第6話∶鎌倉花火大会、砕かれた約束

 七月の由比ヶ浜(ゆいがはま)。

 普段はサーファーたちが波を待つ穏やかな海岸線は、今宵、立錐(りっすい)の余地もないほどの人波と熱気に埋め尽くされていた。

 第70回、鎌倉花火大会。

 海上の船から投げ入れられる「水中花火」が名物の、古都の夏を彩る一大イベントだ。

 潮風に混じって、ソースが焦げる香ばしい匂い、綿飴の甘い香り、そして火薬の匂いが漂ってくる。

 ドンドン、ピーヒャラ。遠くのお囃子の音が、高揚感を煽るように響いていた。

「おい、紬。はぐれるな」

「あっ、待ってください清水さん! 下駄が、鼻緒が……っ」

 人混みの中、古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は必死に前の背中を追いかけた。

 今日のために箪笥(たんす)の奥から引っ張り出したのは、祖母のお下がりである金魚柄の浴衣だ。

 紺地に泳ぐ赤い金魚。帯は鮮やかな山吹色。

 鏡の前で一時間も格闘して着付けた自信作だが、慣れない下駄の鼻緒が指に食い込み、歩くたびに小さな痛みが走る。

 けれど、そんな痛みよりも、胸の高鳴りの方が遥かに勝っていた。

 その手を、無造作に伸びてきた大きな手が掴んだ。

「まったく、とろい奴だ」

「だって、人がすごくて……」

 振り返った清水龍(しみず りょう)の姿に、紬は一瞬、呼吸を忘れた。

 いつもの着流しではない。今日は黒に近い濃紺の浴衣姿だ。

 帯の結び目も粋な「貝の口」。銀色の髪は耳にかけられ、切れ長の目元を涼しげに見せている。

 ただそこに立っているだけで、周囲の女性客からの熱い視線が痛いほど集まっていた。「モデル?」「俳優?」なんて囁き声も聞こえる。

 だが、本人はそんな視線など意に介さず、不機嫌そうに眉を寄せ、繋いだ紬の手をグイと引いた。

「……それに、その」

 清水は視線を泳がせ、人混みへ顔を背けながらボソリと言った。

「その金魚の柄、悪くない。……昔も、そんなのを着て笑っていた気がする」

「え?」

「なんでもない。行くぞ、特等席を確保してある」

 昔、とはいつのことだろう。

 聞き返す間もなく、紬は彼に引かれて歩き出した。

 繋がれた手。大きく温かい掌。

 周囲の喧騒が遠のき、世界には二人しかいないような錯覚に陥る。

 引かれるままに連れてこられたのは、賑やかな砂浜から少し離れた、材木座(ざいもくざ)寄りの防波堤だった。

 周囲には「立入禁止」の札があるが、清水が金色の瞳を一閃させると、認識阻害の結界が張られ、二人だけの静寂な空間が広がった。

「わあ……! ここなら海が一望できますね!」

「当然だ。俺の庭(うみ)だからな」

 清水は防波堤に腰を下ろし、途中の屋台で買わされた戦利品を広げた。

 パックからはみ出るほどの焼きそば、たこ焼き、そして冷えた缶ビール。

「いただきまーす!」

 紬は焼きそばを頬張った。屋台特有の濃いソース味が、お腹の虫を黙らせる。

「んん~っ、美味しい! 清水さんもどうぞ」

「……俺はこっちがいい」

 清水は缶ビールのプルタブを開け、一口あおった。

 瞬間、缶の中身が黄金色に輝く。

 ただのビールではない。彼が触れたことで、それは最高級の「神酒(みき)」へと性質を変えたのだ。

「ふぅ。……悪くない」

