第10話∶白虎の襲来と、ガッツリ豚の角煮
九月の夕暮れ。
鎌倉の空は、茜色と群青色が溶け合うマジックアワーに包まれていた。
路地裏に佇む『萬(よろず)相談所』の古びた看板が、ギィ……と風に揺れる。
だが、店内の空気は、外の穏やかな秋の気配とは裏腹に、張り詰めた緊張感で満ちていた。
「よお、落ちぶれたミミズ野郎。こんなカビ臭い小屋で、人間の小娘に餌付けされてるとはな」
土間に仁王立ちしているのは、先ほど学校で紬(つむぎ)のクラスに転校してきた不良少年――西園寺(さいおんじ)琥太郎(こたろう)だ。
派手な金髪に、耳には銀のピアス。着崩した学ランの下には、鍛え上げられた筋肉が覗いている。
その双眸は、猛獣のように鋭く、爛々とした金色に輝いていた。
「……誰かと思えば。西の『駄猫(だびょう)』か」
帳場(ちょうば)で文庫本を読んでいた清水(しみず)が、顔も上げずに冷たく言い放つ。
パタン、と本を閉じる音だけが、静寂を裂いた。
清水がゆっくりと立ち上がる。その全身から、ビリビリと肌を刺すような青い神気が立ち上る。
「おい、琥太郎と言ったな。不法侵入だぞ、出て行け」
「あぁ? 客に向かって冷たいじゃねえか、青龍」
琥太郎がニヤリと笑うと、彼の背後に巨大な獣の影が揺らめいた。
白い毛並みに黒い縞模様。鋭い牙と爪を持つ、伝説の霊獣――**『白虎(びゃっこ)』**だ。
(やっぱり、この子も神様……!?)
古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は、エプロンの端を握りしめて息を呑んだ。
青龍が東の守護神なら、白虎は西を守る神。
本来なら並び立つはずの二柱(ふたはしら)だが、どう見ても仲が良いようには見えない。水と油、いや、龍と虎。相性は最悪だ。
「俺はてめぇに用はねえよ、青龍。用があるのは――そっちの女だ」
琥太郎の視線が、紬を射抜いた。
獲物を見定めた肉食獣の目だ。
一瞬で距離を詰められ、紬の腕がガシリと掴まれた。
「ひゃっ!?」
「おい、紬。お前、俺の女になれ」
「……はい?」
「俺の専属料理番になれっつってんだよ。てめぇの料理からは、とびきり美味そうな匂いがプンプンしてやがる」
琥太郎は鼻をひくつかせ、紬の首筋に顔を近づけた。
獣の匂いと、微かな香水の香り。心臓が早鐘を打つ。
「てめぇ、このミミズに随分と霊力を吸われてるな? 奴は今、お前に依存しすぎて弱体化してる。そんないつ消えるか分からねえ神より、俺の方がイイ思いさせてやるぜ? 西に来れば、最高級の食材も、宝石も、望むままに用意してやる」
甘い誘惑と、強引な手つき。
だが、次の瞬間。
ゴッ!!
空間が歪むほどの水圧弾が、琥太郎の顔面スレスレを通過し、背後の壁に大穴を開けた。
「……その汚い手を離せ、駄猫」
清水の瞳が、爬虫類のように縦に割れている。
室温が一気に氷点下まで下がったかのような冷気。彼が本気で激怒している証拠だ。
「俺の料理番に触れるな。……殺すぞ」
「へぇ、やんのか? ナマクラになった爪で、この俺に勝てると思ってんのかよ!」
バチバチと火花が散る。
一触即発。このままでは相談所が物理的に崩壊してしまう。
紬は震える足を叱咤し、二人の間に割って入った。
「や、やめてください!!」
「退いてろ紬!」
「うるせぇ、すっこんでろ!」
「うるさいのはどっちですか! お腹が空いてるなら、ご飯を作りますから! 喧嘩するなら外でやってください!」
紬の怒声に、二柱の神が「えっ」と動きを止めた。
神様相手に啖呵を切るなんて、自分でも信じられない。でも、このまま店を壊されるのは御免だ。
「琥太郎君、君もお腹空いてるんでしょ? さっき『美味そうな匂い』って言ったもの」
「お、おう。……腹は減ってる。肉だ、肉を食わせろ。ガッツリしたやつをな」
「チッ。相変わらず品のない舌だ」
「あんだと!?」
「はいはい、ストップ! 清水さんも、文句言わないで食べる!」
紬は二人を強制的に座布団に座らせると、憤然と台所へ向かった。
冷蔵庫を開ける。
あるのは、特売で買っておいた豚バラ肉のブロックが二本。
肉食獣の白虎を満足させ、かつ、脂っこいものを嫌う清水にも食べさせる料理。
(これしかない。手間はかかるけど、最強の肉料理!)
