第22話∶バレンタイン前夜、カカオの魔法
二月十三日。
鎌倉の街には、甘くほろ苦い香りが満ちていた。
立春を過ぎ、宝戒寺(ほうかいじ)の梅がほころび始める頃だが、海風はまだ冷たい。
小町通りのチョコレート専門店には長蛇の列ができ、ショーウィンドウには真紅のリボンとハートの飾りが溢れている。
バレンタインデー。
想いを伝える日であり、恋人たちの祭典。
だが、今年の鎌倉にとって、それは別の意味を持っていた。
――決戦の前夜だ。
『萬(よろず)相談所』の台所は、まるで実験室のような緊張感に包まれていた。
「……温度、よし。乳化、よし」
古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は、真剣な眼差しでボウルの中の黒い液体を撹拌(かくはん)していた。
艶やかなチョコレート。芳醇なカカオの香り。
明日、清水(しみず)に渡すと約束した「本命チョコ」の製作中だ。
「おいおい、すげぇ匂いだな。鼻血が出そうだ」
居間のこたつから、金髪の白虎・琥太郎(こたろう)が顔を出した。
その隣で、黒髪の少年・玄武(げんぶ)が分厚い古書を読みながら、冷ややかに呟く。
「……理解できないな。明日は『四凶(しきょう)』の大攻勢が予測されている日だ。戦いに備えて英気を養うべき時に、なぜ菓子作りなどに精を出す?」
「これは、そのための準備でもあります!」
紬は手を休めずに答えた。
「チョコにはテオブロミンやポリフェノールが含まれてて、集中力を高めるし、疲労回復にもいいんです。明日の戦いのための、最強の補給食ですよ」
「屁理屈だな。……それに、君は怖くないのか?」
玄武が本を閉じ、瓶底メガネの奥から紬を見据えた。
その瞳には、予知能力者特有の、冷めた諦観(ていかん)が宿っている。
「相手は神を喰らう災厄だ。青龍も白虎も、無事では済まないかもしれない。……それに、たとえ明日勝てたとしても」
玄武の言葉が、刃のように紬の核心を突く。
「彼らは神で、君は人間だ。生きる時間が違う。君が老婆になり、土に還った後も、彼らは変わらぬ姿で生き続ける。……その『差』に、君は耐えられるのか?」
調理の手が止まった。
ボウルの中のチョコレートが、一瞬だけ冷えて固まった気がした。
それは、紬がずっと目を逸らしてきた事実だ。
三百年前の悲恋。そして、繰り返されるかもしれない別れ。
私が彼を愛せば愛すほど、彼を「置いていく」時の悲しみは深くなるのではないか。
(……怖い。本当は、すごく怖い)
紬は唇を噛んだ。
でも、脳裏に浮かぶのは、美味しそうにご飯を食べる清水の笑顔だ。
「美味い」と言ってくれる、あの低い声だ。
「……耐えられるかは、わかりません」
紬は再びゴムベラを握った。
「でも、未来がないからって、今お腹を空かせている人を放っておく理由にはなりません。私は料理番ですから」
迷いを断ち切るように、紬は調理を再開した。
作るのは、『特製スパイス・ガトーショコラ』。
ただの甘いケーキではない。魔除けと、情熱と、覚悟を込めた一品だ。
◇
クーベルチュール・チョコレートは、カカオ分70%のハイカカオを使用する。
ビターな苦味は大人の味。そして、邪気を払う力強さがある。
これを湯煎で溶かし、無塩バターを加えて滑らかにする。
艶が出るまで混ぜ合わせるのがポイントだ。
別のボウルで卵白を泡立てる。
砂糖を三回に分けて加え、ツノが立つまでしっかりと。
このメレンゲこそが、ケーキの骨格になる。私の気持ちと同じ、折れない芯を作るように。
卵黄とグラニュー糖を白っぽくなるまで擦り混ぜ、そこに溶かしたチョコを合わせる。
そして、ここで「魔法」をかける。
紬が取り出したのは、小瓶に入った数種類のスパイスだ。
シナモン、カルダモン、そしてほんの少しのカイエンペッパー(赤唐辛子)。
シナモンは「愛」を、カルダモンは「高貴な香り」を、そして赤唐辛子は「魔除け」を意味する。
さらに、香り付けにブランデーを小さじ一杯。
(守って。彼を、私たちの日々を)
