第7話∶厨房の祈り、神様への最強弁当
肺が焼けるように熱い。
喉の奥から、鉄錆のような血の味がする。
裸足の裏に、真夏のアスファルトの余熱と、鋭い小石の痛みが容赦なく食い込む。
けれど、古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は走るのを止めなかった。
背後では、ドォン、ズドォンと、花火とは明らかに違う重く鈍い衝撃音が、腹の底に響き続けている。
振り返らなくても分かる。空が赤いのだ。
あの美しい青龍の蒼炎と、大百足(おおむかで)が撒き散らす赤黒い瘴気(しょうき)が衝突し、由比ヶ浜の夜空を不吉な紫色に染め上げている。
「きゃああああ!」
「逃げろ! 津波が来るぞ!」
すれ違う観光客たちの顔は恐怖に歪んでいる。浴衣姿のカップルも、家族連れも、誰もが海に背を向けて一目散に逃げ惑う。
逆走しているのは、この世界で私一人だ。
「はぁっ、はぁっ……!」
海岸通り(国道134号線)を抜け、見慣れた路地裏へ滑り込む。
潮風に錆びたトタン屋根。店先に置かれた手書きの黒板メニュー。
レトロな木製看板――喫茶『こっとん』。紬の実家だ。
両親は避難したのだろう、店内は真っ暗で、入り口には「CLOSE」の札が揺れている。
紬は裏口に回り、植木鉢の下に隠してあった合鍵を震える手で掴んだ。
ガチャリ。
鍵が開く音が、静まり返った夜にやけに大きく響く。
店内に飛び込み、靴も履かずに厨房へと駆け上がった。
慣れ親しんだコーヒー豆の酸化した匂いと、古い木の匂い。ここだけは時間が止まったように平和で、それが今の紬には逆に恐ろしかった。
「……ある。まだ、ある!」
業務用の冷蔵庫を勢いよく開ける。
冷気と共に現れたのは、ランチ営業の残りの食材たち。
鶏もも肉、卵、根菜類。十分だ。これなら作れる。
けれど、それだけじゃダメだ。
ただの美味しいお弁当じゃない。瀕死の重傷を負った神様を癒やし、三百年の怨念を纏ったあの化け物を祓うほどの、「絶対的な力」を持った料理でなければ。
普通の食材では、神気(エネルギー)の供給が追いつかない。
彼の傷を塞ぎ、枯渇した霊力を瞬時に満タンにするような、起死回生の劇薬が必要だ。
(もっと、清浄なもの。もっと、エネルギーの塊のようなもの……!)
焦る視線が、厨房の奥、高い位置に祀られた神棚に止まった。
そこには、父が毎朝欠かさず供えている**「御神米(ごしんまい)」と、お正月用に取っておいた鎌倉の地酒「神酒(みき)」**が鎮座している。
神棚の榊(さかき)が、微かに揺れている。
神様へのお供え物を、神様を救うために使う。
これ以上の適材はない。
「……お父さん、ごめん。バチは私が全部被るから!」
紬は椅子によじ登り、神棚の米と酒を鷲掴みにした。
瓶の中で揺れる透明な液体が、月明かりを受けてキラリと光った。
これだ。この土地の気が宿った米と酒なら、龍神の体に馴染むはずだ。
ジャアアア……ッ!
シンクで米を研ぐ。冷たい水が、火照った指先を冷やす。
ザッ、ザッ。リズミカルな音が、乱れた心拍数を整えていく。
研ぐたびに、米の一粒一粒が微かに発光しているように見えた。今の紬の集中力が、極限まで高まっている証拠だ。
土鍋に米と水を入れ、そこに惜しげもなく「神酒」をドボドボと注ぐ。
酒の浄化作用と、米の生命力。
コンロのつまみを捻る。
ボッ! と青い炎が音を立てて燃え上がった。
(お願い。美味しくなって。力を宿して)
土鍋の蓋がコトコトと鳴り出すまでの間、紬は鶏肉を手に取った。
作るメニューは決めている。
**『鶏の竜田揚げ』**だ。
名前の由来は、百人一首にも詠まれた紅葉の名所・竜田川。揚げた色が紅葉の色に似ていることから名付けられた料理。
だが、今の紬にとっては別の意味を持つ。
文字通り、「龍」が「立つ」揚げ物。
地に伏した龍神を再び起たせ、空へ昇らせるための、これ以上ない験担(げんかつ)ぎだ。
包丁を握る。
ダン! ダン!
鶏肉を大きめにぶつ切りにする。彼が一口で頬張れる、ギリギリの大きさ。
ボウルに生姜とニンニクをたっぷりとすりおろす。そこへ醤油、みりん、そしてここにも隠し味の神酒を加える。
肉をタレに揉み込む。
ギュッ、ギュッ。
私の祈りを、熱を、全部吸い込んで。
「生きて」という願いを、細胞の隅々まで染み込ませるように。
片栗粉をまぶすと、肉は雪化粧をしたように白く染まる。
鍋の油は、すでに適温に達していた。菜箸を入れると、シュワシュワと小さな泡が立つ。
ジュワアアアアアッ!!
