第8話∶龍神覚醒、そして二人の新しい日常

ドゴォォォォンッ!!

 由比ヶ浜の防波堤は、地獄の釜の底と化していた。

 結界の内側では、あらゆる物理法則が歪み、空間そのものが赤黒い瘴気(しょうき)に侵食されている。

 観光客たちが落としていったゴミや流木が、重力を失って宙を舞い、触れた端から腐食していく。

「……はぁ、はぁ、……ッ」

 清水龍(しみず りょう)は、片膝をついて血反吐(ちへど)を吐いた。

 自慢の銀髪は泥と血に汚れ、神の衣である狩衣(かりぎぬ)はズタズタに裂けている。

 右腕は感覚がない。だらりと垂れ下がった指先からは、赤い血がアスファルトに滴り落ちている。先ほど、紬(つむぎ)へと放たれた棘を素手で受け止めた代償だ。

『愛しい……なぜ、拒む……』

『我らは一つになるべきだ……痛みも、恐怖も、全て溶け合って……』

 目の前には、三百年前の悪夢そのものの姿をした大百足(おおむかで)が、無数の節を軋ませて鎌首をもたげている。

 その再生能力は異常だった。

 どれだけ水を操り、切り刻んでも、紬への歪んだ執着心(エネルギー)がある限り、こいつは無限に蘇る。

(……だが、紬は逃がした)

 清水は霞む視界で、結界の外を見た。

 そこには誰もいない。彼女は無事に逃げ延びたのだ。

 それでいい。

 三百年前、彼女を救えなかったあの日から、俺の時(とき)は止まっていた。

 今日、彼女を守り抜いて死ねるなら、それは俺にとっての救済だ。

 最後に食べたのが、あいつの作った焼きそばだったというのが、少しだけ心残りだが。

「……来いよ、化け物。俺の神核(いのち)ごと、海に沈めてやる」

 清水は残った左手で水を練り上げ、最期の特攻を仕掛けようとした。

 その時だ。

 ガンッ!!

 背後の結界に、何かが激突する音がした。

 大百足の攻撃ではない。外からだ。

 ガンッ! ガンッ!

「……?」

 清水は眉を寄せ、ゆっくりと振り返った。

 見間違いかと思った。幻覚だと思った。

 そこにいたのは、裸足で、髪を振り乱し、巨大な風呂敷を背負った――古都宮紬だった。

 彼女は、人間が通れるはずのない「神の結界」を、素手でバンバンと叩いている。

「開けて! 開けなさいよ、この分からず屋!!」

 声が聞こえるはずのない結界越しに、その怒声が響いてきた。

「つ、紬……!? なぜ戻ってきた! 逃げろと言っただろう!」

「嫌よ! バイト代もまだ貰ってないのに、勝手に死なせない!」

「馬鹿者! ここはもう人の領域じゃない!」

 清水が叫ぶが、紬は引かない。

 彼女の黒髪に挿された**『青い玉の簪(かんざし)』**が、激しく明滅している。

 あの簪は、俺の神気の一部だ。それが鍵(キー)となり、彼女の「助けたい」という強烈な祈りと共鳴している。

 次の瞬間。

 パリンッ!

 絶対不可侵のはずの結界に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。

 いや、彼女が「溶かした」のだ。

 その身から溢れ出る、眩いばかりの光の粒子が、俺の術式を強引にこじ開けた。

「お待たせ!」

 紬が結界の中に飛び込んできた。

 生身の人間には猛毒であるはずの瘴気が、彼女の周囲だけ、ろうそくの火を吹き消すように浄化されていく。

 彼女自身が、歩く浄化装置と化している。

「貴様、本当に死にたいのか!」

「うるさい! 四の五の言わずに、これを食べて!」

 紬は背負っていた風呂敷を解くと、中から曲げわっぱの弁当箱を取り出した。

 蓋を開ける。

 ボワァァァァァッ!!

 黄金色の光が、戦場に溢れ出した。

 瘴気が「ジュッ」と音を立てて悲鳴を上げ、散っていく。

 現れたのは、大人の拳ほどもある巨大なおむすびと、山盛りの鶏の竜田揚げだ。

「は……? 弁当……?」

「神棚のお米とお酒で作った、特製『神饌(しんせん)弁当』よ! ほら、口開けて!」

 呆気にとられる龍神の口に、紬は強引におむすびをねじ込んだ。

 熱い。握りたてだ。

「んぐっ!?」

「噛んで! 飲み込んで!」

 有無を言わせぬ迫力に押され、清水は反射的にそれを噛んだ。

 瞬間、言葉を失った。

 口の中に広がったのは、圧倒的な「生命」の味だった。

 米の一粒一粒が、熱いマグマのように神気を放っている。

 塩の辛さは、彼女が流した涙の味か。

 具材の梅の酸味が、体内の毒素を洗い流していく。

 そして何より――込められた「生きて」という強烈な祈り(あい)。

 三百年前、ただ守られるだけだった少女は、もういない。

 彼女は今、自らの足で走り、自らの手で「命」を作り出し、俺を救いに来たのだ。

 ドクン、ドクン、ドクン!!