紬は気合を入れてエプロンの紐を締め直した。
今夜の献立は、**『とろとろ豚の角煮と、半熟煮玉子』**だ。
まずは下拵え。
豚バラ肉を大きめの角切りにする。ケチらず、ゴロリとした塊のまま。
フライパンで表面全体を焼き付け、余分な脂を出し切る。これが清水にも食べさせるための重要な工程だ。
焼き目がついた肉を鍋に移し、米のとぎ汁とたっぷりの水、そして臭み消しの長ネギの青い部分、生姜の薄切りを加えて火にかける。
コトコト、コトコト。
時間をかけて下茹ですることで、肉の繊維がほどけ、箸で切れるほどの柔らかさになる。
茹で上がった肉をぬるま湯で丁寧に洗い、白く固まった脂を完全に取り除く。
このひと手間が、「こってり」を「まろやか」に変える魔法だ。
綺麗になった肉を再び鍋へ。
水、酒、砂糖、醤油。
そして、隠し味に炭酸水を少し。これで肉がさらに柔らかくなる。
落とし蓋をして、じっくりと煮込む。
(美味しくなあれ。喧嘩がおさまるくらい、とろとろになあれ)
紬が祈りを込めると、指先から光の粒子がこぼれ落ち、煮汁に吸い込まれていく。
甘辛い醤油の香りが、湯気と共に店内に広がり始めた。
それは暴力的とも言えるほど食欲をそそる、悪魔的な香りだ。
居間で睨み合っていた二人が、同時に鼻をひくつかせた。
「……なんだ、この匂いは」
「へへっ、いい匂いじゃねえか。さすが俺が見込んだ女だ」
仕上げに、茹でておいた半熟卵を鍋に投入し、味を染み込ませる。
煮汁が飴色に輝き、肉がプルプルと震えるまで煮詰めれば、完成だ。
青菜の塩茹でを添えて、彩りも完璧に。
「お待たせしました! 『豚の角煮定食』です!」
紬がお盆を運んでくると、二人の視線が皿に釘付けになった。
飴色の照りを纏った巨大な豚肉。
箸で割られた煮玉子からは、黄金色の黄身がとろりと溢れ出している。
「ほう……。見た目は悪くないな」
「いただきだッ!」
琥太郎は「いただきます」も言わずに肉にかぶりついた。
ハフッ、ジュワッ。
「――ッ!?」
琥太郎の目がカッと見開かれた。
噛む必要すらない。口に入れた瞬間、脂身が甘くとろけ、赤身がほろりと崩れる。
濃厚な醤油のコクと、豚肉の旨味の爆弾。
「うめぇ……! なんだこれ、マジでうめぇぞ!」
琥太郎の背後に、巨大な白虎の幻影が現れ、嬉しそうに尻尾を振った。
彼は白飯をかっこみ、煮玉子を放り込む。黄身のまろやかさが、濃いめのタレと絡み合い、脳髄を痺れさせるほどの幸福感を生む。
一方、清水は眉を寄せながら、箸先で肉を小さく切り分けた。
「俺は脂っぽいのは好かんのだが……」
「脂抜きしてありますから、しつこくないはずです。食べてみてください」
清水は恐る恐る肉を口に運んだ。
「……ん」
彼の金色の瞳が、驚きに揺れた。
確かに、見た目の濃厚さに反して、脂の重さがない。あるのはコラーゲンのような滑らかさと、深みのある出汁の味わいだ。
生姜の香りが鼻に抜け、後味は驚くほど上品。
これは「肉」という野蛮な食材を、手間暇かけて「懐石」の域まで高めた料理だ。
「……悪くない。いや、美味い」
「でしょう?」
清水の箸が進む。
あれほど仲の悪かった二人が、今は無言で角煮に向き合い、白飯をおかわりしている。
食欲の前では、神様も不良も形無しだ。
紬はその光景を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
完食。
皿に残ったタレさえも、琥太郎は白飯にかけて綺麗に平らげた。
「ふぅ……食った食った。まさか鎌倉でこんな極上のモンが食えるとはな」
琥太郎は爪楊枝をくわえ、満足げに腹をさすった。その表情からは、先ほどまでの殺気は消えている。
だが、彼の瞳から「狙い」が消えたわけではなかった。
「おい、紬」
「はい?」
「今の飯で確信したぜ。お前、やっぱり俺の女になれ」
琥太郎はニカッと笑い、紬の手を握ろうとした。
しかし、その手は空を切った。
紬の体が、後ろから強く引かれたからだ。
「……帰れ」
清水が背後から紬を抱き寄せるようにして、琥太郎を睨みつけていた。
その腕には、痛いほど力が込められている。
「飯は食わせた。これ以上、俺の敷居を跨ぐな」
「けっ。心が狭い龍だな」
琥太郎は立ち上がり、学ランを肩に羽織った。
彼は帰り際、紬に向かってウィンクを投げた。
「今日は帰ってやるよ。だが、諦めたわけじゃねえからな。……それに、西の空が騒がしい。近いうちに、お前も俺を頼ることになるぜ」
意味深な言葉を残し、琥太郎は夜の闇へと消えていった。
静寂が戻った店内。
清水はまだ、紬の肩を抱いたままだった。
背中から伝わる彼の心音が、少しだけ速い気がする。
「……清水さん?」
「……あいつは、白虎だ」
清水がポツリと言った。
「西方を守護する神獣。粗暴で、肉しか食わない単純な奴だが……力だけはある」
「そうなんですか」
「俺より、あっちの方がいいか?」
不意に問われ、紬は目を丸くした。
振り返ると、清水が子供のように不安げな瞳でこちらを見下ろしていた。
いつも尊大で、俺様で、自信満々な彼が。
「弱体化している」と琥太郎に言われたことを、気にしているのだろうか。
「まさか。私は清水さんの専属料理番ですよ」
紬は笑って、彼の腕に手を添えた。
「それに、琥太郎君は肉料理ばっかりリクエストしそうですし。私は清水さんと食べる、お魚とかお野菜の料理の方が好きですから」
「……そうか」
清水の表情がふわりと緩んだ。
彼は安心したように、紬の頭に顎を乗せ、その重みを預けてきた。
甘えるような仕草に、紬の顔が熱くなる。
「なら、明日は魚にしろ。……秋刀魚がいい」
「はいはい。大根おろし、たっぷりでね」
秋の夜長。
新たなライバルの出現は、二人の絆を少しかき乱し、そして、より深く結びつけたようだった。
だが、琥太郎が残した「西の空が騒がしい」という言葉の意味を、二人はまだ知らなかった。
鎌倉に忍び寄る次の嵐の予兆を。
(第10話 完)
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