第5話∶江の島の白蛇様と、梅香るしらす茶漬け

ガタン、ゴトン。

 緑色のレトロな車体が、海沿いのカーブをゆっくりと曲がっていく。

 江ノ電の車窓いっぱいに広がるのは、七月の強烈な日差しを反射して、宝石を散りばめたように煌めく湘南の海だ。

「わあ……! 今日は空気が澄んでますね。伊豆大島までくっきり見えますよ、清水さん!」

「……眩しい。カーテンを閉めろ、カーテンを」

 はしゃぐ古都宮(ことみや)紬(つむぎ)の隣で、サングラスをかけた不審者――もとい、龍神の清水(しみず)は座席に深く沈み込み、気配を消していた。

 今日の彼は、いつもの和装ではない。白のTシャツに麻のパンツ、その上から薄手のシャツをさらりと羽織るという、完全な現代風の出で立ちだ。

 黙っていれば、湘南に遊びに来たモデルか俳優のような美青年である。銀髪が陽光に透けて輝き、サングラス越しにも整った顔立ちが知れる。周囲の女性客がチラチラと熱い視線を送っているが、本人の態度は実にふてぶてしい。

「文句言わないでください。今日は大事な依頼なんですから」

「ふん。江の島の弁財天(べんざいてん)の使いごときが、龍神の俺を呼びつけるとはいい度胸だ。本来ならあちらから出向くのが筋だろう」

 悪態をつきつつも、清水が大人しくついてくるのは、紬が「帰りに美味しい生しらすを食べましょう」と約束したからに他ならない。神様といえど、食欲には勝てないらしい。

 ふと、窓ガラスに映る自分たちの姿が目に入った。

 紬の黒髪には、先日彼からもらった**『青い玉の簪(かんざし)』**が揺れている。

 車窓からの光を受けて、硝子玉がちろりと涼しげに輝いた。それはまるで、隣にいる龍神の瞳の色と同じだ。

(これをつけてると、なんだか守られてる気がするんだよね……)

 二人が降り立ったのは、江ノ電『江ノ島』駅。

 すばな通りを抜け、潮風と磯の香りが濃くなる弁天橋を渡る。

 夏休み前の平日だというのに、島へ向かう道は観光客でごった返していた。焼きイカやソフトクリームの甘い匂いが漂い、若者たちの笑い声が響く。

 青銅の鳥居をくぐり、急な石段を登っていく。

「おい、エスカー(野外エスカレーター)を使わないのか」

「神様が文明の利器に頼らないでください。修行ですよ、修行」

「チッ。解せぬ」

 文句を言いながらも、清水は紬の歩幅に合わせて歩いている。

 賑やかな参道を抜け、「辺津宮(へつのみや)」の境内へ。そこからさらに奥、一般の人間が立ち入れない社務所の裏手に、結界で隠された離れがあった。

 一歩足を踏み入れると、蝉時雨(せみしぐれ)がピタリと止み、深海のような静寂が訪れた。

「ようこそおいでくださいました、青龍様。それに、可愛らしい料理番の娘御(むすめご)も」

 鈴を転がすような声で迎えたのは、白無垢のような着物を纏った、妖艶な美女だった。

 だが、その肌は陶器のように白く、整った顔立ちには爬虫類特有の冷たさと、病的な濃い隈(くま)が浮かんでいる。

 彼女こそが、江の島を守る弁財天の眷属、白蛇(はくじゃ)の化身『白雪(しらゆき)』だ。

「……随分とやつれたな、白雪。脱皮の失敗か?」

「冗談をおっしゃらないで。……海が、穢(けが)れているのです」

 白雪は重苦しいため息をついた。その吐息すら、どこか冷たい霧のように部屋の温度を下げる。

「ここ数日、海から漂う『澱(よど)み』が急激に強くなっています。その邪気に当てられて、私の神通力も弱まり、食欲も湧かず……。このままでは、島の結界を維持できません」

 紬はハッとした。

(海からの澱み……。第一話で私を襲った、あの黒い泥と同じ気配?)

「そこで、その娘御の料理の噂を聞きましてね。どうか、私の食欲を取り戻し、穢れを払う活力となるものを作ってはいただけないでしょうか」

 白雪の切れ長な瞳が、すがりつくように紬を見つめる。

 紬は清水を見た。彼はサングラスを外し、真剣な金色の瞳で「やってみろ」と顎をしゃくった。

 神様の依頼。失敗は許されない。

          ◇

 紬は借りた社務所の台所に立ち、持参したクーラーボックスを開けた。

 中には、腰越(こしごえ)漁港で手に入れたばかりの、朝獲れの新鮮な『しらす』が入っている。透き通るような身は、宝石のように美しい。

「生しらすも美味しいけど……」

 今の弱った白雪の胃腸には、生魚は消化が悪く、冷えすぎるかもしれない。

 それに、海からの邪気を払うには、体を芯から温め、内側から清める「陽」の気の料理が必要だ。

(メニューは……あれにしよう)

 紬は土鍋でふっくらと白米を炊き上げる。

 しらすは熱湯でさっと茹で、ふわふわの『釜揚げ』にする。茹でることで魚の臭みが抜け、旨味が凝縮されるのだ。

 薬味には、邪気を払うと言われる『梅干し』を叩いたもの、香りの良い大葉、ミョウガ、白ごまをたっぷりと刻む。

 そして、一番の決め手は熱々の**『黄金出汁(こがねだし)』**だ。

 北海道産の真昆布と、枕崎産の鰹節で丁寧に引いた合わせ出汁。最後にほんの少し、清めの酒を加える。

(美味しくなあれ。悪いものは飛んでいけ……)

