第2章∶秋景色

第9話∶秋刀魚(サンマ)の塩焼きと、不機嫌な転校生

 九月、長月(ながつき)。

 海からの風が、べっとりとした湿気を孕んだ熱風から、どこか乾いた涼やかなものへと変わり始めていた。

 空が高い。

 由比ヶ浜の上空には、夏の名残の入道雲と、秋を告げるうろこ雲が混在し、季節の境界線を描いている。

 鎌倉の路地裏にひっそりと佇む『萬(よろず)相談所』の庭でも、主役交代が行われていた。

 やかましかった蝉の声はいつの間にか鳴りを潜め、代わりに草むらからリリリ、チンチロリンと、秋の虫たちの合奏が聞こえてくる。

「……飽きた」

 縁側で寝転がっていた清水龍(しみず りょう)が、気怠げに呟いた。

 相変わらずの美貌だ。銀色の髪が秋の日差しを受けてキラキラと輝き、着崩した単衣(ひとえ)の着物から覗く鎖骨が悩ましい。

 だが、その中身はただの駄々っ子である。

「そうめんは飽きた。冷や麦も飽きた。冷やし中華も、アイスも、水ようかんも飽きた」

「贅沢言わないでください。まだ日中は暑いじゃないですか」

 古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は、庭に干してあった洗濯物を取り込みながら呆れ声で返した。

 あの大百足(おおむかで)との死闘から一ヶ月。

 鎌倉には平和な日常が戻っていた。

 紬と清水の間には、「飼い主とペット」のような、あるいは「熟年夫婦」のような、言葉にしなくても通じ合う奇妙な信頼関係が築かれている。

 黒髪には、あの**『青い玉の簪(かんざし)』**が挿さっている。それはもう、紬の一部のように馴染んでいた。

「じゃあ、何が食べたいんですか?」

「秋だ」

「は?」

「俺は今、猛烈に『秋』を食いたい気分なんだ。脂が乗って、香ばしくて、大根おろしとカボスが恋しくなるような……あの細長い銀色のヤツだ」

 神様のオーダーは具体的だった。

 紬はパタンと洗濯物を畳み、苦笑した。

「秋刀魚(サンマ)ですね」

「それだ。目黒……じゃなかった、三陸沖で獲れた極上のやつがいい」

「注文が多いなぁ。でも、ちょうど私も食べたいと思ってたんです」

 食欲の秋。それは、腹ペコ龍神と専属料理番にとって、一年で最も心が躍る季節の到来だった。

          ◇

 夕方。

 紬は近所の魚屋で、ピカピカに光る新秋刀魚を二尾、手に入れてきた。

 目が澄んでいて、背中が盛り上がるほど太く、口先が黄色い。鮮度抜群の証拠だ。

「よし、今日は庭で焼きましょう」

 台所から持ち出したのは、珪藻土(けいそうど)で作られた古い**『七輪(しちりん)』**だ。

 ガスコンロやグリルも便利だが、秋刀魚を焼くなら炭火に限る。遠赤外線でじっくり焼くことで、皮はパリッと、身はふっくらと仕上がるのだ。

 庭の縁側に七輪を据え、炭をおこす。

 パチッ、パチッ。炭が爆ぜる音が心地よい。

 紬は秋刀魚を水洗いし、キッチンペーパーで水気を丁寧に拭き取った。

 そして、高い位置から塩を振る「振り塩」。

 これを焼く三十分前にしておくことで、余分な水分と臭みが抜け、旨味が凝縮される。

「内臓(ワタ)は取るか?」

「まさか。清水さん、苦いの好きでしょう? 新鮮だからワタごと焼きますよ」

「ふん、わかっているじゃないか」

 網が十分に熱くなったのを確認して、秋刀魚を乗せる。

 ジュウウッ……!