 潮風が火照った頬を撫でる。遠くには江の島の灯りが見える。

 あまりに平和で、幸せな時間。

 先日、白雪から聞いた「大妖の封印」の話が、まるで悪い夢だったかのように思える。

「……ねえ、清水さん」

「ん?」

「花火が終わったら、また何か作りますね。今度はサッパリした冷やし中華とかどうですか?」

「……ああ。マヨネーズは必須だぞ」

「はいはい。錦糸卵もたっぷりのせますから」

 他愛のない会話。未来の約束。

 けれど、清水は焼きそばを食べる手を止め、静かに夜の海を見つめた。

 その横顔は、彫像のように美しく、そして痛々しいほど孤独に見えた。

 まるで、これが最後の晩餐だと知っているかのように。

「紬」

 低い声で名前を呼ばれ、紬は箸を止めた。

「もし何かあっても、お前は俺の背中から離れるな。決して振り返るな」

「それって……」

「約束だ」

 強い口調で言われ、紬は頷くことしかできなかった。

 胸の奥で、嫌な予感のベルが鳴る。簪(かんざし)の青い玉が、チリリと熱を帯びた気がした。

 ヒュルルルル……

 その時、夜空を引き裂く音が響いた。

 会話も、予感も、すべてを飲み込む轟音。

 ドォォォォン!!

 頭上で大輪の花火が弾けた。

 赤、青、緑。光のシャワーが海面を照らし、観客たちのどよめきが地響きのように伝わってくる。

 次々と打ち上がる光の芸術。

 由比ヶ浜名物、海面に扇状に開く水中花火が、幻想的な半円を描き出す。

「きれい……」

 紬が息を呑んだ、その瞬間だった。

 見てしまった。

 花火の極彩色を映しているはずの海面が、インクを流したようにドス黒く濁り、波打っているのを。

「――来たか」

 清水が立ち上がった。その手から焼きそばのパックが落ちる。

 同時に、周囲の空気が凍りついた。

 楽しげな祭りの空気は一変し、肌を刺すような殺気が満ちる。

 ズズズズズ……ッ!

 ドォン! という花火の音に紛れ、海中から「それ」は現れた。

 海水が盛り上がり、腐臭を含んだ風が吹き荒れる。

『ミコ……ヒメェ……』

 地響きのような、あるいは錆びた鉄を擦り合わせたような低い唸り声。

 波間から鎌首をもたげたのは、ヘドロと海藻、そして数百年分の無数の怨念が固まってできた、巨大な人型だった。

 いや、人型ではない。

 それは無数の節(ふし)と、無数の足を持つ、異形の**『大百足(おおむかで)』**だ。

 顔があるべき場所には、ぽっかりと空いた空洞があり、そこから赤黒い瘴気(しょうき)を撒き散らしている。

「キャアアアアアッ!」

「なんだあれ!?」

 遠くの浜辺で悲鳴が上がり始めた。人々はパニックになり逃げ惑うが、花火の音と煙で混乱は拡大するばかりだ。

「相変わらず醜悪な姿だ。三百年経っても、その執着は消えんか」

 清水が一歩前へ出る。

 彼の全身から、目も眩むような蒼い炎が噴き上がった。

 濃紺の浴衣が光の粒子となって弾け飛び、顕現したのは本来の神の衣――古(いにしえ)の狩衣(かりぎぬ)姿。

 そして、その背後には巨大な青龍の幻影が揺らめき、鎌倉の夜空を圧する。

「紬、下がっていろ! 結界からは出るな!」

「清水さん!」

 清水が右手を振るうと、海水が巨大な水柱となって大百足を打ち据えた。

 ジュウウウッ!

