第23話∶氷結の鎌倉と、灼熱のグラタン

 二月十四日。バレンタインデー。

 午後から降り始めた雪は、夕刻には視界を奪うほどの猛吹雪へと変わっていた。

 愛を囁き合うはずの聖なる日は、白銀の絶望に塗り潰されようとしていた。

 場所は、稲村ヶ崎(いなむらがさき)の海岸。

 荒れ狂う冬の海を背に、古都宮(ことみや)紬(つむぎ)はガタガタと震えながら立ち尽くしていた。

「……嘘、でしょ」

 目の前の光景が信じられなかった。

 最強の龍神であるはずの清水(しみず)が、巨大な氷の柱の中に閉じ込められているのだ。

 まるで標本のように、苦悶の表情を浮かべたまま、時を止められている。

「清水さんッ!!」

 叫んでも、声は暴風にかき消される。

 彼を封じたのは、海上に浮かぶ異形の影――四凶の幹部、**『冬帝(とうてい)』**と呼ばれる氷のあやかしだ。

 白骨のような仮面をつけ、ボロボロの衣を纏ったその姿は、見るだけで魂が凍りつくような冷気を放っている。

『……ヌルイ。神ノ火ナド、我ガ氷河ノ前デハ蝋燭(ロウソク)ニ過ギヌ』

 冬帝が骨の指を振るうと、海岸線一帯が瞬時に凍結した。

 波の飛沫さえも空中で氷の礫(つぶて)と化し、襲いかかってくる。

「クソッ、ふざけんな! 俺の爪が通じねぇだと!?」

 白虎の琥太郎(こたろう)が吠える。

 彼は果敢に飛びかかるが、敵の纏う冷気があまりに強く、近づくことさえままならない。虎の金色の毛並みには霜が張り付き、動きが鈍っている。

「下がるんだ、白虎! 触れれば君も凍らされるぞ!」

 後方で結界を展開している玄武(げんぶ)が叫ぶ。

 彼の防御結界も、ミシミシと悲鳴を上げていた。このままでは、結界ごと圧し潰されるのは時間の問題だ。

「玄武君! 清水さんは!? 清水さんは死んじゃうの!?」

「……仮死状態だ」

 玄武は脂汗を流しながら、冷静に分析した。

「奴の氷は、対象の『熱』を奪う呪いそのものだ。青龍は今、自身の核を守るために自ら活動を停止している。だが……このまま体温が奪われ続ければ、いずれ灯火は消える」

 灯火が消える。それは、死を意味する。

 紬の足元が崩れそうになった。

 昨日、あんなに力強く約束してくれたのに。

 ――必ず守る、と。

 彼はその言葉通り、最初の一撃から紬を庇って、身代わりになったのだ。

(嫌だ……。まだ、チョコも渡してないのに!)

 絶望が喉まで出かかった時、玄武が鋭く叫んだ。

「紬! 泣いている暇はないぞ!」

「えっ?」

「僕が結界で時間を稼ぐ。その間に、お前が『熱』を作れ!」

 玄武の瞳は、諦めていなかった。

 かつての引きこもりの賢者ではない。戦う者の目をしていた。

「青龍を内側から覚醒させるには、爆発的な熱量(カロリー)と、魂を揺さぶる『生』のエネルギーが必要だ。……お前の料理しかない!」

 料理。この極寒の戦場で?

 だが、紬は迷わなかった。リュックサックを地面に叩きつける。

 中には、避難用に詰め込んでおいた食材と道具が入っている。

「やります! 琥太郎君、火を!」

「おうよ! 任せろ!」

 琥太郎が咆哮すると、紬の周囲に炎の壁が生まれ、風雪を遮断した。

 簡易的な調理場(フィールド)の完成だ。

 カセットコンロをセットする。

 鍋を置く。

 作るものは決まっている。

 冷え切った体を芯から温め、濃厚なエネルギーを叩き込む、冬の洋食の王様。

「『熱々シーフードマカロニグラタン』……!」

          ◇

 まずは具材だ。

 オリーブオイルにニンニクのみじん切りを入れ、香りが出るまで熱する。

 そこに、玉ねぎとマッシュルームを投入。

 ジュワァァァ……!

 香ばしい音が、吹雪の音に対抗するように響く。

 さらに、鎌倉の海で獲れた海老とホタテを惜しげもなく加える。

 魚介の旨味が油に溶け出し、食欲をそそる香りが立ち上る。

(負けない。あんな氷なんかに、私の熱は消されない!)

