第3話∶雨の農協連即売所(レンバイ)と、泣き虫な赤い傘

 六月の鎌倉は、雨が似合う。

 しとしとと降り続く雨は、古都を囲む山々の緑をより一層濃く染め上げ、アスファルトの道さえも濡れた黒曜石のように輝かせている。

 観光客にとっては情緒ある風景かもしれないが、学校帰りの女子高生にとって、長引く梅雨は憂鬱の種でしかなかった。

「うぅ……靴下が濡れて冷たい」

 放課後。古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は、ビニール傘を打ち付ける雨音にため息をつきながら、若宮大路(わかみやおおじ)を歩いていた。

 段葛(だんかずら)の桜並木も、今は濡れそぼった緑の葉を重たげに垂らしている。

 今日のバイト(という名のあやかしの世話)は、買い出しからスタートだ。

 向かう先は、地元民から「レンバイ」の愛称で親しまれている**『鎌倉市農協連即売所』**。

 昭和の雰囲気を色濃く残すこの市場には、毎朝、近隣の農家が育てた新鮮な「鎌倉野菜」が並ぶ。

 観光客向けの小洒落たスーパーも悪くないが、あの舌の肥えた龍神様こと清水(しみず)を満足させるには、大地の力が漲(みなぎ)る地場野菜が不可欠なのだ。

「おい、遅いぞ。人間」

 市場の入り口で、不機嫌そうな低い声がかかった。

 ハッとして顔を上げると、雨に煙る軒下に、一人の青年が立っていた。

 珍しく和装ではなく、黒のパーカーに細身のデニムという現代的な装いの清水だ。銀色の髪を緩く束ね、手には時代劇に出てきそうな渋い番傘(ばんがさ)を持っているのが絶妙なミスマッチだが、彼が持つとそれすら最新のファッションに見えてしまうから悔しい。

「清水さん? どうしてここに」

「お前が遅いからだ。……それに、今日の雨は『重い』」

 清水は曇天を見上げ、目を細めた。

「湿気に混じって、澱(よど)んだ気が溜まっている。一人で歩かせるのは危ないと思ってな」

「えっ、迎えに来てくれたんですか?」

「勘違いするな。餌係に死なれては、俺がひもじい思いをするというだけだ」

 清水はフンと鼻を鳴らし、紬の手から買い物カゴをひったくると、さっさと市場の中へ入っていった。

 その背中を見つめ、紬は少しだけ胸が温かくなった。

(口は悪いけど、やっぱり優しいんだよなぁ)

 ぶっきらぼうな優しさ。それは、紬が知る「誰か」の面影と重なるような気がしたが、それが誰なのかは思い出せない。

 レンバイの中は、雨の日でも活気に満ちていた。

 天井の高い構内には、土と野菜の濃い匂いが立ち込めている。

 木箱の中に並んでいるのは、色とりどりの鎌倉野菜たちだ。

 真っ赤な完熟トマト、瑞々しいキュウリ、紫色の縞模様が美しいゼブラナス、そして鮮やかな黄色いズッキーニ。まるで宝石箱をひっくり返したような鮮やかさに、見ているだけで元気が湧いてくる。