 瘴気が蒸発する音が響く。

 だが、敵は再生する。切り裂かれた泥の体は瞬時に繋がり、無数の触手が鞭のようにしなり、清水へと襲いかかる。

『愛しい……愛しい巫女よ……共に、逝こう……』

『喰らいたい……お前と一つになりたい……』

 大百足の虚ろな目が、防波堤にいる紬を捉えた。

 瞬間、紬の脳裏に激しい痛みが走る。

(知ってる……この憎悪。この歪んだ愛)

 フラッシュバックする記憶。

 燃え盛る村。逃げ惑う人々。

 かつて、村を守るために生贄として海に沈められた自分。

 それを食らい、力を増した大百足。

 水底で最後に見たのは、血を流しながら自分を助けようと手を伸ばす、青い龍の姿だった。

 ――あの日、私は守られて死んだのではない。私が死んだせいで、彼は三百年間、孤独にこの海を守り続けてきたのだ。

 私の死が、彼を縛り付けていた。

『ミコヒメェェェッ!』

 大百足が咆哮する。

 その狙いは清水ではない。その後ろにいる、力の源――紬だ。

「させるかぁッ!」

 清水が叫ぶ。

 彼は触手の雨をかいくぐり、敵の懐へと飛び込んだ。

 しかし、それは罠だった。

 敵の胸部が大きく裂け、そこから隠されていた鋭い毒の棘(とげ)が、無数に発射されたのだ。

 黒い雨のような棘が、紬へと降り注ぐ。

「――ッ!?」

 避ければ、紬に当たる。

 清水は迷わず、両手を広げてその場に踏みとどまった。

 逃げる素振りさえ見せず、ただ愛しい者を守る盾として。

 ズドッ、ズドッ、ズドォッ!

 鈍い音が肉を穿(うが)つ。

「清水さんッ!!」

「……ぐ、ぅ……ッ!」

 青い狩衣が、瞬く間に鮮血に染まっていく。

 清水は膝をつきそうになるのをこらえ、血を吐きながら振り返った。

 その顔は蒼白だが、金色の瞳だけは燃えるように紬を見据えていた。

「逃げろ……紬ッ!!」

 彼の最後の力で、防波堤に強風が巻き起こる。

 紬の体は、見えない力に弾き飛ばされ、安全な後方の道路へと転がった。

 直後、水と光の壁が展開され、防波堤への道を閉ざした。

「嫌……開けて! お願いだから開けて!」

 紬は壁を叩いた。爪が割れそうになるほど叩いた。

 だが、壁の向こうでは、傷ついた龍神が、再び立ち上がり、圧倒的な質量の闇へと一人で立ち向かっていく姿が見えるだけだった。

 強固な結界の内側に、彼と敵だけを閉じ込めて。

(私が……私が弱かったから)

(また、あの人一人を死なせるの? 私は何のために生まれ変わったの?)

 花火の輝きが、残酷なほど美しく二人の分断を照らし出す。

 手の中に握りしめられていた契約の鈴が、チリリと鳴った。

 悲しげな音。

 ――いや、違う。これは悲鳴じゃない。

 これは、**「まだ終わっていない」**という合図だ。

 紬は涙を拭った。

 私はもう、ただの巫女じゃない。神様の胃袋を預かる、料理番だ。

 力が足りないなら、足してあげればいい。

 傷ついているなら、治してあげればいい。

 それができるのは、三百年前の私じゃない。今の私だけだ。

「……待ってて、清水さん」

 紬は立ち上がった。

 視線の先には、海岸通り(国道134号線)沿いにある実家の喫茶店『こっとん』の看板が見える。

 避難して誰もいないはずだ。あそこなら厨房がある。食材もある。神棚には、父が大切にしているお神酒もあるはずだ。

 作るんだ。神様を救う、起死回生の**『最高の一皿』**を。

「料理番を、ナメないでよ」

 紬は踵(きびす)を返し、走り出した。

 慣れない下駄を脱ぎ捨て、裸足でアスファルトを蹴る。

 足の裏が痛い。でも、心臓の痛みよりはマシだ。

 背後では、世界が終わるような轟音が響いていたが、彼女はもう振り返らなかった。

 振り返るのは、彼を救うための「武器(りょうり)」を手にした時だけだ。



(第6話 完)

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