第2話∶鎌倉路地裏、あやかし相談所のまかない事情
翌日の放課後。
古都・鎌倉は、空と海が溶け合ったような、煙る雨に包まれていた。
紫陽花の葉を打つ雨音が、リズムよく石畳に響く。六月の鎌倉は、雨さえも風情(エンターテインメント)の一つに変えてしまう不思議な街だ。
古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は、ビニール傘を差して小町通りの裏手を歩いていた。
制服のブレザーのポケットには、昨日、別れ際に清水から投げ渡された小さな鈴の根付(ねつけ)が入っている。チリ、と微かな音を立てるそれは、強力な魔除けだという。
(……本当に、静かだ)
いつもなら低気圧の日は、頭痛がするほどあやかしたちの呻き声が聞こえるのに。今日は嘘のように世界が清浄だ。雨音と、遠くで響く江ノ電の踏切の音だけが、優しく耳に届く。
つまり、あの腹ペコな神様との契約も、昨日の出来事も、すべて夢幻(ゆめまぼろし)ではないということだ。
苔むした路地の奥。「萬(よろず)相談」の看板を掲げた古民家の引き戸を、恐る恐る開ける。
「お邪魔しまーす……」
「遅い」
カラン、コロン。
乾いた入店ベルの音と同時に、不機嫌極まりない低い声が飛んできた。
薄暗い店内。帳場(ちょうば)の文机に肘をつき、気怠げに煙管(キセル)を吹かしているのは、店主の清水(しみず)だ。
昨日の着流しとは違い、今日は書生のような袴姿。銀色の髪を無造作に後ろで結い、長い脚を持て余している姿は、浮世絵から抜け出してきたかのような妖艶さを放っている。
だが、その端正な顔は、この世の終わりのように不貞腐れていた。
「腹が減った。お前、我を干からびさせる気か」
「学校があったんですってば。それに、いきなり来いって言われても食材が……」
「食材ならそこにある」
清水がキセルの先で指したのは、土間の上がり框(かまち)に置かれた竹ざるだ。
中には泥付きのサツマイモ、艶やかな黒豆、そして立派な栗が山盛りになっている。どれもスーパーで売っているものとは違う、野性味あふれる生命力を感じさせる代物だ。
「……これ、どうしたんですか?」
「裏山の古狸(ふるだぬき)どもが置いていった。場所代代わりの税(みつぎ)だ」
「税って。……まあ、秋の味覚ですね(まだ六月なのに)」
紬はカーディガンを脱ぎ、持参したエプロンをつけると、店の奥にある台所へと向かった。
使い込まれたおくどさん(釜)と、現代的なガスコンロが同居する不思議な空間だ。磨き込まれた黒い柱、ひんやりとしたタイルの感触。
窓の外は雨。湿った空気が、これから作る料理へのインスピレーションを刺激する。
「で、何を作ればいいんですか?」
「甘いものだ。糖分が足りんと神気が練れん」
「ただ動きたくないだけじゃ……」
紬が軽口を叩きながらサツマイモを洗おうとした、その時だった。
バサバサバサッ!
激しい羽音と共に、一羽の白い影が雨の土間に飛び込んできた。
それはずぶ濡れの、純白の鳩だった。
ただし、その首には小さな注連縄(しめなわ)が巻かれ、目つきは妙に据わっている。
『清水様ぁ~! もうやってられませんぞぉ!』
鳩が喋った。しかも、随分と枯れたお爺ちゃん声で。
紬は驚きのあまり、洗っていた芋を取り落としそうになった。
「……鳩?」
「チッ、また愚痴か。八幡(はちまん)の使いが何の用だ」
清水は露骨に嫌な顔をして、紫煙を吐き出した。
鳩は畳の上で器用に翼を畳み(まるで正座するように)、涙声で訴え始めた。
『聞いてくだされ! 最近の観光客ときたら、我ら神使(しんし)をただの「インスタ映え」の道具としか思っておらん!』
鳩――いや、八幡宮の使いである老紳士(?)は、翼を震わせて憤慨している。
『追い回すわ、抱きつこうとするわ、あろうことか激辛スナック菓子を投げるわ……! おかげで胃は荒れるわ、神気は減るわで、若い鳩たちがストライキ寸前なんですじゃ!』
「知らん。お前らのボス(八幡神)になんとかしてもらえ」
『ボスは今、出雲の定例会議に出張中で不在なんです! ああ、もう駄目じゃ……腹が減って力が出ん……ちゃんとした、清浄な穀物が食いたい……』
パタリ。
鳩のお爺ちゃんは、そのまま畳に突っ伏してしまった。白い羽が哀愁を帯びて震えている。
清水は「面倒なことになった」と冷ややかに見下ろしているが、紬は放っておけなかった。
「あの、清水さん。この鳩さん、何か食べさせてあげてもいいですか?」
「……はあ? 俺の飯はどうなる」
「ちゃんと作りますから! 神使様が倒れたままじゃ、お店の評判にも関わるでしょう? それに……」
紬は鳩の背中を見つめた。
「お腹が空いて動けない辛さは、私もよくわかるので」
霊力体質ゆえの慢性的なエネルギー不足。空腹の惨めさは、紬にとって他人事ではない。
清水はフンと鼻を鳴らし、「勝手にしろ」と顔を背けた。その横顔に、ほんの少しだけ罪悪感のようなものが見えたのは気のせいだろうか。
紬は竹ざるのサツマイモと黒豆を手に取った。
胃が荒れていて、神気が足りない。ならば、消化に良くて、栄養価が高くて、どこか懐かしいものがいい。
(美味しくなあれ、元気になあれ……)
