第4話∶嫉妬する簪(かんざし)と、仲直りの卵焼き

 梅雨の中休み。

 鎌倉の空は、海から照り返す強烈な日差しを受けて、夏を先取りしたように暑かった。

 谷戸(やと)と呼ばれる谷あいの地形は、湿気をたっぷりと含んだ風を溜め込む。

 ジジジ、ミンミンミン……。

 気の早いニイニイゼミの声が、古民家の庭に暑苦しく響き渡っていた。

「……暑い。無理だ。我は干物になる」

「なりませんよ。水神様なんだから、ご自分で湿気を出して潤ってください」

 『萬(よろず)相談所』の裏手にある土蔵(どぞう)。

 分厚い白壁に囲まれたその場所は、ひんやりとした冷気と、古い墨や乾いた木の匂い、そして少しのカビ臭さで満ちていた。

 今日はここにある「あやかし関連」の骨董品の虫干しだ。

 店主の清水(しみず)は、手ぬぐいを頭に乗せ、埃っぽい室内をこの世の終わりのような顔で見回している。Tシャツの襟元をパタパタとさせ、やる気は皆無だ。

 一方、古都宮(ことみや)紬(つむぎ)はマスク姿に三角巾、腕まくりという完全装備で、棚の整理に精を出していた。

「ほら、清水さん。その葛籠(つづら)、動かしてください。中身を確認しますから」

「チッ。人使いの荒い料理番だ。神を便利屋か何かと勘違いしていないか?」

「衣食住のお世話をしてるんですから、これくらい働いてください」

 清水が面倒くさそうに指先をクイクイと動かす。

 すると、大人二人でも持ち上がらないような重厚な桐箱が、重力を無視してフワリと宙に浮いた。

 そのままススーッと移動し、指定された場所に音もなく着地する。

 圧倒的な神通力の無駄遣い。物理法則を無視した光景だが、この一ヶ月ですっかり見慣れてしまった紬は、もはや驚きもしない。

「次はあっちの壺です。……って、わわっ!?」

 紬が指差した先で、大きな信楽焼の壺がカタカタと震え出した。

『ケケケッ、くすぐったい、くすぐったいよぉ!』

「うわ、喋った!」

「放置しておけ。百年経って自我を持ったただの壺だ。埃を払えば大人しくなる」

 清水は指先から小さな水弾を飛ばし、壺の表面の汚れを弾き飛ばした。壺は『ヒャッ! 冷たい!』と悲鳴を上げて静かになった。

 こんな調子で、土蔵の中は奇妙なガラクタ――もとい、貴重な呪物や付喪神(つくもがみ)で溢れかえっている。

「……ん?」

 棚の最奥。埃を被った布の下を拭いていた紬の手が、小さな木箱に触れた。

 上質な黒桐(くろきり)の箱だ。蓋には封印のような御札が何重にも貼られていた痕跡があるが、今は経年劣化でボロボロに剥がれ落ち、床に散らばっている。

(これだけ、空気が違う……?)

 何気なく蓋を開けた瞬間、紬は息を呑んだ。

「わあ、綺麗……」

 中に入っていたのは、ビロードの敷物の上に鎮座する、一本の**『簪(かんざし)』**だった。

 軸は艶やかな黒檀。先端には、透き通るような青い硝子(ガラス)玉があしらわれている。

 その青は、ただの青ではない。

 雨上がりの鎌倉の空のような、あるいは、光の届かない深い海底のような――。

 どこか、清水のあの金色の瞳と対になるような、吸い込まれそうな深い蒼色(あおいろ)だった。

(なんだろう。これ、すごく懐かしい気がする)

(ずっと探していたような……大切な、私の……)

 魅入られたように、紬はその青い玉に指を伸ばした。

 脳内の警鐘が鳴るよりも早く、指先が冷たい硝子に触れた。

 その刹那。

 ドクンッ!!

 心臓を素手で鷲掴みにされたような、激しい衝撃が全身を貫いた。

『――愛している、愛しているぞ』

『お前はどこへも行くな』

『離さない、ずっと、永遠に、我が傍に――』

『誰にも渡さない、お前は我が供物、我が花嫁……』

 脳内に、誰かの「声」が雪崩れ込んできた。

 低く、甘く、そして息が詰まるほど重たい、恋慕の念。

 それは現在の清水の声に似ていた。けれど、今の彼のようなぶっきらぼうな優しさではない。

 ドロドロとした執着と、狂気じみた独占欲が煮詰まった、情報の奔流。

(息が、できない……っ!)