 皮が焼ける音と共に、白い煙が立ち上った。

 瞬く間に、脂の焦げる香ばしい匂いが庭いっぱいに広がる。

 これだ。この匂いだけで、ご飯が三杯はいける。

「……たまらん」

 清水が膝を抱えて七輪を凝視している。その金色の瞳は、獲物を狙う猫のように輝いている。

 うちわでパタパタと仰ぎ、火力を調整する。

 秋刀魚の表面から脂が滴り落ち、炭に当たってジュワッと煙を上げる。その煙がまた魚を燻(いぶ)し、炭火焼き特有の風味が加わっていく。

 皮がこんがりと狐色になり、身がふっくらと膨らんでくる。

「焼けましたよ」

 熱々の秋刀魚を長皿に移す。

 添えるのは、たっぷりの大根おろしと、徳島産のカボス。

 炊きたての新米と、豆腐とワカメの味噌汁も用意した。

 完璧な「日本の秋の食卓」だ。

「いただきます」

 清水は待ちきれない様子で箸を伸ばした。

 箸先を入れると、パリッという音と共に皮が割れ、中から湯気と共に脂の乗った身が現れる。

 まずは何もつけずに一口。

 ハフッ、ハフッ。

「……ん!」

 清水が天を仰いだ。

「うまい。……脂の甘みと、皮の焦げた苦味が絶妙だ。炭火の香りが鼻から抜けていく」

 次は、大根おろしに醤油を少し垂らし、身と一緒に。

 サッパリとした辛味が、濃厚な脂を中和し、いくらでも食べられそうだ。

 そして、お楽しみのワタ。

 カボスをギュッと絞り、黒い塊を口に運ぶ。

「……くぅ、これだ。このほろ苦さが、神核(しんかく)に染みる」

 清水の体から、ポゥッと淡い光が溢れ出した。美味しいものを食べて霊力が回復している合図だ。

 紬も自分の分の秋刀魚を頬張る。

 美味しい。単純に、生きる力が湧いてくる味だ。

(幸せだなぁ……)

 一ヶ月前、命がけで戦っていたのが嘘のようだ。

 でも、あの戦いがあったからこそ、今のこの穏やかな食事がある。

 紬は箸を動かしながら、ふと清水を見た。彼は本当に綺麗に魚を食べる。頭と中骨しか残っていない。

「紬。……なんだ、ニヤニヤして」

「ふふ、なんでもないです。また来年も、こうして秋刀魚を焼けたらいいなって」

 何気なく言った言葉に、清水の手が止まった。

 彼は少しだけ目を見開き、それから不器用に視線を逸らして、ボソリと言った。

「……当たり前だ。お前は一生、俺の料理番なんだからな」

 その耳がほんのり赤いのを見て、紬はくすりと笑った。

 ああ、平和だ。

 ずっとこんな日が続けばいい。

 ――そう、思っていたのに。

          ◇

 翌日。

 紬が通う鎌倉市内の高校は、来月に控えた文化祭の準備で浮き足立っていた。

 教室の窓からは、まだ少し暑さが残る校庭が見下ろせる。

「ねえ、聞いた? 今日、転校生が来るんだって」

「えー、この時期に? どんな子だろ」

 クラスメイトの噂話が耳に入る。

 二学期の途中での転校生なんて珍しい。事情があるのだろうか。

 ホームルームのチャイムが鳴り、担任教師が入ってきた。その後ろに、一人の男子生徒が続いている。

 教室の空気が、一瞬で変わった。

「……西園寺(さいおんじ)だ。よろしく」

 黒板の前に立ったのは、圧倒的な存在感を放つ少年だった。

 制服をラフに着崩し、耳には銀のピアス。

 そして何より目を引くのは、色素の薄い金髪と、虎のように鋭い琥珀色の瞳だ。

 身長は清水と同じくらい高いが、清水が柳のような優美さだとしたら、彼は鋼のような野性味を帯びている。

 女子たちが「かっこいい……」「やばい、王子様系?」と色めき立つ中、紬だけは別の意味で戦慄していた。

(……あやかし?)