 隣の鍋では、マカロニを茹でる。

 早茹でタイプだ。時間との勝負。

 そして、グラタンの命である**『ホワイトソース(ベシャメルソース)』**作り。

 フライパンにバターをたっぷりと溶かす。

 小麦粉を振り入れ、焦げ付かないように木べらで練る。

 粉っぽさがなくなったら、牛乳を少しずつ、数回に分けて加えていく。

 ここが正念場だ。

 ダマにならないように、丁寧に、かつ素早く。

 最初はボテッとしていた生地が、牛乳を含むたびに滑らかになり、艶やかなクリームへと変わっていく。

 とろりとした純白のソース。

 それはまるで、凍えた世界を優しく包み込む毛布のようだ。

 コンソメと塩コショウで味を調え、隠し味に白味噌を少し。これでコクと深みが増す。

「……いい匂いだ」

 結界を支える玄武が、鼻をひくつかせた。

「バターとミルクの濃厚な香り……。これなら、あの石頭の龍も起きるかもしれん」

 茹で上がったマカロニと、炒めた具材をソースに合わせる。

 具材の旨味とソースが絡み合い、ぽってりと重くなる。

 これを耐熱容器(アルミ皿)に移し、ピザ用チーズを山のように乗せる。

 さらにパン粉を散らし、パセリを振る。

 だが、ここで問題が発生した。

 オーブンがない。

 表面を焼き上げ、あの焦げ目を作らなければ、グラタンとは呼べない。

「琥太郎君! お願い!」

「へっ、待ってましただぜ!」

 琥太郎が指先から、レーザーのように鋭い炎を放った。

 神の火によるバーナー炙りだ。

 ゴォォォッ!!

 チーズが溶け、ふつふつと泡立ち、食欲をそそる狐色の焦げ目がついていく。

 完成だ。

 グツグツと音を立てる、灼熱のグラタン。

 チーズとバターの焦げる匂いは、暴力的ですらある。

『……ナンダ、ソノ匂イハ?』

 空中の冬帝が動きを止めた。

 極寒の世界には存在し得ない、圧倒的な「熱」と「生」の気配。

 それが、氷の柱の中にいる清水にも届いた。

 ドクン。

 氷の中で、心臓が跳ねた音がした。

「清水さん!! 起きて! ご飯ですよ!!」

 紬は叫びながら、結界の外へ飛び出した。

 熱々のグラタン皿を両手で掲げ、氷の柱へと走る。

『オノレ、小賢シイ……!』

 冬帝が氷の槍を放つ。

 だが、紬は止まらない。

 足がすくむほどの恐怖。でも、彼を失う恐怖に比べれば、こんなもの!

「届けぇぇぇッ!!」

 紬はグラタンを、氷の柱の足元へ叩きつけるように置いた。

 そして、蓋代わりのアルミホイルを引き剥がす。

 ボワァァァァァッ!!!

 湯気が爆発した。

 ホワイトソースの甘い香り、焦げたチーズの芳ばしさ、魚介の旨味。

 それらが凝縮された熱気が、金色のオーラとなって氷の柱を包み込む。

 紬の「食べて!」「生きて!」という祈りが、熱エネルギーとなって物理法則を凌駕する。

 ミシッ……パキキキッ……!

 絶対零度の氷に、亀裂が走った。

 氷の表面が、湯気の熱で溶け出し、水滴となって滴り落ちる。

『バカナ……! 我ガ氷ガ、タカガ人間ノ料理如きデ!』

「ただの料理じゃないわ!」

 紬は叫んだ。

「これは、愛の塊よ! バレンタインを舐めないで!」

 ドゴォォォォォン!!

 次の瞬間、氷の柱が内側から砕け散った。

 氷の破片がダイヤモンドダストのように舞い散る中、蒼い炎が渦を巻いて噴き上がる。

 その中心に、彼が立っていた。

 銀の髪をなびかせ、金色の瞳を爛々と輝かせた、最強の龍神が。

「……よく言った、紬」

 清水が口元の氷を拭い、ニヤリと笑った。

 その手には、湯気を立てるグラタン皿が握られている。

 彼は敵の前だというのに、フォークで熱々の塊をすくい上げ、口に放り込んだ。

 ハフッ。

 チーズが糸を引き、ホワイトソースが口の中でとろける。

「……熱い。そして、濃厚だ」

 喉を通る熱が、凍りついた神核に火を灯す。

 海老のプリプリとした食感、マッシュルームの香り。

 冷え切った世界で、これほど温かいものが他にあるだろうか。

「力が……漲(みなぎ)る」

 清水の全身から、凄まじい神気が放出された。

 それは周囲の雪を一瞬で蒸発させ、冬帝を後ずさりさせるほどの圧力。

「待たせたな、化け物。……そして、礼を言うぞ」

 清水は空になった皿を丁寧に地面に置くと、ゆらりと敵を見据えた。

 その背後に、巨大な青龍の幻影が顕現する。

「貴様のおかげで、最高のメインディッシュにありつけた。……その礼に、地獄の業火で焼き尽くしてやる」

「行くぞ、白虎! 玄武!」

「おうよ! 待ちくたびれたぜ!」

「やれやれ……結局、こうなるのか」

 三柱の神が並び立つ。

 紬はへたり込みながら、その背中を見上げた。

 勝てる。

 この熱がある限り、彼らは絶対に負けない。

 反撃の狼煙(のろし)は上がった。

 グラタンの香りが残る戦場で、最後の決戦が始まる。



(第23話 完)

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