 止まりかけていた心臓が、早鐘を打つ。

 枯渇していたはずの神気が、腹の底から爆発的に湧き上がってくる。全身の血管を駆け巡り、細胞の一つ一つが歓喜の声を上げる。

 右腕の感覚が戻る。傷が塞がる。

 いや、それどころか――全盛期以上の力が満ちていく。

「……美味い」

 清水は呟いた。

 目から熱いものが溢れそうになるのをこらえ、彼は残りの竜田揚げも一気に口に放り込んだ。

 醤油と生姜の香ばしさ。肉の脂が、闘争本能に火をつける。

 力が、満ちる。

 満ちて、溢れ出す。

「……下がっていろ、我が料理番」

 清水が立ち上がった。

 その背中から、蒼い炎が天を衝く柱となって噴き上がった。

 もはや人の形ではない。

 顕現したのは、鎌倉の空を覆いつくすほどの、巨大で美しい**『青龍』**の真の姿だ。

 その鱗は月光のように輝き、瞳は太陽のように燃えている。

『グオォォォォォ――ッ!!』

 龍の咆哮が、夜空の雲を吹き飛ばした。

 その衝撃波だけで、周囲の瘴気が消し飛ぶ。

 対峙する大百足が、恐怖に震えて後ずさる。

『ナゼ……ナゼ、貴様ガ……巫女ノ力ヲ……』

『我ラガ求メタ力ヲ、ナゼ貴様ダケガ……!』

「貴様にはわかるまい。これは一方的な『食欲』ではない」

 青龍の低い声が、空間を震わせる。

 紬の作った弁当が、腹の中で熱く燃えている。それは彼女との絆そのものだ。

「心を通わせた『絆(ごちそう)』の力だ!」

 青龍は天空へ駆け上がると、流星のような速度で急降下した。

 右の爪に、全ての水を圧縮した刃を纏う。

 それは、由比ヶ浜の海そのものを武器にしたかのような、圧倒的な質量。

「消え失せろ、亡霊! 二度と俺の女(りょうりばん)に手出しはさせん!!」

 ズバァァァァァッ!!

 一閃。

 大百足の体は、抵抗する間もなく両断された。

 再生しようとする泥の体を、龍の爪から放たれた清浄な水が包み込む。

 それは攻撃というより、禊(みそぎ)に近かった。

『アア……アアァ……』

 断末魔の叫びは上がらなかった。

 百足の怨念が、優しく洗い流されていく。

 黒い瘴気は、やがて白く輝く泡となり、夜の海へと還っていく。

 三百年の執着、愛憎、孤独。それら全てが、紬の料理の力と、龍神の水によって浄化されたのだ。

          ◇

 静寂が戻った。

 結界が解け、いつの間にか花火大会も終わっていた。

 観客たちは何事もなかったかのように帰路につき、浜辺には祭りの後の静けさだけが残っている。

 結界内での出来事は、外の世界では一瞬の蜃気楼だったのかもしれない。

 夜明け前の、深く青い空。

 水平線の向こう、三浦半島の稜線が白み始めている。

 防波堤の上。

 人の姿に戻った清水は、どさりと紬の隣に座り込んだ。

 狩衣はボロボロだが、その顔色は艶やかで、傷一つ残っていない。肌からは、まだ微かに神気の粒子が漂っている。

「……ふぅ。食った食った」

 清水は満足げに腹をさすった。

「信じられない。あのお弁当、一瞬で全部食べちゃうなんて」

 紬は空っぽになった弁当箱を見て、呆れつつも安堵の息を吐いた。

 緊張の糸が切れ、急に体の力が抜ける。

 へたり込みそうになった紬の肩を、清水が抱き寄せた。

「……おい」

「なんですか?」

「助かった。……礼を言う」

 素直な言葉に、紬は目を見開いた。

 いつもなら「当然だ」と憎まれ口を叩くはずの彼が、今はとても穏やかな顔をしている。

 朝焼けの光が、彼の銀髪と、紬の黒髪に挿さった青い簪を照らす。

「紬。お前はもう、生贄の巫女じゃない」

 清水は紬の手を取り、その掌に自分の頬を寄せた。

 彼の肌の温度が、じんわりと伝わってくる。

「お前は俺を生かす、唯一無二の料理番だ。……これからも、俺の傍で美味いものを作れ。一生、俺が守ってやる」

 その言葉の重みに、紬の顔がカッと熱くなった。

 一生。それは契約の更新なんて生易しいものではない。

「一生って……それ、プロポーズみたいに聞こえますけど」

「ふん。解釈は任せる」

 清水はニヤリと笑い、そして真面目な顔に戻った。

 朝日が昇り、海面がキラキラと輝き始める。新しい朝が来たのだ。

「だが、とりあえず今は……」

「今は?」

「デザートが食いたい。口の中が油っぽい。さっぱりしたものがいいな」

 紬はカクッと脱力した。

 せっかくのいい雰囲気が台無しだ。

 やっぱり、この神様はこれだ。花より団子、ロマンスより食欲。

 でも、そんな彼だからこそ、私は救われたのだ。

「はいはい。帰ったら、冷たい水まんじゅうでも作りますよ。葛粉(くずこ)が残ってたはずだから」

「ほう、それはいいな。期待しているぞ」

 二人は立ち上がった。

 手と手は、自然と繋がれたまま。

 朝日に輝く江の島を背に、腹ペコ龍神と専属料理番は、まだ誰もいない鎌倉の街へと歩き出した。

 古都に潜むあやかし事件、これにて一件落着。

 けれど、彼らの「美味しい」日常は、まだ始まったばかりだ。

 きっとこれからも、彼は腹を空かせ、私はキッチンに立つのだろう。

 大切な人の、幸せそうな顔を見るために。


 (第8話完)


(第一章 完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る