 いや、違う。この圧力は、ただのあやかしじゃない。

 清水と同じ、もっと上位の――「神」に近い気配。

 西園寺と呼ばれた転校生は、教師の指示も待たずに教室内を値踏みするように見回し、そして――紬の席でピタリと視線を止めた。

 ドクン。

 心臓が跳ねた。

 彼はニヤリと、獰猛な笑みを浮かべ、一直線に紬の元へと歩いてきた。

「おい」

「……は、はい」

「お前、いい匂いがするな」

 彼は紬の首筋に顔を近づけ、フンフンと鼻を鳴らした。

 教室中が「ええーっ!?」とどよめく。

 紬は真っ赤になってのけぞった。

「な、何するんですか!」

「シャンプーとかじゃねえ。……もっとこう、美味そうな、力が湧いてくるような匂いだ」

 彼は琥珀色の瞳を細め、舌なめずりをした。

 その仕草は人間離れしていて、背筋が凍るような色気があった。

「それに……微かに、気に食わない『トカゲ』の臭いも混じってやがる」

「トカゲ……?」

「まあいい。俺の席はここだ」

 彼は紬の隣の空席にカバンを放り投げ、ドカッと座り込んだ。

 授業中も、彼の視線はずっと紬に(正確には紬から漂う霊力の匂いに)釘付けだった。

 平和な日常が、音を立てて崩れていく予感がした。

          ◇

 放課後。

 紬は逃げるように学校を出て、小町通りの路地裏へと急いだ。

 背後に気配がある。

 振り返らなくてもわかる。あの転校生がついてきているのだ。

 あやかし相談所に逃げ込めば、清水がいる。彼ならなんとかしてくれるはずだ。

 息を切らして相談所の暖簾をくぐる。

「清水さん!」

「ん? どうした、そんなに慌てて。……む」

 帳場でくつろいでいた清水が、眉をひそめて立ち上がった。

 その金色の瞳が、紬の背後――入り口の方角を鋭く射抜く。

「……なるほど。嫌な臭いがすると思ったら、客連れか」

 振り返ると、入り口に西園寺が立っていた。

 彼は古民家の結界などものともせず、土足で上がり框に足をかけた。

「よお。こんな湿気たボロ屋に住んでるとはな、落ちぶれたもんだ」

 西園寺はポケットに手を突っ込み、挑発的に笑った。

 清水の全身から、青白い火花のような神気がバチバチと迸(ほとばし)る。室内の温度が一気に下がった。

「誰かと思えば……。西の山奥で猫じゃらしと戯れているはずの野良猫が、なぜ俺の庭(シマ)にいる?」

「ああん? 猫じゃねえ。**『白虎(びゃっこ)』**様だ、このミミズ野郎」

 白虎。

 その名を聞いて、紬は息を呑んだ。

 青龍と同じ、四神の一角。西を守護する聖獣。

 それが、なぜ鎌倉に?

「俺は腹が減ってんだよ。そこらの不味いあやかしじゃ満足できねえ」

 西園寺――白虎は、ギラついた目で紬を指差した。

「その女、極上の『餌』の匂いがプンプンしやがる。……なぁ青龍、俺によこせよ。お前にはもったいねえ」

「断る」

 清水が即答し、紬の前に立ちはだかった。

 その背中から、怒りのオーラが揺らめいている。

「紬は餌ではない。俺の料理番だ。……貴様ごとき泥棒猫に、指一本触れさせるわけにはいかん」

「ハッ、言うようになったな。一ヶ月前まで死にかけてたくせによ」

 白虎の全身からも、黄金色の稲妻のような気が立ち昇る。

 龍と虎。

 相反する二つの強大な力が、狭い土間で衝突し、空間が歪む。

 骨董品がガタガタと震え、窓ガラスにヒビが入る。

(え、ええっ!? 何これ、どうなっちゃうの!?)

 昨日の平和な秋刀魚パーティーが嘘のようだ。

 食欲の秋、到来。

 どうやら今年の秋は、美味しいだけでは済みそうにない。


(第9話 完)

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