 まるで深海に沈められたような水圧が、紬の魂を押しつぶしていく。

 熱い。苦しい。愛おしい。行かないで。

 他人の感情が自分の中に無理やり流し込まれ、許容量(キャパシティ)を超えた脳が悲鳴を上げる。

「あ……ぅ……っ、や、め……」

「おい、どうした!?」

 視界がぐらりと歪み、世界が回転する。

 膝から崩れ落ちた紬の体を、誰かの腕が力強く抱き止めた。

 白檀(びゃくだん)の香り。ひやりとした、水のような体温。

 薄れゆく意識の中で、いつも冷静な清水が、見たこともないほど焦燥に駆られた顔をしているのが見えた。

「馬鹿者! それに触るなと言っただろうが!」

「しみ、ず、さ……」

「しっかりしろ! 息を吸え!」

 怒鳴り声が遠のいていく。

 まるで深い水の底へ落ちていくように、紬の意識はプツリと途切れた。

          ◇

 チリン……。

 風鈴の音が聞こえた。

 次に目を覚ました時、紬は母屋の畳の上で寝かされていた。

 セミの声は遠く、部屋の中はひんやりと涼しい。まるでエアコンが効いているようだが、この古民家にそんなものはない。

 おでこには冷たい氷枕。かけられたタオルケットからは、洗い立ての石鹸の匂いがする。

「……気づいたか」

 枕元に、清水が座っていた。

 いつもの余裕綽々な態度はどこへやら、眉間に深い皺を刻み、不安そうにこちらを覗き込んでいる。その手には、絞ったばかりの手ぬぐいが握られていた。

「み、水さん……私、倒れて……」

「喋るな。『気あたり』だ。あの簪には、古い持ち主の……まあ、重苦しい残留思念がこびりついていたんだ」

 清水はバツが悪そうに視線を逸らした。

「封印の札が劣化していたのに気づかなかった俺のミスだ。……すまない」

「重苦しい思念、ですか」

 頭の痛みは引いていたが、胸の奥にはまだ、あの時の感情が澱のように残っていた。

 紬はぼんやりと思い出した。あの時聞こえた声。

 あれは決して悪意ではなかった。ただ、あまりにも切実で、泣きたくなるほど一途な愛の言葉。

 愛されすぎて、息ができなくなるほどの。

(あんなに想われていた人は、幸せだったのかな。それとも……)

(でも、あの声は、どう聞いても清水さんの……)

