第二章 神の御者
馬車は、草原を駆け抜けていた。
車輪が地面を蹴る音もなく、風を切る感覚だけが、速度を伝えてくる。道明の身体は、不思議なほど安定していた。タクシーの運転席に座っているときと、同じ感覚。いや、それ以上かもしれない。まるで、馬車が自分の身体の一部になったかのような、奇妙な一体感がある。
「悪くない」
アウルスの声が、どこからともなく聞こえてきた。
「初めてにしては、まあまあの走りだ」
「……褒めてるのか、けなしてるのか」
「どっちでもない。事実を言っている」
道明は、小さく鼻を鳴らした。
この精霊——アウルスは、どうやら毒舌らしい。だが、嫌いではない。こういう手合いは、タクシー業界にもいた。口は悪いが、腕は確かで、嘘はつかない。信用できる類いの人間だ。
「で、どこに向かってる?」
「お前が決めろ」
「俺が?」
「お前が御者だ。行き先を決めるのは、お前の仕事だ」
道明は、前方を見つめた。
草原は、どこまでも続いている。地平線の向こうに、何か——建物のようなものが見える。塔だろうか。城だろうか。遠すぎて、よくわからない。
「……あれは何だ」
「聖都アルカディア。この国の首都だ」
「国?」
「聖車国アルカディア。お前が今いる場所の名前だ」
聖車国。
奇妙な名前だと、道明は思った。「聖」はわかる。「国」もわかる。だが、「車」とは——
「この国は、古来より『御者』を神聖視する文化を持っている」
アウルスが、まるで道明の疑問を読んだかのように説明を始めた。
「神聖馬車を操る者は『神の御者』と呼ばれ、国の守護者として崇められてきた。だが——」
「だが?」
「百年前から、御者の血統は途絶えた。誰も、神聖馬車を動かすことができなくなった」
道明は、自分の手の甲を見た。金色の紋章が、まだそこにある。
「俺が、百年ぶりの御者ってことか」
「そういうことだ。どう思う?」
「どうって——」
道明は、言葉を探した。
百年ぶり。神聖視。守護者。
どれも、自分には似つかわしくない言葉だ。五十六歳のタクシー運転手が、「神の御者」だと? 冗談にしても出来が悪い。
だが——
「……やることは同じなんだろう」
「は?」
「客を乗せて、目的地まで送り届ける。それが御者の仕事なら、俺がやってきたことと変わらない」
アウルスは、しばらく黙っていた。
それから、低く笑った。
「……面白い男だな、お前」
「褒めてるのか」
「ああ、今度は褒めてる」
馬車は、聖都に向かって走り続けた。
◇
聖都アルカディアは、道明の想像を超えていた。
白い石で造られた建物が、整然と並んでいる。道は広く、清潔で、馬車が何台もすれ違えるほどの幅がある。人々は、中世ヨーロッパを思わせる服装をしているが、どこか東洋的な要素も混じっている。和服のような帯を締めた女性。羽織のような上着を纏った男性。東西の文化が、奇妙に融合した街。
そして、何より——
誰もが、道明の馬車を見て、立ち止まっていた。
驚愕。畏怖。そして、希望。
さまざまな感情が、すれ違う人々の顔に浮かんでいる。
「あれは……まさか」
「神聖馬車だ……動いている……」
「御者がいる! 御者台に、誰かが——」
囁きが、波紋のように広がっていく。
道明は、居心地の悪さを感じながら、馬車を進めた。
「……目立つな」
「当然だ。百年ぶりに神聖馬車が動いたんだ。お前は、この国の歴史を変える男になった」
「大袈裟だ」
「事実だ」
馬車は、街の中心へと向かっていた。
アウルスが、勝手にルートを決めているらしい。道明には、この街の地理がわからない。だから、任せるしかない。
「どこに向かってる?」
「王城だ」
「王城?」
「お前の存在を、国王に報告しなければならない。それが、この国のルールだ」
王に会う。
道明は、思わず苦笑した。
五十六年の人生で、政治家に会ったことすらない。それが、いきなり王だと?
「……断れないのか」
「断れない。お前が御者である以上、この国の法に従う義務がある」
「俺は、この国の人間じゃないんだが」
「関係ない。神聖馬車の御者は、国籍を超越する存在だ。この世界のどこにいようと、アルカディアの法がお前を縛る」
理不尽だと思った。
だが、文句を言っても仕方がない。ここは異世界だ。常識が通用しないのは、最初からわかっている。
馬車は、巨大な門の前で停まった。
白い石壁に囲まれた、壮麗な城。塔の先端には、車輪を象った旗が翻っている。
門の両側には、甲冑を纏った兵士が立っていた。彼らもまた、道明の馬車を見て、驚愕に目を見開いている。
「あ、あれは——神聖馬車……!?」
「馬鹿な、動くはずが——」
「いや、見ろ! 御者台に人がいる!」
兵士たちが、慌てて跪いた。
道明は、困惑しながら馬車を降りた。
「あの……立ってくれ。跪かれると、困る」
「し、しかし——」
「いいから」
兵士たちは、おずおずと立ち上がった。その目には、まだ信じられないという色が浮かんでいる。
「御者様、どうか中へ。国王陛下に、すぐにお知らせいたします」
「……ああ、頼む」
道明は、兵士に先導されて城の中へと入っていった。
◇
謁見の間は、想像以上に質素だった。
豪華な装飾を期待していたわけではないが、それにしても地味だ。白い石の壁。高い天井。窓から差し込む光。それだけ。玉座さえ、木製の椅子に過ぎない。
その椅子に、一人の男が座っていた。
五十代半ばだろうか。銀色の髪を短く刈り込み、顔には深い皺が刻まれている。目は鋭いが、どこか疲れた色を帯びている。王冠はなく、服装も簡素。一国の王というよりは、長年の重責に押しつぶされそうな、ただの中年男に見えた。
「——神崎道明、だったか」
王が、口を開いた。声は低く、落ち着いている。
「はい」
「どこから来た」
「遠いところから。おそらく、この世界の外から」
王の眉が、わずかに動いた。
「……異界の者か」
「そうなのかもしれません。俺自身、よくわかっていません」
「だが、神聖馬車は動いた」
「はい」
「百年ぶりに」
「そう聞いています」
王は、しばらく黙っていた。
道明を見つめるその目には、複雑な感情が渦巻いていた。希望。疑念。そして——恐れ?