 仕上げに出汁を回しかける時、紬の指先から、いつもの「光の粒」がこぼれ落ちた。

 それは湯気と共に丼を包み込み、まるで水面(みなも)に光が差したような神聖な輝きを帯びていく。

 ただの料理ではない。これは、祈りを込めた「薬」だ。

「お待たせしました。特製、**『梅と薬味の、出汁茶漬け風しらす丼』**です」

 白雪の前に膳を置く。

 蓋を開けた瞬間、カツオ出汁の上品な香りと、梅の酸味を含んだ湯気が立ち上った。

「……いい香り。これなら、喉を通りそうです」

 白雪が匙(さじ)で一口、口に運ぶ。

 ふわふわの釜揚げしらすの優しい塩気、梅の酸味、そして薬味の爽やかさが、熱い出汁と共に五臓六腑に染み渡る。

「はぁ……っ」

 白雪の唇から、ほうっ、と白い吐息が漏れた。

 その吐息と共に、彼女の体からドス黒い靄(もや)がスーッと抜けていくのが見えた。

 代わりに、紬が込めた祈りの光が、彼女の内側から輝きだす。血管を巡る神気が、清浄な流れを取り戻していく。

「美味しい……。冷え切っていた体が、芯から温まります。それに、この浄化の力……まるで、かつての巫女姫様のよう」

 白雪の顔に赤みが戻り、その瞳が蛇のように鋭く縦に割れた。本来の神気を取り戻した証拠だ。

 完食して手を合わせる白雪を見て、紬は安堵の息を吐いた。

「よかった……」

「見事だ、紬」

 いつの間にか背後にいた清水が、ポンと紬の頭に手を置いた。不器用な手つきだが、その掌の温度に紬の心臓がトクンと跳ねる。

 だが、和やかな空気は、白雪の次の言葉で一変した。

「……青龍様。やはり、封印が緩んでいます」

 白雪は真顔に戻り、窓の外――海の方角を指さした。

「沖合の海底深くに眠る『あの方』が、目覚めようとしています。三百年前、巫女姫様が命と引き換えに封印した、あの大妖(たいよう)が」

「……ああ、わかっている」

 清水の声が低く、冷たくなる。室内の空気がビリビリと震えた。

「最近、雑魚(ザコ)どもの動きが活発なのも、奴の目覚めに共鳴しているからだ」

「それと……」

 白雪は紬をじっと見つめ、警告するように言った。

「この娘御の魂が、鍵になってしまっています。奴は、自分を封じた巫女の魂を憎み、同時に、その強大な霊力を喰らおうと渇望している。……青龍様、このままお側に置いておくのは危険では?」

 紬の背筋が凍る。

 自分が狙われている理由は、ただ「美味しそう」だからではなく、過去の怨念によるものだったのか。

 三百年前。巫女姫。命と引き換えの封印。

 断片的なキーワードが、紬の中にある「夢の記憶」とリンクする。

 炎の中で自分を呼ぶ声。青い鱗の感触。

(私が……あの大妖を封印した巫女の、生まれ変わり?)

(だから、清水さんは私を……?)

 沈黙が流れる中、清水は紬の肩を強く引き寄せた。

「関係ない」

 きっぱりと、彼は言い放った。

「俺はもう二度と間違えない。遠ざければ安全だなどと……そんな甘い考えで、また失うのは御免だ」

 彼の指が、紬の肩に食い込むほど強く握られた。

 痛いほどに伝わってくる、彼の後悔と決意。

 それは、紬(かつての巫女)を守れなかった悔恨であり、今度こそはという執念だった。

「喰らおうとするなら、その顎(あぎと)ごと砕くだけだ。……それに」

 清水はふっと口元を緩め、紬を見下ろした。

「こいつの飯がないと、俺が調子出ないんでな」

「し、清水さん……」

 そんな理由かよ、と突っ込みたいのに、涙が出そうになった。

 白雪は呆れたように、しかしどこか嬉しそうに笑った。

「左様でございますか。……では、私も微力ながら江の島より結界を強化しておきましょう。愛の力は偉大ですこと」

          ◇

 帰り道、夕日が海をオレンジ色に染めていた。

 観光客の波も引いた江の島弁天橋を歩きながら、紬は隣を歩く清水の横顔を盗み見た。

 サングラス越しの視線は、ずっと沖合の海を睨んでいるようだった。

 海風が強く吹き、紬の髪の簪をチリリンと揺らす。

「……あの、清水さん」

「ん?」

「私、もっと料理の腕、磨きますから。だから……その、いっぱい食べて、強くなってくださいね」

 精一杯の強がり。

 足手まといにはなりたくない。私にできることは、彼のお腹と心を満たすことだけだから。

 それを聞いた清水は、一瞬きょとんとしてから、吹き出した。

「くっ……ははは! なんだそれは。俺を太らせてどうするつもりだ」

「ち、違いますよ! 栄養管理の話です!」

「まあいい。期待しているぞ、専属料理番」

 清水の手が、自然に紬の手を包み込んだ。

 その手は震えるほど冷たかったが、繋いだ場所から伝わる熱だけは、確かなものだった。

 ぎゅっと握り返すと、彼もまた、優しく握り返してくれた。

 オレンジ色の海は穏やかで、世界の終わりなんて信じられないほど美しい。

 だが、二人はまだ知らない。

 海を渡る風に混じり、腐臭のような甘い匂いが、すぐそこまで迫っていることを。

 次の新月の夜――多くの人間が集まる鎌倉花火大会の日に、その封印が解かれることを。



(第5話 完)

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