タクシー運転手×異世界転生_隔勤転生 ~異世界でも俺は走り続ける~
もしもノベリスト
第一章 明番前の終わり
午前三時十七分。メーターの数字が、また一つ跳ね上がった。
神崎道明は、フロントガラスの向こうに広がる首都高速の闘い場を睨みながら、無意識のうちに左手でハンドルを叩いていた。リズムを刻むように、とん、とん、と。それは彼が二十五年間、この仕事を続けてきた中で身についた癖だった。客を乗せているときは絶対にやらない。だが、空車で走っているとき、特に売上が思わしくない夜には、この癖が出る。
今夜の売上は四万二千円。悪くはない。だが、良くもない。
足切りラインは超えている。それだけは確かだ。二十五年間、ただの一度も足切りを割ったことがない。それが神崎道明という男のプライドだった。派手な万収を連発するタイプではない。だが、堅実に、確実に、毎月のノルマを超え続けてきた。会社の表彰式で名前を呼ばれることはないが、誰からも文句を言われることもない。そういう、地味で目立たない存在。それが自分だと、道明は思っていた。
——いや、思い込もうとしていた。
信号が赤に変わる。道明はブレーキを踏み、車を停めた。深夜の幹線道路は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。対向車線を、同業者のタクシーが一台、ゆっくりと通り過ぎていく。運転席の男と、一瞬だけ目が合った。お互いに軽く頷く。それだけの挨拶。言葉はいらない。同じ戦場で戦う者同士の、無言の連帯。
タクシー運転手という仕事は、孤独だ。
朝、営業所を出てから、夜中に戻ってくるまで、基本的に一人きり。上司の目もない。同僚との雑談もない。あるのは、自分と、車と、そして街だけ。その孤独が、道明には心地よかった。少なくとも、かつては。
信号が青に変わる。アクセルを踏み込む。エンジンが低く唸り、車体が前へと滑り出す。
——あと三十分。
帰庫の時間が迫っていた。隔日勤務のリズムは、身体に染み付いている。出庫してから二十時間以上。そろそろ集中力の限界が近い。瞼が重くなり始めている。こういうときは、無理をしない。それも二十五年で学んだことの一つだ。
損切りも営業のうち。
それが道明の口癖だった。付け待ちで粘り続けても、客が来ないときは来ない。そういうときは、さっさと見切りをつけて場所を変える。執着は禁物。流れに身を任せつつ、流れを読む。それがこの仕事のコツだ。
と、そのとき。
無線が鳴った。
『三番、三番。神崎さん、聞こえますか』
配車センターの女性オペレーターの声。道明は素早く受話器を取った。
「三番、神崎です。どうぞ」
『お疲れ様です。今、場所はどちらですか?』
「環七、高円寺付近を南下中です」
『了解です。阿佐ヶ谷駅北口で一件、配車依頼が入っています。対応可能ですか?』
道明は一瞬、考えた。阿佐ヶ谷なら、ここから五分程度。帰庫時間にはまだ余裕がある。
「了解、向かいます」
『ありがとうございます。お客様は女性一名、行き先は練馬区の——』
と、そこで無線にノイズが走った。別の声が割り込んでくる。
『——こちら七番、黒沢。その配車、俺が取る』
道明の眉が、わずかに動いた。
黒沢剛。三十二歳。入社五年目にして、すでに営業成績トップを独走する若手のエース。だが、その評判は——
『黒沢さん、今の位置は?』
『荻窪。阿佐ヶ谷なら俺の方が近い』
嘘だ、と道明は思った。荻窪から阿佐ヶ谷北口なら、自分の方が明らかに近い。だが、黒沢はこういう男だった。配車を横取りすることに、何の躊躇いもない。ルールの隙間を突き、グレーゾーンを平然と踏み越える。そして、それを咎める者がいない。なぜなら、彼は「稼ぐ」からだ。
『……了解しました。では七番、黒沢さんにお願いします。神崎さん、すみません』
「いえ、構いません」
道明は静かに受話器を戻した。
腹は立たない。——いや、立たないと言えば嘘になる。だが、もう慣れた。黒沢のような人間は、どこの世界にもいる。そして、そういう人間が、往々にして「勝つ」のだ。少なくとも、短期的には。
道明は窓を少しだけ開けた。十二月の夜風が、頬を冷たく撫でる。
五十六歳。
この歳になって、何を期待しているのだろう。出世? ありえない。タクシー運転手に出世などない。金? 今さら大金を稼いでも、使い道がない。妻の智子とは十年前に離婚した。一人娘の美咲は、今年二十八になるはずだ。最後に顔を見たのは、いつだったか。もう三年以上会っていない。連絡先は知っているが、電話をかける勇気がない。何を話せばいいのか、わからない。