厨房に、香ばしい醤油と肉の脂が弾ける音が響き渡る。
パチパチ、シュワシュワ。
油の泡が踊る音。換気扇が回る低い唸り。
普段なら「いい匂い」で済むその香りが、今日は違った。
鼻腔をくすぐるだけでなく、魂の奥底を揺さぶるような、野生を呼び覚ます香り。
ニンニクと生姜の刺激的な香りが、眠っていた力を強制的に叩き起こす。
それら全てが、紬の鼓動とリンクし、一種のトランス状態へと誘(いざな)っていく。
指先の感覚が鋭敏になり、時間の流れが遅く感じる。これが「ゾーン」に入るということか。
「……っ」
一瞬、外の轟音が大きくなり、厨房の窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げた。
赤黒い光が窓の外を明滅する。
恐怖で足がすくむ。
菜箸を持つ手が震える。
(怖い……)
(もし、間に合わなかったら? もし、彼がもう……)
脳裏をよぎるのは、三百年前の記憶。
冷たい海の中で、息ができずに沈んでいく感覚。水圧に押しつぶされ、光が遠のいていく絶望。
――また、繰り返すのか。私はまた、何もできずに終わるのか。
あの冷たい闇が、足元から這い上がってくる。
その時。
チリリン……。
黒髪に挿した**「青い玉の簪(かんざし)」**が、涼しげな音を立てた。
風もないのに、硝子玉が揺れている。
その冷やりとした重みが、混乱する紬の意識を「今」に繋ぎ止めた。
『紬』
彼の声が聞こえた気がした。
ぶっきらぼうで、尊大で、でも誰よりも不器用で優しい、あの腹ペコ神様の声が。
第四話で、彼がくれた言葉を思い出す。
――神が選んだんだ。似合わないわけがない。
彼は、三百年前の私ではなく、今の私を見てくれた。
今の私が作る料理を、「温かい」と言ってくれた。
「……私は、もう生贄じゃない」
紬はエプロンで乱暴に涙を拭い、顔を上げた。
私は守られるだけの姫じゃない。彼の胃袋を預かり、命を繋ぐ「料理番」だ。
彼を生かすために、私はここにいるんだ。
カッ!
紬の全身から、眩いばかりの光の粒子が噴き出した。
それは厨房全体を包み込み、不思議な現象を引き起こす。
ガタガタガタ……!
棚の皿が震え、お玉が浮き上がり、鍋の蓋がリズムを刻み始める。
この店で長年使われてきた道具たち――小さな付喪神(つくもがみ)たちが、紬の気迫に呼応し、応援歌を送っているのだ。
『フレー、フレー!』
『負けるな、お嬢!』
『美味しくなーれ!』
『神様を、救ってやんな!』
「ありがとう、みんな……!」
力が湧いてくる。
土鍋の穴から、勢いよく蒸気が噴き出した。炊けた合図だ。
「よしっ!」
蓋を開ける。
真っ白な湯気と共に、一粒一粒が真珠のように輝く銀シャリが現れた。
「カニ穴」と呼ばれる無数の蒸気の通り道。完璧に炊けた証拠だ。
日本酒の芳醇な香りと、お米の甘い香りが爆発的に広がる。神様が宿るにふさわしい、完璧な炊き上がりだ。
ボウルに氷水を用意し、手を浸す。
そして、炊きたての熱々の米を、素手で鷲掴みにする。
熱い。皮膚が焼けそうだ。
けれど、構わない。この熱さこそが命の温度だ。
ギュッ、ギュッ。
魂を結ぶように、祈りを込めて握る。
中身は、彼の好物だった旨味たっぷりの「カツオ昆布」と、強力な魔除けの力を持つ「梅」。
形なんてどうでもいい。大きく、丸く、力強く。
出来上がったのは、大人の拳ほどもある、特大の**『神氣(しんき)おむすび』**だ。
横では、狐色にカリッと揚がった竜田揚げが山盛りになっている。ニンニク醤油の香りが食欲をそそる。
さらに、冷蔵庫にあった卵で、第四話で作った仲直りの味、甘めの**『出汁巻き卵』**も手早く焼き上げた。
曲げわっぱの弁当箱に、それらを隙間なく詰め込む。
おむすびの白、竜田揚げの茶色、卵焼きの黄色。
彩りは地味だ。インスタ映えもしない。
けれど、そこから溢れ出るエネルギーは、直視できないほど眩しい。湯気の一つ一つが光り輝き、黄金色のオーラを放っている。
仕上げに、蓋の上から祈りを込めて。
パン! と乾いた柏手(かしわで)を打つ。
「よしっ!」
完成した**『龍神復活・最強神饌弁当』**は、ずっしりと重かった。
それはただの食事ではない。
愛と執念と、鎌倉の地の恵みを凝縮した、霊的爆弾だ。
紬は弁当を大きな唐草模様の風呂敷に包み、それをたすき掛けにして背負った。
覚悟の重みが、背中に食い込む。
「行ってきます!」
誰ともなしに告げ、紬は裸足のまま、厨房を飛び出した。
外に出ると、空気はさらに重く、生臭くなっていた。
海の方角。防波堤を覆う結界のドームが、不気味に明滅している。亀裂が走り、今にも砕けそうだ。
あの中では今も、彼が一人で血を流し、孤独に戦っている。
たった一人で、私を守るために。
「待ってて、清水さん」
紬はアスファルトを蹴った。
もう痛みは感じない。
風を切り、散乱する瓦礫を飛び越え、彼女は戦場へとひた走る。
その背中には、神様を救うための「最高のご馳走」を背負って。
空腹の神様が待っている。
なら、料理番が遅れるわけにはいかないのだ。
(第7話 完)
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