「ふん、悪くない。土地の気がちゃんと宿っている」

「でしょう? おばあちゃんがよく『鎌倉の土は神様が守ってるから野菜が美味しいんだ』って言ってました」

「……ほう、人間にしては殊勝な心がけだ」

 清水は「紅芯(こうしん)大根」を手に取り、真剣な眼差しで品定めをしている。パーカー姿で大根を見つめる龍神様。シュールだが絵になる。

 その時だった。

『……ううっ、ぐすっ……』

『さむいよぉ、つめたいよぉ……』

 市場の喧騒に混じって、か細い泣き声が聞こえた。

 紬はピクリと反応し、周囲を見渡した。

 買い物客のおばさんたちも、店の人も気づいていない。つまり、これは「あっち側」の声だ。

「……清水さん、聞こえました?」

「ああ。だが放っておけ」

 清水は大根をカゴに入れながら、興味なさそうに言った。

「この時期、湿気に当てられた下級のあやかしなど掃いて捨てるほどいる。いちいち構っていたらきりがないぞ」

「でも、すごく悲しそうな声……」

 紬は声のする方へ――市場の裏手、廃棄野菜を入れるコンテナの影へと向かった。

 薄暗い路地の隅。雨樋(あまどい)から滴る水たまりの中に、それはあった。

 泥にまみれた一本の「赤い和傘」だった。

 竹で作られた骨組みの一部が折れ、美しいはずの朱色の油紙が無惨に破れている。誰かに捨てられたのか、それとも忘れられたのか。

『もう、いらないの……? わたし、もう開けないの……?』

 傘から滲み出る、切実な哀しみと孤独。

 それは、かつてあやかしが見えるせいで誰にも理解されず、一人ぼっちだった幼い頃の自分と重なり、紬の胸を強く締め付けた。

 道具に魂が宿ったあやかし、「付喪神(つくもがみ)」だ。

「……かわいそうに。寒かったね」

 紬は躊躇なくしゃがみ込み、泥だらけの傘を抱き上げた。

 冷たい。まるで芯まで凍えているようだ。

「おい、よせ。穢(けが)れをもらうぞ」

 背後から、清水の鋭い声が飛んできた。

「壊れた道具は、負の感情を溜め込みやすい。下手に同調すれば、お前の魂まで引きずられるぞ」

「でも、連れて帰ります」

 紬は譲らなかった。

「このままじゃ、この子、本当にただのゴミになっちゃう。そんなの嫌です」

「……お前は、本当に」

 清水は呆れたように天を仰いだ。だが、それ以上は止めなかった。

 その金色の瞳の奥に、揺らめくような哀愁が過(よ)ぎったのを、紬は見ていなかった。

 ――かつて、戦場で傷ついた兵や、壊れた武具さえも祈りで鎮めた、あの巫女の姿。

 損得を考えず、ただ目の前の悲しみに寄り添おうとするその愚直さが、三百年経っても変わっていないことに、清水は胸が苦しくなるような愛おしさを感じていたのだ。

          ◇

 路地裏の「萬相談所」に戻ると、紬はすぐに台所に立った。

 ずぶ濡れの赤い傘をタオルで丁寧に拭き、土間の上がり框に寝かせる。

 あやかしとはいえ、冷え切って弱っているのは明らかだった。

「身体の中から温まるものがいいよね」

 紬はエプロンの紐を締め直し、レンバイで買ってきた鎌倉野菜をまな板に並べた。

 鮮やかな赤カブ、泥付きの人参、そして立派な根生姜(ねしょうが)。

 メニューは決まった。消化が良く、体を芯から温める薬膳のような一品。

 トントン、トントン。

 リズミカルな包丁の音が、雨音と混じり合い、静かな古民家に響く。

 野菜は皮ごと薄切りにする。皮と実の間にある栄養こそが、大地の恵みそのものだからだ。

 鍋にごま油を熱し、野菜をさっと炒める。香ばしい匂いが立ち上ったところで、カツオと昆布で引いた一番出汁(だし)をたっぷりと注ぐ。

 コトコトと煮込む間に、味付けを決める。

 酒と塩、そして隠し味に少しの白味噌を溶き入れる。味噌の酵素が、弱った体に染み渡るはずだ。

 野菜がくたくたに煮えたら、ミキサーにはかけず、あえて「すり鉢」ですり潰す。手間はかかるが、こうすることで野菜の繊維が適に残り、食べるスープのような満足感が生まれる。

 最後に、すりおろした生姜をたっぷりと加え、吉野葛(くず)でとろみをつける。

 完成したのは、淡い桜色をした**『鎌倉野菜と生姜のすり流し汁』**だ。

「はい、どうぞ。湯気を吸うだけでもいいから」

 紬は熱々のお椀を、赤い傘の前に置いた。

 ふわりと立ち上る湯気。生姜の爽やかな香りと、野菜の甘い香りが混じり合う。

 そこには、紬の「元気になって」「また開いて」という祈りの光が含まれていた。

『……いい匂い。あったかい……』

 傘が微かに震えた。

 温かな湯気が、傘の破れた部分や折れた骨に染み込んでいく。

 すると、不思議なことが起きた。

 パキパキ、メリメリ……。

 折れていた竹骨が自ら接合し、破れた油紙が新しい皮膚のように再生していく。紬の料理に込められた生命エネルギー(霊力)が、あやかしの自己修復力を爆発的に活性化させたのだ。

