第20話∶北の賢者・玄武は引きこもり?

 一月一日。元日。

 新しい一年の幕開けだというのに、古都宮(ことみや)紬(つむぎ)の視界は、真っ白な吹雪に覆われていた。

「さ、寒い……っ! ここ、本当に鎌倉ですか!?」

 紬は厚手のコートの襟を合わせ、ガタガタと震えながら叫んだ。

 場所は、鶴岡八幡宮の裏手に広がる山林地帯。

 表参道では今頃、初詣客たちが破魔矢(はまや)を片手に甘酒を飲んでいるはずだが、結界一つ隔てたこちらの世界は、極寒の雪山と化していた。

「文句を言うな。……奴の拒絶の意志が、そのまま冷気となって具現化しているのだ」

 先頭を行く清水(しみず)が、苛ただしげに吐き捨てた。

 彼は炎の防壁を展開し、雪を溶かしながら道を作っているが、その顔色は優れない。神無月(かんなづき)の影響で力が弱まっている上に、この異常気象だ。

「クソッ、鼻水が凍るぜ……! 猫は寒さに弱ぇんだよ!」

 白虎の琥太郎(こたろう)も、背中を丸めてガタガタ震えている。

 案内役の小さな亀――亀吉(かめきち)だけが、雪の上をスイスイと泳ぐように進んでいた。

『皆様、もうすぐです! あの岩陰の向こうが、主様の隠れ家への入り口でございます!』

 亀吉が示したのは、切り立った崖の下にある洞窟だった。

 入り口には何重もの氷柱(つらら)が垂れ下がり、まるで巨大な獣の牙のように侵入者を拒んでいる。

「……引きこもりにしては、随分と強固なセキュリティだな」

 清水が指を鳴らす。

 ボウッ!

 蒼い炎が氷柱を薙ぎ払い、道を開けた。

 三人と一匹は、暗い洞窟の中へと足を踏み入れた。

          ◇

 洞窟の奥は、意外にも広大な空間になっていた。

 だが、そこはただの岩屋ではなかった。

 壁一面に埋め込まれた水晶が、モニターのように明滅し、床には数え切れないほどの書物や巻物が塔のように積み上げられている。

 古びた和紙の匂いと、冷たい水の匂い。

 その本の山の中心に、黒い着物を着た少年が膝を抱えて座っていた。

 見た目は中学生くらいだろうか。

 黒曜石のような漆黒の髪。色素の薄い肌。そして、分厚い瓶底メガネをかけている。

 彼こそが、北の守護神――**『玄武(げんぶ)』**だ。

「……帰れ」

 こちらの姿を認めるなり、玄武は本から目を離さずにボソリと言った。

 その声は低く、そして深い絶望に満ちていた。

「僕は誰にも会いたくない。新年の挨拶なら不要だ。どうせ、祝うべき未来など来ないのだから」

「相変わらず陰気な野郎だな、玄武!」

 琥太郎が怒鳴る。

「てめぇ、職務放棄して引きこもってる場合かよ! 鎌倉中が凍っちまうぞ!」

「凍ればいい。どうせ滅びるなら、美しい氷像となって永遠に眠るのも悪くない」

 玄武はページをめくりながら、淡々と言い放った。

「僕は見たんだ。『予知』の夢で。……西から来る災厄が、この地を食い尽くす未来を。抵抗など無意味だ。確率論的にも、僕たちが勝てる可能性は万に一つもない」

「ふざけるな!」

 清水が詰め寄ろうとするが、玄武の周囲に見えない壁があり、弾き返された。

 絶対防御の結界だ。心を閉ざした彼に触れることは、物理的にも不可能なのだ。

「無駄だ、青龍。今の君の力では、この壁は破れない」

 玄武は冷めた目で清水を見上げた。

「君も、白虎も、もう終わりだ。……そこで大人しく、終わりの時を待てばいい」

 取り付く島もない。

 これが「賢者」と呼ばれる神の姿なのか。知識があるがゆえに絶望し、戦う前から諦めてしまっている。

(……でも)