 体を起こそうとすると、お腹の虫が**「グゥ~」**と、シリアスな空気をぶち壊す間の抜けた音を立てた。

「あっ……」

 紬は顔を真っ赤にしてフリーズした。

 清水がぽかんとして、それから肩を震わせて吹き出した。

「くっ、ははは! さすが俺の料理番だ。死にかけでも食欲だけはあるらしい」

「わ、笑わないでください! 霊力使い果たして、お腹ペコペコなんです!」

「……どうやら、完全に回復したようだな」

 清水が呆れたように、けれど心底ホッとしたように口元を緩めた。

 その笑顔を見たら、なんだか無性に安心した。

「何か食え。精をつけないと、また倒れるぞ」

「じゃあ、何か作ります。清水さんの分も」

「病人が動くな。……と言いたいが、俺には料理ができん。コンビニに行くのも面倒だ」

 清水は立ち上がり、紬に手を差し出した。

「手伝ってやる。簡単なものにしろ」

          ◇

 台所に立ち、紬は冷蔵庫の中身を確認した。

 体はまだ少しダルい。こんな時は、消化に良くて、心も体も温まるものがいい。

「**『出汁たっぷり、ふわふわ卵焼き』**と、お粥にしましょう」

「卵焼きか。悪くない」

 紬は卵を三つ、ボウルに割り入れる。

 カツカツ、と小気味良い音。

 そこに、少し多めの「一番出汁」を加えるのがポイントだ。砂糖はひとつまみ、塩少々。

 清水は横で、土鍋に入れた米と水を睨みつけている。

「おい、水加減はこれでいいのか」

「もう少し多く。……あ、火加減は弱めでお願いしますね」

「面倒だな。いっそ俺の火で……」

「ダメです! 台所ごと燃やす気ですか!」

 神様の神通力でお粥を炊く間に、紬は卵焼き器を火にかける。

 ジュワァァ……。

 卵液を流し込むと、食欲をそそる音と香ばしい湯気が立ち上る。

 出汁を含んだ卵は柔らかく、巻くのが難しい。

 だが、紬の手際は鮮やかだ。菜箸を使い、半熟の部分をくるり、くるりと手前に返していく。黄金色の層が重なり、厚みを増していく。

(美味しくなあれ。……心配かけて、ごめんなさい)

 祈りを込めると、いつものように紬の指先から「光の粒子」が溢れ出し、卵に吸い込まれていく。

 今日の光は、いつもより優しく、穏やかな色をしていた。

 横で見ている清水が、眩しそうに目を細める。

「……お前の料理は、魔法だな」

「ただの家庭料理ですよ」

 焼き上がったのは、出汁が溢れ出すジューシーな厚焼き卵だ。

 大根おろしを添えて、食卓へ運ぶ。土鍋のお粥も、ふっくらと炊きあがっている。

「いただきます」

 向かい合って座り、手を合わせる。

 清水は「毒見だ」と言い訳しながら、卵焼きを一切れ口に運んだ。

 ハフッ。

 熱々の卵を噛むと、ジュワッと濃厚な出汁が口いっぱいに広がる。

「……ん」

 清水の目が細められた。黄金色の瞳が、とろりと潤む。

「優しい味だ。……お前の料理は、いつも温かいな」

「清水さんが手伝ってくれたからですよ」

 その言葉に、紬の胸がじんわりと熱くなる。

 二人で並んで、お粥を啜り、卵焼きを食べる。

 ただそれだけのことが、なぜだかとても特別で、愛おしい時間に思えた。

 さっき触れた「狂気じみた愛」とは違う、穏やかで静かな絆が、今の二人にはある。

 食後、縁側でお茶を飲んでいると、清水が懐からあの「青い玉の簪」を取り出した。

「これ、まだあったんですか? 捨てた方が……」

「いや。俺が浄化した。もう変な念は残っていない」

 清水は無造作に紬の手を取り、簪を握らせた。

 ビクリと身構えた紬だが、今度は嫌な動悸はしなかった。

 代わりに、簪からは清浄で、守られているような絶対的な安心感が伝わってくる。まるで、清水の神気がそのまま形になったかのような。

「やるよ。バイトの特別ボーナスだ」

「えっ、でも、こんな高そうな骨董品……」

「魔除けになる。……それに」

 清水はそっぽを向いて、ボソリと言った。

「それをつけていれば、他の男避けにもなるだろうしな」

「……はい?」

「なんでもない! とにかく、やる!」

 耳元をほんのり赤くした清水は、強引に簪を押し付けてきた。

(男避けって……もしかして、マーキング?)

 独占欲の強さは、あの「声」の主と変わらないのかもしれない。紬はおかしくなって、くすりと笑った。

「つけてみろ」

「ええっ、似合いますかね?」

「神が選んだんだ。似合わないわけがない」

 紬はおずおずと、ハーフアップにした黒髪に簪を差し込んだ。

 鏡がないので自分では見えない。硝子玉の重みが、心地よく髪を引く。

「……どう、ですか?」

 振り返ると、清水が息を呑んだようにこちらを見つめていた。

 その金色の瞳が揺れている。

 そこには、今の紬の姿と、かつて愛し、失った誰かの面影が重なっているようだった。

 数百年の時を超えて、贈り物がようやく届いたかのような、切ない眼差し。

 けれど、彼はすぐにいつもの意地悪な笑みを浮かべた。

「……まあ、悪くない。馬子にも衣装だな」

「一言余計ですよ!」

 文句を言いながらも、紬は簪にそっと触れた。

 硝子玉のひんやりとした感触。

 それは、過去から現在へ、形を変えて届いた「約束」のようだった。

 窓の外では、いつの間にか夕立が上がり、濡れた庭の緑が鮮やかに輝いている。

 簪の青が揺れるたび、二人の距離がまた少し、近づいた気がした夏の夕暮れだった。


(第4話 完)

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