の——いや、この世界の希望として」
「大袈裟です」
「いや、大袈裟ではない」
王が、一歩、前に出た。
「聞いてくれ、神崎殿。実は——もう一つ、話さねばならぬことがある」
「何ですか」
「そなたの助手——リーゼルのことだ」
道明の眉が、動いた。
「リーゼルが、どうかしたんですか」
「彼女は——普通の人間ではない」
王の声が、低くなった。
「彼女は、千年前に封印された——『創世の巫女』なのだ」
道明は、言葉を失った。
創世の巫女。
その名前は、古文書にも登場していた。この世界を創造したとされる、神話的な存在。
「……どういうことですか」
「詳しいことは、私にもわからぬ。だが、リーゼルは——千年前から、あの姿のまま存在している。そして、『創世の神殿』で眠っていた」
「眠っていた?」
「そうだ。百年前——御者の一族が滅んだ時、彼女は突然目覚めた。そして、『次の御者が来る』と予言した。それ以来、彼女は——」
「俺を、待っていた?」
王は、頷いた。
「そなたを召喚したのは、おそらく彼女の力だ。『神の御者』を、異界から呼び寄せた——」
道明は、黙って聞いていた。
リーゼル。
彼女の正体。
——なぜ、教えてくれなかったんだ。
いや、教えられなかったのかもしれない。彼女自身にも、わからないことがあるのかもしれない。
「陛下、一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「リーゼルは——敵ですか、味方ですか」
王は、少し考えた。
それから、静かに答えた。
「彼女は——世界を救おうとしている。それだけは、確かだ」
「なら、十分です」
道明は、踵を返した。
「俺は、彼女を信じます。御者として、彼女を目的地まで送り届けます」
「目的地?」
「彼女が行きたい場所。彼女が成し遂げたいこと。それを手伝うのが——俺の仕事です」
道明は、謁見の間を出た。
◇
御者組合に戻ると、リーゼルが待っていた。
「道明さん、お帰りなさい。王様との話は——」
「リーゼル」
道明は、彼女の前に立った。
「創世の巫女って、本当か」
リーゼルの顔から、血の気が引いた。
「……誰から」
「国王だ」
「そう、ですか……」
リーゼルは、俯いた。
「すみません。隠していて——」
「なぜ隠していた」
「だって——知ったら、怖がると思って——」
「俺が?」
道明は、小さく笑った。
「リーゼル、俺は五十六年間生きてきた。その間、いろんな客を乗せてきた。酔っ払い、怒鳴る奴、泣いてる奴、笑ってる奴——千年前の巫女だろうが、何だろうが、大して変わらん」
リーゼルが、顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいる。
「……道明さん」
「お前が何者でも、俺の助手だ。それは変わらない」
「でも、私——道明さんを召喚したのは、私なんです。あなたを、元の世界から無理やり——」
「知ってる」
「え?」
「国王から聞いた。お前が俺を呼び寄せたんだろう」
「……恨んでないんですか」
道明は、少し考えた。
恨む。
元の世界を奪われた。家族と別れた。——いや、もともと、妻とは離婚していた。娘とも疎遠だった。友人もいなかった。
失ったものは、確かにある。
だが、得たものも——ある。
「恨んでない」
道明は、静かに言った。
「むしろ、感謝してる」
「感謝……?」
「この世界に来て、俺は——初めて、『必要とされてる』って感じた。元の世界じゃ、俺はただの老いぼれタクシー運転手だった。でも、ここでは——」
「ここでは?」
「——御者だ。この国を、この世界を、守れるかもしれない存在だ」
道明は、リーゼルの肩に手を置いた。
「お前のおかげで、俺はここにいる。だから——ありがとう」
リーゼルの目から、涙が溢れた。
「道明さん……」
「泣くな。仕事はまだあるぞ」
「は、はい……すみません……」
リーゼルが、涙を拭いた。
道明は、窓の外を見た。
聖都の空は、今日も青い。
だが、その向こうには——黒鉄帝国の軍勢が迫っている。
戦争が、始まろうとしている。
——やることは、決まっている。
道明は、御者台に座った。
「行くぞ、アウルス」
『どこへ』
「まずは、国境付近の村々だ。避難が必要な人間を、安全な場所に移す」
『戦争の準備か』
「ああ。俺にできることは、それしかない」
天輪号が、走り出した。
神崎道明は、来るべき戦いに備えて——走り続けた。
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