 紬は一歩前に出た。

 リュックサックを下ろし、中からカセットコンロと鍋を取り出す。

「おい紬、何をする気だ?」

「料理です」

 紬はキッパリと言った。

「言葉が届かないなら、胃袋に届けるしかありません。……それに、あの子、すごく寒そうだし」

 玄武の指先は、本を持つ手が白く凍えているように見えた。

 神様だって、寒ければ心も塞ぎ込む。

 ならば、温めればいい。

「調理開始です!」

 紬は鍋に水と、予め家で茹でてきた**『小豆(あずき)』**を入れた。

 タッパーいっぱいに入った自家製の粒あんだ。

 北海道産の大粒小豆を、昨夜からコトコトと煮込んでおいたものだ。砂糖はザラメを使い、コクのある甘さに仕上げてある。

 水を加えてのばし、火にかける。

 次に、焼き網をセットする。

 乗せるのは、四角い切り餅だ。

 ボッ。

 コンロの火が灯ると、洞窟内の冷たい空気が、ふわりと緩んだ気がした。

「……何をしている?」

 玄武が怪訝そうに顔を上げた。

「お料理です。お腹、空いてませんか?」

「空腹などという生理現象は、思考のノイズになるだけだ」

「ふふっ。でも、いい匂いがしてきますよ?」

 小豆が煮立つ音。コトコト、コトコト。

 甘く、懐かしい香りが立ち上り始める。

 そして、網の上では餅が焼け始めた。

 表面が狐色になり、プク~ッと膨らんでいく。

 香ばしい穀物の焦げる匂い。

 これは日本人のDNAに刻まれた、冬の最強の誘惑だ。

 玄武の鼻が、ピクリと動いた。

 本のページをめくる手が止まる。

(よし、反応した!)

 紬は仕上げにかかった。

 お椀に、熱々の汁粉をたっぷりと注ぐ。

 その中央に、焼きたてのお餅を二つ。

 さらに、口直し用の**『塩昆布』**を小皿に添える。甘いものの合間に食べる塩気は、無限ループの入り口だ。

(温まれ。頑固な心も、氷の壁も、全部溶かして)