祈りを込めて混ぜ合わせる。
スパイシーで妖艶な香りが立ち上り、カカオの香りと複雑に絡み合う。
メレンゲを三回に分けて加え、泡を潰さないように切るように混ぜる。
生地が艶やかなリボンのように落ちるようになったら、型に流し込む。
170度のオーブンへ。
行ってらっしゃい。
チッ、チッ、チッ……。
時計の音が響く静かな台所。
オーブンの中から、濃厚な香りが漏れ出してくる。
甘く、苦く、そしてピリリと刺激的な香り。
四十分後。
焼き上がりのブザーが鳴った。
扉を開けると、熱気と共にカカオの香りが爆発した。
表面がひび割れ、少し膨らんだガトーショコラ。
冷めると中央が窪み、その分だけ中身がギュッと凝縮される。濃厚で、どっしりとしたケーキだ。
「……いい匂いだ」
いつの間にか、玄武が台所の入り口に立っていた。
彼は焼き上がったケーキをじっと見つめている。
「味見、しますか?」
「……毒味役が必要なら、やってやらんこともない」
素直じゃない神様だ。
紬は端っこの部分を切り分け、皿に乗せて差し出した。
玄武はフォークでそれを突き、口に運ぶ。
「……」
彼の目が、わずかに見開かれた。
表面はサクッと香ばしく、中は生チョコのようにしっとりと濃厚。
カカオの苦味と砂糖の甘さが口の中で溶け合い、鼻に抜けるカルダモンの清涼感とブランデーの香りが、余韻を深くする。
そして最後に、喉の奥で微かに感じるカイエンペッパーの熱。
「……重いな」
玄武がポツリと言った。
「味が、ではない。……君の想いがだ。甘くて、苦くて、そして熱い。……こんなものを食わされたら、あの龍神も逃げられまい」
「逃がしませんよ。胃袋、掴んでますから」
紬が笑うと、玄武はふっと表情を緩めた。
「そうか。……なら、僕の予知も外れるかもしれないな」
その時、玄関の引き戸が開く音がした。
清水が帰ってきたのだ。
最終的な結界の点検を終え、その体には冷たい夜気がまとわりついている。
「ただいま。……む、甘い匂いだな」
清水が台所に入ってくる。
エプロン姿の紬を見て、彼の瞳が優しく細められた。
「まだ起きていたのか。明日に備えて寝ろと言っただろう」
「清水さんこそ。……これ、明日のための準備ですから」
紬は焼き上がったガトーショコラを指差した。
一晩寝かせることで、生地が馴染み、さらに美味しくなる。
明日、戦いが終わった後に食べる、勝利の約束だ。
「……そうか」
清水はケーキを見つめ、それから紬を見た。
彼は何も言わず、近づいてきて、そっと紬の手を取った。
冷え切った彼の手を、紬の温かい手が包み込む。
「紬」
「はい」
「明日は、俺の背中だけを見ていろ。……必ず守る」
その言葉には、悲壮感はなかった。
あるのは、揺るぎない自信と、愛しい者を慈しむ響きだけ。
紬は頷いた。
「はい。……でも、清水さんも約束してください」
「ん?」
「絶対、生きて帰ってきてください。このケーキ、一緒に食べるんですから」
清水は少し驚いた顔をして、それからニヤリと笑った。
いつもの、不敵で、最高に格好いい龍神の笑みだ。
「ああ。約束しよう。……楽しみにしているぞ、その黒い塊を」
「塊って言わないでください! 最高傑作なんですから!」
二人の笑い声が、夜の静寂に溶けていく。
居間では、琥太郎と玄武が明日の作戦会議(という名の夜食の奪い合い)をしている声が聞こえる。
賑やかで、温かい夜。
外では、雪交じりの風が唸りを上げている。
四凶の気配は、もう鎌倉の結界のすぐ外まで迫っていた。
日付が変わる。
二月十四日。バレンタインデー。
そして、運命の決戦の日。
紬は冷めたガトーショコラを丁寧にラッピングし、冷蔵庫に入れた。
赤いリボンを結ぶ。
それは、彼との未来を繋ぐ、祈りの結び目だった。
(待っててね。一番美味しい状態で、彼に届けるから)
静かに扉を閉める。
嵐の前の、最後の夜が更けていった。
(第22話 完)
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