——親父、私のこと、どうでもいいんでしょ。
離婚のとき、美咲はそう言った。否定できなかった。仕事ばかりで、家庭を顧みなかった。それは事実だ。言い訳をする気はない。ただ、彼女の言葉が、今でも胸に突き刺さったまま抜けないでいる。
道明は、深く息を吐いた。
考えるな。今は、仕事に集中しろ。
そう自分に言い聞かせ、ハンドルを握り直す。
帰庫まで、あと二十分。
最後にもう一人くらい、客を拾えるかもしれない。流しで行こう。この時間帯、繁華街を離れた住宅街にも、意外と需要がある。終電を逃したサラリーマン、夜勤明けの看護師、深夜に体調を崩した老人——さまざまな人間が、タクシーを必要としている。
彼らを見つけ、目的地まで送り届ける。
それが、自分の仕事だ。
道明は、環七から細い路地へとハンドルを切った。
このあたりは、古い住宅街だ。街灯の光が乏しく、道の両側には築四十年はくだらない木造家屋が連なっている。昼間でさえ人通りは少ない。こんな時間に客がいるはずがない——普通ならそう考える。だが、道明の勘は違うことを告げていた。
二十五年の経験が、身体に染み付いている。
客がいる場所は、空気でわかる。
そんな非科学的なことを、若い頃は信じなかった。だが、今は違う。理屈では説明できないが、確かに「匂う」のだ。今夜も、この路地のどこかに——
と、そのとき。
道明の目が、一つの人影を捉えた。
電柱の陰に、誰かが立っている。
深夜三時半。こんな場所に、こんな時間に。普通ではない。だが、道明は減速した。職業的な反射だった。人がいれば、客かもしれない。それを確認するまで、通り過ぎることはできない。
近づくにつれ、人影の輪郭がはっきりしてきた。
老人だった。
八十歳は超えているだろう。痩せ細った身体に、古びた和服を纏っている。顔は深い皺に覆われ、目は——奇妙なほど澄んでいた。まるで、この世のものではないかのような、透明な光を湛えている。
道明は車を停め、窓を開けた。
「お客さん、タクシーですか?」
老人は、ゆっくりとこちらを向いた。その動作には、不思議な威厳があった。
「……ああ」
掠れた声が、夜の静寂に溶けていく。
「乗せてくれるかね。遠いところまで」
「どちらまでですか?」
老人は、薄く笑った。
「果てまで」
意味がわからない。だが、道明は後部座席のドアを開けた。
「とりあえず乗ってください。住所を教えていただければ、お連れします」
老人は、ゆっくりと車に乗り込んできた。その身体は、驚くほど軽そうに見えた。まるで、実体がないかのように。
——気のせいだ。
道明は首を振り、メーターを倒した。
「それで、どちらまで?」
「……」
老人は答えなかった。ただ、窓の外を見つめている。その横顔は、どこか寂しげだった。
「お客さん?」
「運転手さん」
老人が、唐突に言った。
「あんた、お化けを拾ったことはあるかね」
道明は、一瞬、言葉を失った。
お化け。
タクシー業界では、「思いがけない長距離客」を意味する隠語だ。深夜の人気のない場所で、なぜかそこにいて、驚くほど遠い場所まで行きたがる客。滅多に出会えない、ドライバーにとっての「宝くじ」。
——なぜ、この老人がその言葉を知っている?
「……いえ、まだです」
道明は、慎重に答えた。
「二十五年やってますが、本物のお化けには会ったことがない」
「そうかね」
老人は、また薄く笑った。
「なら、今夜が初めてになるかもしれんな」
その言葉の意味を問い返そうとした、まさにそのとき——
世界が、白く弾けた。
フロントガラスの向こうに、巨大な光の塊が現れた。ヘッドライト。対向車。いや、違う。こちらの車線を、猛スピードで突っ込んでくる——トラック。
居眠り運転だ。
その認識が脳に届くより先に、道明の身体は動いていた。ハンドルを切る。ブレーキを踏む。だが、間に合わない。距離が近すぎる。速度が違いすぎる。
——美咲。
最後に浮かんだのは、娘の顔だった。
幼い頃の、あどけない笑顔。「パパ、おかえり」と駆け寄ってきた、あの日の記憶。
——すまなかった。
衝撃が、全身を貫いた。
金属が軋み、ガラスが砕け、世界が回転する。
痛みは、不思議となかった。ただ、意識が遠のいていく。暗闇が、視界の端から迫ってくる。
そして、最後に——
老人の声が、聞こえた気がした。
「——お化けを、乗せる日が来る」
その言葉が何を意味するのか、道明にはわからなかった。
意識が、完全に途切れた。
◇
最初に感じたのは、風だった。
頬を撫でる、柔らかな風。草の匂いを含んだ、どこか懐かしい香り。
——生きている?