「……神崎道明」
王が、再び口を開いた。
「そなたは、何者だ」
何者か。
道明は、自分の人生を振り返った。
五十六年。そのうち二十五年を、タクシーの運転席で過ごした。妻とは離婚し、娘とは疎遠になり、友人と呼べる人間もいない。何かを成し遂げたわけでもない。歴史に名を残すような業績もない。ただ、毎日、客を乗せて、目的地まで送り届けてきた。それだけの人生。
「——タクシー運転手です」
道明は、正直に答えた。
「人を乗せて、行きたい場所に連れていく。それが俺の仕事でした。この世界でも、やることは同じだと思っています」
王は、また黙った。
その沈黙は、長かった。
道明は、焦らなかった。待つことには慣れている。付け待ちで、何時間も客を待った経験が、ここで役に立つとは思わなかったが。
「……面白い男だ」
王が、ついに口を開いた。
「神の御者を自称する者は、これまでにも何人かいた。皆、自らの力を誇示し、特権を求め、国を意のままにしようとした。だが、そなたは——」
「俺は、ただの運転手です」
道明は、きっぱりと言った。
「特権は要りません。金も、地位も。ただ、走らせてください。人を乗せて、目的地まで送り届ける。それだけでいい」
王の目が、わずかに見開かれた。
それから——笑った。
心からの、穏やかな笑みだった。
「……よかろう」
王が立ち上がった。
「神崎道明、そなたを『神の御者』として認める。この国の——いや、この世界の人々のために、走ってくれ」
「……ありがとうございます」
道明は、頭を下げた。
これで、正式に「御者」になった。
何が変わるのか、まだわからない。だが、やることは決まっている。
客を乗せて、目的地まで送り届ける。
それだけだ。
◇
謁見の間を出ると、一人の少女が待っていた。
見た目は二十歳前後だろうか。長い銀色の髪を、後ろで一つに束ねている。服装は、この国の平民とは少し違う。どこか神官のような、白い法衣を纏っている。
だが、何より印象的なのは——その目だった。
深い青色。どこまでも澄み切った、宝石のような瞳。道明が今朝——いや、「あの世界」で最後に見た老人と、同じ色をしている。
「あなたが、神崎道明さん?」
少女が、おずおずと尋ねた。
「ああ」
「私、リーゼルと言います。よろしくお願いします」
道明は、少女——リーゼルを見つめた。
「……どこかで会ったか?」
「え? いいえ、初めまして」
「そうか……」
気のせいか。だが、どこか——懐かしい気がする。
「あの、神崎さん」
「道明でいい」
「え?」
「名前で呼んでくれ。『神崎さん』は、会社の先輩に呼ばれてるみたいで、落ち着かない」
リーゼルは、きょとんとした顔をした。それから、小さく笑った。
「わかりました、道明さん」
「それでいい。で、何か用か?」
「はい。私、道明さんの——えっと、『助手』になることになりました」
「助手?」
「神の御者には、必ず助手がつくんです。道案内や、事務手続きや、その他いろいろ——」
「ナビゲーターみたいなものか」
「なび……?」
「ああ、こっちの話だ。つまり、俺の補佐をしてくれるってことだな」
「はい!」
リーゼルは、元気よく頷いた。
その仕草は、どこか子犬を思わせる。人懐っこくて、まっすぐで、警戒心がない。
——この子、大丈夫か?
道明は、少し心配になった。この世界のことはわからないが、こういう純粋なタイプは、悪い人間に騙されやすい。気をつけてやらなければ。
「じゃあ、頼む。まずは——」
「はい?」
「この国のことを教えてくれ。地理、文化、法律、何でもいい。御者として働くなら、まず土地勘をつけないと話にならない」
リーゼルは、目を輝かせた。
「わかりました! 私、この国のことなら何でも知ってます! 任せてください!」
道明は、小さく頷いた。
まずは情報収集。それから、実際に走ってみる。
やることは、元の世界と同じだ。
新しい営業所に配属されたときと、同じ手順。まず土地を知り、客の流れを読み、効率的なルートを組み立てる。
——なんとかなる。
道明は、そう自分に言い聞かせた。
五十六年の人生で培った経験が、この世界でも通用するかどうかはわからない。
だが、やるしかない。
それが、自分にできる唯一のことだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます