第21話∶忍び寄る「四凶」の影と、酒粕汁
一月も半ばを過ぎた頃。
鎌倉の街は、異常な寒波に見舞われていた。
天気予報は連日「十年ぶりの厳冬」と報じているが、それが単なる気象現象ではないことを、古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は肌で感じていた。
「……寒い。骨まで凍りそう」
『萬(よろず)相談所』の台所に立つ紬は、足踏みをしながら白い息を吐いた。
暖房はフル稼働しているのに、室温が上がらない。
窓の外、鎌倉の空は鉛色の雲に覆われ、絶え間なく霙(みぞれ)が降り注いでいる。
この冷気は、物理的な温度だけではない。人々の活力を奪う、霊的な「停滞」の気配を含んでいた。
「ただいまぁ……。うぅ、死ぬ……」
「帰ったぞ……。風呂、風呂を沸かせ……」
玄関から、幽霊のような声が聞こえた。
パトロールに出ていた清水(しみず)と琥太郎(こたろう)だ。
二人が居間に入ってくると、冷気がドッと雪崩れ込んできた。
清水の美しい銀髪には霜が降り、琥太郎の唇は紫色に震えている。
「お疲れ様です! 大丈夫ですか!?」
「ダメだ……。体が動かん」
清水がこたつに倒れ込む。
変温動物である龍と、南方の獣である虎にとって、この寒さは天敵だ。
しかも、彼らが戦っている相手は「冬将軍」などではない。
「……また『影』が増えてやがった」
琥太郎が毛布にくるまりながら、悔しげに言った。
「黒い霧みてぇな化け物だ。斬っても斬っても湧いてきやがる。あいつら、俺たちの体温だけじゃなく、神気まで吸い取っていきやがるんだ」
居間の隅、本の山に埋もれていた玄武(げんぶ)が、眼鏡の位置を直しながら冷淡に告げた。
「当然だ。あれは**『四凶(しきょう)』の先兵、『混沌(こんとん)』**の落とし子だからな」
四凶。
四神と対をなす、伝説の四つの災厄。
その一柱である『混沌』は、秩序を嫌い、世界を無に帰そうとする性質を持つという。
「鎌倉の結界は、すでに虫食い状態だ。奴らの冷気は、この街の『生気』を凍結させ、糧にしようとしている。……君たちがいくら雑魚を倒したところで、本体が来れば終わりだよ」
玄武の言葉は辛辣だが、事実は事実だ。
清水と琥太郎の消耗は激しい。このままでは、本体が来る前に二人が倒れてしまう。
(私が……私が支えなきゃ)
紬は決意を込めて、エプロンの紐を強く締めた。
冷え切った体を内側から温め、免疫力を爆発的に上げ、さらに神気(エネルギー)を補充する料理。
そんな魔法のようなメニューが、一つだけある。
「今日は**『具だくさんの酒粕汁(かすじる)』と、『ネギ味噌焼きおにぎり』**にします!」
◇
酒粕(さけかす)は、「百薬の長」と言われる日本酒の副産物だ。
アミノ酸、ビタミン、そして発酵の力が凝縮されている。
何より、酒は神様への捧げ物。そのエッセンスが詰まった酒粕は、彼らにとって最強のサプリメントになるはずだ。
まずは下準備。
根菜をたっぷりと使う。大根、人参、ごぼう、里芋。
これら土の中で育つ野菜は、体を温める「陽」の気を持っている。
食べやすい大きさに切り、ごま油で炒める。
ジュワアア……。
ごま油の香ばしい匂いが、冷たい空気に熱を灯す。
油が回ったら、出汁(だし)をたっぷりと注ぐ。今日は昆布と煮干しで引いた、力強い出汁だ。
具材が煮える間に、主役の**『酒粕』**を準備する。
近所の酒屋で手に入れた、絞りたての大吟醸の酒粕だ。封を開けただけで、フルーティーで芳醇な香りが漂う。
これをボウルに入れ、煮汁で少しずつ溶いてペースト状にする。
そのまま入れるとダマになるから、このひと手間が大切だ。
鍋に鮭の切り身と、たっぷりの油揚げを加える。
鮭の脂と油揚げのコクが、汁に深みを与える。
最後に、溶いた酒粕と、白味噌を合わせ入れる。
コトコト、コトコト。
沸騰させないように、弱火でじっくりと。
とろみのついた汁が、白く濁り、ポコポコと優しい音を立てる。
台所中に広がるのは、甘く、ふくよかで、どこか神聖な香り。
発酵食品特有の、魂を包み込むような温かさだ。
(温まれ。悪いものは全部、この熱で溶かしてしまえ)
紬が祈りを込めると、鍋から立ち上る湯気が金色に輝き始めた。
それは換気扇を通って外へ……ではなく、部屋全体に広がり、冷気を押し返していく。
同時進行で、**『焼きおにぎり』**も作る。
炊きたてのご飯を固めに握る。
味噌、みりん、砂糖、そして刻んだ長ネギを混ぜた「ネギ味噌」を作る。
フライパンにクッキングシートを敷き、おにぎりを並べる。
両面をカリッと焼いたら、片面にネギ味噌をたっぷりと塗る。
ジュウゥゥ……!
味噌が焦げる匂い。
これは反則だ。日本人の遺伝子に、直接「空腹」を訴えかけてくる香りだ。
こたつで死にかけていた清水と琥太郎が、ゾンビのように起き上がった。
「……なんだ、この匂いは」
「酒……か? いや、味噌の焦げる匂いもするぞ……」
玄武も本を置き、鼻をひくつかせている。
「お待たせしました! 凍えた体にはこれが一番です!」
紬はお盆に人数分のお椀と皿を乗せ、こたつへ運んだ。
乳白色の酒粕汁。湯気の中に、鮭のピンクや人参の赤、ネギの緑が覗く。
そして、焦げ目が食欲をそそる焼きおにぎり。
「いただきます!」
清水が震える手で汁椀を持ち、口をつけた。
とろりとした液体が、唇を濡らし、喉を通り、胃袋へと落ちていく。
「……っ」
瞬間、カッと体の中から熱が生まれた。
酒粕のアルコール分(煮切ってはあるが風味は残る)と、根菜のエネルギー。それが血液に乗って、凍りついた末端の血管を一気に拡張させる。
「……熱い。いや、温かい」
清水が深い息を吐いた。白い呼気ではなく、生きた熱の息だ。
「五臓六腑に染み渡るとは、このことか。……神気が、戻ってくる」
「うめぇぇぇ! なんだこれ、ポカポカするぞ!」
琥太郎は焼きおにぎりを頬張り、酒粕汁で流し込んだ。
「味噌の焼けた香ばしさと、この汁のまろやかさが最高に合う! 甘酒みてぇだけど、おかずの味だ!」
玄武も、無言で椀を空にしていた。
彼は汁を飲み干すと、眼鏡の曇りを拭い、じっと紬を見た。
「……君は、計算してこれを?」
「え?」
「酒粕は『祓(はら)い』の力を持つ酒の残滓(ざんし)。それを根菜という『地』の力と合わせることで、弱った神格を補強する特効薬になっている。……ただの家庭料理に見えて、理にかなった呪術的調理だ」
玄武の分析に、紬はきょとんとして、それから笑った。
「そんな難しいことは考えてませんよ。ただ、みんなに元気になってほしくて」
元気になってほしい。
その言葉を聞いた瞬間、玄武の脳裏に、遠い記憶が蘇った。
――三百年前。
戦乱の世。飢饉と争いで荒れ果てた村。
そこで炊き出しをしていた、一人の巫女。
彼女は泥だらけになりながら、僅かな食材で汁物を作り、民に、そして傷ついたあやかしに振る舞っていた。
『難しく考えないで、玄武様。美味しいものを食べて、温まれば、明日はきっといい日になりますよ』
あの時の笑顔。
何の根拠もない、けれど不思議と信じたくなる、太陽のような明るさ。
(……ああ、そうか)
玄武は、目の前で微笑む紬と、記憶の中の巫女を重ね合わせた。
魂の形が同じだ。
彼女は生まれ変わってもなお、飯を作り、誰かを温めようとしている。
「……君は、変わらないな」
玄武がボソリと呟いた。
「え? 何か言いました?」
「いや。……おかわりだ。具を多めにしてくれ」
玄武が椀を差し出した。
その表情は、出会った時の冷徹な仮面が剥がれ、年相応の少年のように柔らかくなっていた。
「はい、喜んで!」
紬が鍋へ向かう背中を見つめながら、玄武は隣の清水に話しかけた。
「……青龍。訂正しよう」
「何をだ?」
「勝率の話だ。万に一つもないと言ったが……この料理番がいれば、千に一つくらいには上がるかもしれん」
清水はニヤリと笑い、焼きおにぎりを齧った。
「随分と低い見積もりだな。俺の中では、すでに十割だ」
「楽観的すぎる。……だが、悪くない賭けだ」
玄武は懐から、数枚の護符を取り出し、卓袱台に並べた。
そこには、複雑な術式が描かれている。
「食べた分は働くさ。……四凶の動きを予測する計算式だ。奴らの『本隊』がいつ、どこに来るか、ある程度絞り込める」
「ほう。引きこもっていた割には、準備がいいな」
「暇だったからな」
玄武が協力の姿勢を見せたことで、相談所の空気が変わった。
絶望的な防戦一方から、反撃への糸口が見え始めたのだ。
「奴らの狙いは、やはりバレンタインだ」
玄武が予言する。
「二月十四日。世の中が色めき立ち、気が緩むその日。……『愛』という感情を憎む奴らが、最大の攻勢を仕掛けてくる」
バレンタイン。
それは、紬が清水に「チョコ」を渡すと約束した日でもある。
「上等だ」
琥太郎が拳を鳴らす。
「チョコ食う前に、化け物どもを片付けるとすっか」
「ああ。……紬」
清水が紬を呼んだ。
その瞳は、揺るぎない信頼と、深い愛情に満ちていた。
「当日は忙しくなるぞ。……俺たちの命(い)、預けたからな」
それは「守ってやる」という言葉以上の、対等なパートナーとしての宣言だった。
紬は強く頷いた。
「はい! 任せてください!」
外の吹雪はまだ止まない。
けれど、相談所の中には、どんな寒さにも負けない熱い火が灯っていた。
酒粕汁の湯気の向こうで、決戦の日は刻一刻と近づいている。
(第21話 完)
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