第3章 冬景色
第17話∶冬の海と、脂の乗った寒ブリ大根
十二月。師走(しわす)。
鎌倉の冬は、透明なガラス細工のように静かで、美しい。
湿気の多い夏とは打って変わり、この時期の海はどこまでも澄み渡る。由比ヶ浜の波打ち際に立てば、相模湾の彼方に、雪化粧をした富士山がくっきりと浮かび上がって見えるほどだ。
キィーン、と張り詰めた冷たい海風が、頬を刺す。
古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は、マフラーに顔を埋めながら、スーパーの袋を提げて路地裏を歩いていた。
「……寒い。今年の冬は、一段と寒くない?」
吐く息が真っ白だ。
足早に『萬(よろず)相談所』の暖簾(のれん)をくぐる。
「ただいま戻りましたー……って」
引き戸を開けた瞬間、紬は脱力した。
店の中央、茶の間の卓袱台(ちゃぶだい)が片付けられ、そこには冬の文明の利器――こたつが鎮座している。
そして、その四辺のうち二辺から、ぐったりとした二人の男が上半身だけ出して伸びていた。
「……寒い。無理だ。我は冬眠する」
「ううぅ……さみぃ……猫はこたつで丸くなるんだよ……」
銀髪の美青年・清水(しみず)と、金髪のヤンキー神様・琥太郎(こたろう)だ。
清水は龍(爬虫類)、琥太郎は虎(ネコ科)。
種族的に寒さが苦手な二柱(ふたはしら)の神は、こたつの魔力に完全敗北し、ダメ人間ならぬダメ神様と化していた。
「ちょっと、シャキッとしてくださいよ! 暖房も入れてるじゃないですか」
「エアコンの風は乾燥するから嫌いだ。……紬、こたつの設定を『強』にしろ」
「自分でやってください! 手、届くでしょう?」
「布団から手を出すと凍死する」
大袈裟だ。これがあの最強の龍神と白虎だとは、誰も信じないだろう。
紬は呆れつつも、冷蔵庫へ向かった。
「まったく……。そんな寒がりな神様たちのために、今日はとびきり温まるもの買ってきましたからね」
「……何だ? 鍋か?」
「ううん。冬のご馳走と言えば、これ!」
紬が袋から取り出したのは、丸々と太った魚の切り身と、土のついた立派な大根。
冬の味覚の王様――**『寒ブリ』**だ。
日本海の荒波に揉まれ、たっぷりと脂を蓄えたその身は、ピンク色に輝いている。
「今日は**『寒ブリ大根』**にします。飴色に染み込んだ熱々の大根、食べたくないですか?」
その言葉に、こたつムムリ(かたつむり)状態だった二人が、のそりと顔を上げた。
清水の金色の瞳が、キラリと光る。
「……ほう。ブリか。悪くない」
「へへっ、脂の乗った魚か! 悪くねぇな!」
現金なものだ。
紬はエプロンを締め、気合を入れて調理に取り掛かった。
◇
ブリ大根は、下処理が命だ。
ここを怠ると、せっかくの脂が生臭さに変わってしまう。
まずは大根。
皮を厚めに剥き、三センチほどの厚さの輪切りにする。さらに面取りをして、煮崩れを防ぐ。隠し包丁を十文字に入れれば、味が染み込みやすくなる。
これを米のとぎ汁で下茹でする。
大根の辛味やエグみが抜け、甘みが引き出される魔法の工程だ。
次にブリ。
切り身に薄く塩を振り、十分ほど置く。表面に浮いてきた水分(臭みの元)をキッチンペーパーで丁寧に拭き取る。
そして、ここが一番のポイント。
**『霜降り』**だ。
ザルに並べたブリに、熱湯を回しかける。
表面が白く変わった瞬間に、すぐに冷水に落とす。
指で優しく撫で洗いし、残った鱗や血合いを取り除く。
冷たい水に指先がかじかむが、紬は手を休めない。このひと手間が、清水の繊細な舌を満足させる鍵になるからだ。
「よし、ピカピカ!」
下処理を終えたブリは、まるで宝石のように輝いている。
鍋に水、酒、砂糖、みりん、醤油。そして臭み消しの生姜の薄切りをたっぷりと。
煮立ったら、まずは下茹でした大根を入れる。
味が染みてきたら、主役のブリを投入。
コトコト、コトコト……。
落とし蓋をして、中火で煮込む。
醤油と生姜の甘辛い香りが、湯気と共に台所から溢れ出し、冷え切った古民家を満たしていく。
それは、日本人のDNAに刻まれた「冬の幸せ」の香りだ。
(美味しくなあれ。二人の体を、芯から温めて)
紬が鍋の前で祈りを込めると、いつものように指先から光の粒子がこぼれ落ちた。
琥珀色の煮汁が、キラキラと輝きを増す。
最近、この光の量が増えている気がする。神様たちとの絆が深まるにつれ、紬の霊力も呼応して強くなっているのかもしれない。