道明は、ゆっくりと目を開けた。
青い空が、視界いっぱいに広がっていた。
雲一つない、どこまでも澄み切った青。東京の空ではない。こんな青は、この三十年、見たことがない。
身体を起こす。痛みはない。傷も、血も、何もない。着ているのは——タクシー会社の制服。深夜の事故の直前と、まったく同じ格好。
だが、周囲の景色は、完全に異なっていた。
道明は、草原の真ん中に座っていた。
見渡す限りの緑。遠くには、雪を頂いた山脈。空には、太陽とは別の——二つ目の光球が浮かんでいる。
——ここは、どこだ?
混乱する頭で、道明は周囲を見回した。
そして、気づいた。
すぐそばに、何かがある。
大きな——とても大きな——馬車だった。
古びた木製の車体。四つの巨大な車輪。だが、馬はいない。誰も乗っていない。ただ、草原の真ん中に、放置されたように佇んでいる。
その馬車から、声がした。
「——やっと来たか」
道明は、反射的に立ち上がった。
声の主を探す。だが、誰もいない。馬車の中にも、周囲にも、人の姿はない。
「ここだ、ここ」
声は、馬車そのものから聞こえてきた。
正確には——馬車の前面、ちょうど運転席にあたる部分に取り付けられた、奇妙な装置から。
それは、タクシーのメーターに似ていた。
古びた金属の枠に、ぼんやりと光る数字盤。針は、ゼロを指している。
「百年だ」
メーターが——いや、メーターのような装置が、言った。
「百年間、誰も来なかった。お前が初めてだ」
「……誰だ、お前は」
道明の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。長年の接客業で培われた、どんな状況でも冷静さを保つ習性が、ここでも発揮されていた。
「俺か? 俺はアウルスだ。この『天輪号』に宿る精霊——まあ、お前の世界の言葉で言えば、『魂』のようなものだ」
「精霊……」
「信じられんか? まあ、無理もない。だが、お前がここにいるということは、お前には『資格』があるということだ」
「資格?」
「『神の御者』になる資格だ」
道明は、馬車を見上げた。
古びている。ところどころ、塗装が剥げている。車輪の一部は、苔に覆われている。
だが——美しかった。
どこか、懐かしかった。
まるで、ずっと昔から、この馬車を知っていたかのような。
「……俺は、タクシー運転手だ」
道明は、ゆっくりと言った。
「馬車なんて、乗ったこともない」
「関係ない」
アウルスと名乗った精霊は、どこか呆れたように言った。
「車輪を回すのは、お前じゃない。俺だ。お前は、ただ——」
「ただ?」
「客を乗せて、目的地まで送り届ければいい」
道明の心臓が、一つ、強く脈打った。
客を乗せて、目的地まで送り届ける。
それは——自分が二十五年間、やってきたことそのものだった。
「試してみるか?」
アウルスが、挑発するように言った。
「乗ってみろ。お前に資格があるなら、この馬車は動く。なければ——まあ、その辺で野垂れ死ぬだけだ」
選択肢はなかった。
ここがどこであろうと、何が起きていようと——座り込んでいても、何も変わらない。
道明は、馬車の御者台に手をかけた。
その瞬間——
光が、走った。
道明の右手から、腕へ、肩へ、全身へと。まばゆい光が、電流のように駆け抜けていく。
そして、彼の手の甲に——紋章が浮かび上がった。
タクシーのメーターのような形をした、金色の紋章。
「……ほう」
アウルスの声に、わずかな驚きが混じった。
「本当に資格があったか。百年ぶりの『御者』だ」
道明は、自分の手を見つめた。
紋章は、まるで最初からそこにあったかのように、肌に馴染んでいる。
「……これは」
「『契約の証』だ。お前はこの瞬間から、『天輪号』の御者になった。この世界で——いや、この世界を、走る権利を得たんだ」
この世界。
道明は、もう一度、周囲を見回した。
青い空。緑の草原。二つの太陽。
これが現実なのか、死後の世界なのか、それとも夢なのか——わからない。
だが、一つだけ、確かなことがある。
ここには、道がある。
そして、自分には——乗り物がある。
「……上等だ」
道明は、御者台に腰を下ろした。
手綱はない。馬もいない。だが、不思議と——何をすればいいか、わかる気がした。
「走れ」
その一言で、馬車は動き出した。
音もなく、振動もなく、まるで滑るように。
風が、道明の頬を撫でた。
二十五年間、タクシーの窓から感じ続けた風とは、まったく違う。
だが、どこか——同じだった。
——客を乗せて、目的地まで送り届ける。
やることは、変わらない。
神崎道明は、五十六歳にして——新しい世界で、再び走り始めた。
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