 祈りを込めると、湯気の中に金色の粒子が混じり、キラキラと輝きながら結界の方へと流れていく。

「お待たせしました。特製、**『焼き餅入り、極上おしるこ』**です!」

 紬はお盆を持ち、結界のギリギリまで近づいた。

 甘い湯気が、見えない壁をすり抜けていく。

 物理的な干渉は拒絶できても、匂いと「美味しそう」という概念までは防げないらしい。

「……無駄だ。そんな餌で、僕が……」

 玄武は顔を背けようとした。

 だが、彼の腹の虫が、洞窟内に響き渡るほどの音量で**「グゥゥゥ~ッ!」**と鳴った。

「「「……」」」」

「…………」

 沈黙。

 玄武の蒼白だった頬が、一瞬で茹でダコのように真っ赤になった。

「ぷっ、くくくっ! 思考のノイズだぁ? 腹ペコじゃねえか!」

 琥太郎が爆笑する。

「笑うな! ……これは、その、不可抗力で……!」

 動揺する玄武。その隙を、紬は見逃さなかった。

 心の乱れは、結界の乱れ。

「はい、どうぞ!」

 紬はスッと結界の中に手を差し入れ、お盆を玄武の膝元に置いた。

「毒なんて入ってません。ただの、温かいお汁粉です」

 目の前に置かれた椀。

 艶やかな小豆色。焦げ目のついた白い餅。

 立ち上る湯気が、玄武の眼鏡を白く曇らせた。

「……毒など、恐れていない」

 玄武は震える手で眼鏡を外し、匙(さじ)を手に取った。

 誘惑には勝てなかったようだ。

 まずは汁を一口。

 ズズッ……。

「……ッ」

 玄武の肩がビクリと跳ねた。

 甘い。

 脳髄が痺れるような、強烈な糖分。

 だが、決してくどくはない。小豆の風味がしっかりと感じられ、ザラメのコクが冷え切った内臓に染み渡っていく。

 何より、温かい。

 凍りついていた思考回路が、熱を持って再起動していく感覚。

 次は餅だ。

 箸で持ち上げると、とろりと伸びる。

 ハフハフと言いながら口に入れると、香ばしさと粘り気が口いっぱいに広がる。

「……あつい。……うまい」

 玄武がポツリと呟いた。

 その瞳から、絶望の色が薄れ、子供のような純粋な色が戻ってくる。

 塩昆布をつまむ。塩気が甘さをリセットし、また次の一口を欲させる。

 止まらない。

 彼は夢中で匙を動かし、あっという間に完食してしまった。

「……はぁ」

 深いため息と共に、玄武の体から白い冷気が抜けていく。

 同時に、洞窟の入り口を塞いでいた氷柱が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

 絶対防御の結界が、解けたのだ。

「……解けた」

 清水が安堵の息を吐く。

「やはり、紬の飯は最強の武装解除だな」

 玄武は空になった椀を見つめ、静かに言った。

「……不思議だ。たかが糖分と炭水化物。それなのに、なぜこんなに……満たされる」

「それは、紬の祈りがこもっているからさ」

 清水が玄武の前に歩み寄った。

「玄武。お前が絶望する気持ちもわかる。だが、未来というのは、まだ確定していない白紙のようなものだ」

「……確定していない?」

「ああ。俺たちは三百年ぶりの『変数』を手に入れた。……この料理番だ」

 清水が紬の肩を抱く。

 玄武はゆっくりと顔を上げ、瓶底メガネの奥の瞳で紬を凝視した。

 じろじろと、値踏みするように。

「……君か。僕の結界をすり抜けたのは」

「すり抜けたっていうか……おしるこが通り抜けただけですけど」

「同じことだ。……君からは、懐かしい気配がする」

 玄武は立ち上がり、積み上げられた本の中から一冊の古い巻物を取り出した。

 それを広げると、そこには不気味な絵が描かれていた。

 翼を持った虎のような獣。人の顔をした羊のような獣。

 禍々しい四体の怪物。

「……教えてやろう。僕が見た絶望の正体を」

 玄武の声色が、学者のものに変わった。

「西から迫っているのは、ただの呪いではない。四神と対を成す、伝説の四つの災厄――**『四凶(しきょう)』**だ」

「四凶……!」

 琥太郎が息を呑む。

「やっぱりか。俺を襲ったのは、その一匹、**『窮奇(きゅうき)』**の眷属だったのか」

「そうだ。奴らは神々の『信仰』が薄れた現代を好機と見て、復活した。目的は、この国を守る霊的結界の破壊。そして、我々四神を喰らい、新たな支配者となることだ」

 玄武は暗い目で地図を指差した。

「すでに西の結界は破られた。次は、この鎌倉だ。……奴らの先兵は、もう街に入り込んでいる」

 ゾクリ。

 紬の背筋に悪寒が走った。

 あのクリスマスの夜から感じる不穏な気配。それは、すでに日常のすぐそばまで来ていたのだ。

「勝てるわけがない」

 玄武は首を振った。

「奴らは『悪意』そのものだ。善意や祈りで動く我々とは、根本的に相性が悪い。戦えば、確実に負ける」

「それでも、戦わねばならん」

 清水がきっぱりと言った。

「俺には守るべきものがある。……それに、美味い飯が食えなくなるのは御免だ」

「……君は、まだそんなことを」

 玄武は呆れたように見たが、その視線はチラリと空のお椀に向けられた。

 あの甘さと温かさ。

 それを失うことへの恐怖が、彼の心に小さな波紋を広げていた。

「……わかった。協力は約束できないが、ここに滞在することは許可する」

 玄武はツンと顔を背けた。

「ただし、条件がある」

「条件?」

「……おかわりだ。餅は三つ入れてくれ。あと、ここの蔵書を整理するのを手伝え」

 紬は目を丸くし、それから吹き出した。

「ふふっ、わかりました! お餅、いっぱい焼きますね!」

 こうして、北の賢者・玄武との交渉は(胃袋に訴えることで)一応の成功を見た。

 だが、彼がもたらした情報は、あまりにも重い。

 四凶。

 神々を喰らう災厄。

 最強の敵を前に、鎌倉のあやかし相談所は、かつてない試練の冬を迎えようとしていた。

 外に出ると、いつの間にか雪は止んでいた。

 雲の切れ間から差す初日の出が、銀世界を眩しく照らし出している。

 美しくも厳しい、戦いの年明けだった。



(第20話 完)

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