煮汁がとろりと煮詰まり、大根が美しい飴色に染まったら完成だ。
一度火を止めて冷まし、味を含ませる。食べる直前にもう一度温めるのが、一番美味しい食べ方だ。
「お待たせしました! 熱々のブリ大根ですよー!」
深めの鉢に山盛りにされた料理が運ばれてくると、こたつの住人たちが一斉に起き上がった。
湯気の中に鎮座する、分厚い大根と、脂の乗ったブリ。
煮汁の照りが、照明を反射して艶めいている。
千切りにした柚子の皮を天盛りにすれば、爽やかな香りがアクセントになる。
「いただきます!」
三人はこたつを囲み、箸を伸ばした。
まずは清水が、大根に箸を入れる。
スッ……。
何の抵抗もなく箸が通り、中からジュワッと煮汁が溢れ出した。
「……熱っ」
ハフハフと白い息を吐きながら、清水が大根を口に含む。
瞬間、彼の目が細められた。
「……染みている」
噛む必要すらないほど柔らかい大根。
そこから溢れ出すのは、ブリの濃厚な旨味と、甘辛い醤油の味。それらが渾然一体となって、口の中いっぱいに広がる。
柚子の香りが鼻に抜け、後味は驚くほど上品だ。
「美味い。……冷えた体に、熱が染み渡るようだ」
「でしょう? 明日はもっと味が染みて美味しいですよ」
「俺はブリをもらうぜ!」
琥太郎は大きな切り身にかぶりついた。
ホロリと崩れる身。とろけるような脂。
「うっひょー! さすが冬のブリだ、脂のノリがちげぇ! 白飯だ! 白飯を持ってこい!」
「はいはい、おひつにいっぱいありますからね」
ほかほかの炊きたてご飯に、タレの染みたブリを乗せてかっこむ。
これ以上の贅沢があるだろうか。
こたつの温もりと、料理の熱。
外では木枯らしが吹いているが、この部屋の中だけは、春のような暖かさに包まれていた。
「……ふぅ。生き返った」
完食した清水が、満足げにお茶を啜った。
その顔色は良く、肌艶もいい。美味しいものを食べて力が戻ったようだ。
彼はふと、窓の外に視線をやった。
ガラス戸の向こう、庭の木々が風に揺れている。
「紬。……外を見てみろ」
「え?」
言われて窓の外を見る。
暗い庭。だが、何かが違う。
月明かりに照らされて、白いものがチラチラと舞っているのだ。
「雪……? まだ十二月に入ったばかりなのに」
鎌倉で、この時期に雪が降るのは珍しい。
けれど、それはただの雪ではなかった。
窓を開けると、冷気と共に、ピリリとした静電気が肌を撫でた。
「普通の雪じゃねぇな」
琥太郎が鋭い目つきで立ち上がった。「猫はこたつで~」と言っていた先ほどの腑抜けた様子はない。
「方角は北か。……北鎌倉の山の方から、妙な冷気が流れてきやがる」
「ああ。結界の綻(ほころ)びだ」
清水も立ち上がり、夜空を睨んだ。
その視線の先、北の方角にある山々が、不自然なほど分厚い雲に覆われている。
「北には、鎌倉の守護結界の要(かなめ)がある。……そして、そこを守るはずの『玄武(げんぶ)』が、沈黙している」
「玄武……。四神の最後の一人ですね」
青龍、白虎ときて、次は玄武。北を守る水の神。
亀と蛇が合体した姿で描かれる、知恵と予言の賢者だ。
「あいつは引きこもりの陰気な野郎だが、職務放棄するようなタマじゃねぇはずだぞ」
「だからこそ、妙なのだ。……この季節外れの雪は、ただの天候不順ではない。あいつの『拒絶』が漏れ出しているのかもしれん」
清水が窓を閉めた。
室内に、一瞬だけ重苦しい空気が流れる。
けれど、すぐに彼はいつもの不敵な笑みを浮かべ、紬を振り返った。
「まあ、案ずるな。雪が積もれば、雪見酒ができる」
「また呑気な……。でも、何かあったら言ってくださいね。私、お弁当持って駆けつけますから」
「フッ、頼もしいな」
清水は紬の頭をポンと撫でた。
その手はもう冷たくない。ブリ大根の熱と、紬との絆で温まっている。
「だが、まずは目の前の問題だ」
「問題?」
「デザートだ。しょっぱいものの後は、甘いものが食いたくなるだろう?」
「俺様はアイスがいいぜ! こたつで食うアイスは最強だからな!」
「あ、いいですねそれ! 買ってきます!」
不穏な気配は、ひとまずお預け。
今はまだ、この温かいこたつの中で、甘い時間を過ごしていたい。
紬は財布を持って立ち上がった。
鎌倉の冬はまだ始まったばかり。
北の山に降る雪が、やがて街全体を凍てつかせる試練の前触れだとは、まだ誰も気づいていなかった。
(第17話 完)
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