紬は無意識にそう念じながら、サツマイモを蒸し始めた。
湯気が上がり、台所に甘く優しい香りが満ちる。雨の匂いと混じり合い、それはどこか郷愁を誘う香りとなった。
裏ごしした芋の自然な甘み。香ばしく炒った黒豆。つなぎには小麦粉ではなく、棚にあったそば粉ときな粉を使う。
砂糖は控えめに、蜂蜜でコクを出す。余計な混ぜ物はしない。素材の力強さを信じる。
ボウルの中で生地を練っている時、紬は奇妙な現象を見た。
自分の指先から、蛍のような淡い光の粒がこぼれ落ち、生地に吸い込まれていくのだ。
キラキラと輝くその粒子は、まるで紬の祈りが形になったかのようだ。
(あ、これだ。昨日、お団子をあげた時と同じ感覚……)
不思議と恐怖はない。むしろ、誰かのために料理をするという行為が、心の奥底にある「何か」と共鳴し、温かい力が湧いてくるようだった。
――私はこの感覚を知っている。
誰かの幸せを願いながら、火を焚き、祈りを込める、この神聖な時間を。遠い昔、大切な人のために毎日こうしていたような、温かな既視感(デジャヴ)。
フライパンでじっくりと焼き上げる。
香ばしいきな粉の香りと、お芋の甘い湯気が、雨の湿気を払い除けるように店内に広がっていく。
「お待たせしました。特製、**『お芋ときな粉の和風ソフトクッキー』**です」
小皿に盛って差し出すと、突っ伏していた鳩がガバッと顔を上げた。
『こ、この芳醇な香りは……!』
鳩は躊躇なくクッキーを啄(つい)ばんだ。
『はふっ、はふっ……! んん~っ!』
瞬間、ボウッ! と鳩の全身が白く発光した。
『う、美味い! 芋の優しい甘みが荒れた胃に染み渡る……! それに何より、この力強さ! 噛みしめるたびに、清浄な気が体内に満ちていくようじゃ!』
「よかった……!」
『ありがとう、娘さん! これなら若い鳩たちも明日からまた観光客に愛想を振りまけるでしょう!』
鳩は残りのクッキーを風呂敷(翼の下から取り出した謎の布)に包むと、何度も紬に頭を下げ、元気よく雨空へ飛び去っていった。
その飛び方は、来た時とは比べ物にならないほど力強かった。
「……へえ」
一部始終を見ていた清水が、感心したような、それでいてどこか複雑な声を漏らした。
彼は文机から立ち上がり、足音もなく台所にやってくると、残っていたクッキーを一つ、長い指でつまみ上げた。
「八幡の使いを料理ひとつで浄化するとはな。……どれ」
サクッ。
清水がクッキーを口にする。
その瞬間、彼の黄金の瞳がわずかに揺れ、すっと細められた。
「……っ」
「ど、どうですか? 神様の口に合うかわかりませんけど」
清水は答えず、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)した。
彼が感じていたのは、味の良さだけではない。
口の中に広がるのは、素朴だが力強い大地の恵み。そして、それを包み込む、温かく、柔らかく、魂を芯から解きほぐすような波動。
それは数百年前に失ったはずの、愛しい巫女の祈りそのものだった。
あの日、燃え盛る炎の中で失った、二度と手に入らないと思っていた温もり。
(変わらんな、お前は。姿形が変わっても、魂の味だけは)
胸の奥からこみ上げる愛おしさと、張り裂けそうな切なさ。それを必死に噛み殺し、清水はツンと顔を背けた。
「……まあ、悪くない。素材の風味が死んでいないのは評価してやる」
「うわ、素直じゃないですね」
「うるさい。契約だ、残りは全部俺が食う」
「えっ、あれはお茶請け用で……」
「俺のために作ったんだろうが! 寄越せ!」
大人気なく皿を抱え込む龍神の姿に、紬は呆れつつも、ふっと笑みをこぼした。
初対面の時は怖い神様かと思ったけれど、こうして甘いものに必死になっている姿は、なんだか手のかかる弟みたいだ。
でも、その横顔がどこか寂しげに見えるのは、なぜだろう。
「はいはい。お茶、淹れますね」
湯を沸かす紬の背中を見つめながら、清水の瞳が、雨音に紛れて鋭く光った。
その眼差しには、先ほどまでのコミカルな色はなく、鋭い守護者としての色が宿っていた。
(……だが、この力は諸刃の剣だ)
彼女の料理は、あやかしにとって極上の「霊薬」となる。
八幡の鳩程度なら良いが、もっと悪質なモノたちがこの匂いを嗅ぎつければ、どうなるか。
かつて、その強すぎる力のせいで、彼女は多くのあやかしに狙われ、そして命を落としたのだ。
――もう二度と、あんな思いはさせない。
清水は拳を強く握りしめた。
たとえ彼女が俺を覚えていなくても。この魂がここにある限り、俺は俺のやり方で彼女を守る。それが、生き残った龍の責務であり、呪いのような愛なのだから。
「……今度こそ、守り抜いてみせる」
「え? 何か言いました?」
お湯の沸く音で聞き取れなかった紬が振り返る。
清水は慌てて表情を取り繕い、不機嫌そうに声を荒らげた。
「なんでもない! 茶が渋いぞ!」
「まだ淹れてませんってば!」
雨上がりの鎌倉。
紫陽花の色が深まる夕暮れ時。
路地裏の古道具屋の奥からは、香ばしいお菓子の匂いと、ちぐはぐな二人の賑やかな声が、いつまでも響いていた。
(第2話 完)
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