「すごい……治ってる」

「当然だ。お前の祈りは、本来『修復』と『浄化』の性質を持っている」

 いつの間にか、着物に着替えた清水が背後に立っていた。

 彼は再生した赤い傘を手に取ると、バサリと開いた。

 そこには、傷一つない見事な蛇の目模様が蘇っていた。朱色が鮮やかに輝き、まるで新品のようだ。

『ありがとう、お姉ちゃん! ありがとう、龍神様!』

 傘から、先ほどまでの泣き声とは違う、無邪気な子供の声が響く。

 傘がパタパタと開閉し、喜びを表現している。

『わたし、思い出した! 捨てられたんじゃない、ご主人様が急な雨で慌てて、置き忘れちゃっただけなんだ! きっと今ごろ、探してくれてる!』

「そうか。なら、帰るべき場所はわかるな?」

 清水が穏やかに問うと、傘はコクコクと柄(え)を揺らし、ふわりと浮き上がった。

『うん! お家に帰る! ごちそうさまでした!』

 赤い傘は、紬の周りをくるりと一周して感謝を示してから、雨の上がった路地の向こうへ、嬉しそうに飛んでいった。

 まるで赤い鳥が空へ帰るように。

「……よかった」

 紬がほっと息をつき、エプロンで手を拭った。

 その横顔をじっと見つめていた清水が、静かに言った。

「お前は、誰にでもそうなのか」

「え?」

「相手が神だろうが、捨てられた道具だろうが。見境なく手を差し伸べて、自分の身を削って……。その力がどれほど危険か、わかっているのか」

 清水の声には、怒りに似た苛立ちが含まれていた。

 自分を犠牲にする危うさ。それを看過できない彼の焦りが伝わってくる。

 紬はきょとんとして、それから少し困ったように笑った。

「だって、お腹が空いてたり、寒がってたりしたら、放っておけないじゃないですか。……それに」

「それに?」

「私が何か作ることで、誰かが元気になってくれるなら。それが私の『役目』みたいな気がするんです」

 役目。

 その言葉に、清水は息を呑んだ。

 三百年前。燃え盛る戦火の中で、彼女はそう言って笑ったのだ。

 ――これが、この国を守るための、私の役目ですから。

 そう言い残して、彼女は自らの命を楔(くさび)として、大妖と共に海へ沈んだ。

(……馬鹿者が。もう二度と、その『役目』にお前を縛り付けさせはしない)

 清水は不意に手を伸ばし、紬の頬についた泥汚れを、親指でぬぐった。

 ひんやりとした指先の感触と、至近距離にある彼の黄金色の瞳に、紬の心臓がトクンと跳ねる。

「し、清水さん……?」

「……野菜の泥がついていた。汚い顔だ」

「うっ、余計なお世話です!」

 顔を真っ赤にして抗議する紬に、清水はふっと口角を上げ、いつもの意地悪な笑みを浮かべた。

「今日のまかないは、その生姜の汁だ。俺の分もさっさとよそえ。冷えた体にちょうどいい」

「はいはい、わかってますよ!」

 空には雲の切れ間から、夕日が差し込んでいた。

 濡れた路地裏が黄金色に輝き、穏やかな日常が戻ってくる。

 だが、清水だけは気づいていた。

 雨雲の去った海の方角――由比ヶ浜の沖合から、かつて彼女を殺したあの「黒い気配」が、微かに、しかし確実に近づいてきていることに。

 三百年の時を経て、封印が綻(ほころ)び始めている。

「……そろそろか」

 龍神は独りごちると、台所で鼻歌を歌う守るべき背中に向けて、音もなく決意の視線を投げかけた。

 今度こそ、その笑顔を曇らせはしないと誓って。



(第3話 完)

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