鎌倉あやかし事変 ~転生巫女は、腹ペコ龍神様の専属料理番になりました~
小乃 夜
第1章∶夏景色
第1話∶あじさいと団子と、行き倒れの神様
六月の鎌倉は、水底(みなそこ)に沈んだような匂いがする。
海から運ばれる湿った潮風と、古寺の苔、そして咲き乱れる紫陽花の甘い香りが混じり合い、街全体をぼんやりとした膜で包み込んでいるようだ。
ガタン、ゴトン。
緑色の車体が特徴的な江ノ電が、民家の軒先をかすめるように走っていく。
窓越しに広がる由比ヶ浜の海は、梅雨空を映して鈍色(にびいろ)に沈んでいる。けれど、線路沿いには雨露に濡れた紫陽花が、青や紫の鮮やかな手毬を揺らし、そこだけ発光しているかのように美しかった。
「……はぁ、お腹すいた」
古都宮(ことみや)紬(つむぎ)は、窓ガラスに額を押し付け、小さくため息をついた。
鎌倉市内の高校に通う十七歳。緩く巻いた黒髪をポニーテールに結い、制服の上に少し大きめのベージュのカーディガンを羽織っている。
傍から見れば、アンニュイに雨を眺めるごく普通の女子高生だ。
ただ一つ、他人と決定的に違うことがあるとすれば――。
『腹減った……』
『うまそうな匂い……』
『こっちを向けぇ……肉をくれぇ……』
ノイズ混じりのラジオのような声が、脳内に直接響いてくることだろうか。
車内の乗客は誰も気づいていない。スマホをいじるサラリーマンも、楽しそうにガイドブックを見るカップルも。
けれど、紬の耳にはハッキリと聞こえていた。窓の外、紫陽花の茂みの影や、古井戸の底からこちらを覗く、人ではないモノたちの声が。
(今日は一段と騒がしいなぁ。低気圧のせいかな)
紬は手元のスマホを操作し、イヤホンの音量を二つ上げた。流れてくるのは、最近ハマっているロックバンドの激しいナンバーだ。ドラムのビートで、粘着質な声をかき消す。
物心ついた時から、紬には「あやかし」が見えた。祖母は「先祖返りだ」と笑っていたけれど、紬にとっては迷惑極まりない体質でしかない。
彼らは常に飢えていて、霊力の強い人間――つまり紬のような存在を、極上の餌として狙っているからだ。
だから、十七歳の女子高生にとって、最大の防御策は「無視」に限る。
(私には聞こえない。見えない。ただの幻覚、ただの疲れ目)
自分に言い聞かせながら、紬はカバンの紐を強く握りしめた。
鎌倉駅で電車を降りると、そこは修学旅行生と外国人観光客の熱気で溢れかえっていた。
小町通りの入り口にある赤い鳥居の下では、人力車の車夫が威勢よく客引きをしている。
人混みは苦手だが、あやかしたちは人の多い場所を嫌う。そういう意味では、この喧騒こそが紬にとっての安全地帯だった。
「……あ、お団子」
ふと、甘く香ばしい醤油の匂いに足が止まった。
参道沿いの和菓子屋の店先で、艶やかなタレを纏ったみたらし団子が売られている。
ぐうぅ、とお腹の虫が鳴いた。そういえば、霊感体質のせいで無意識にバリアを張っているせいか、紬はいつもエネルギー切れを起こしていた。
「おばちゃん、これ一パックください」
「はいよ、焼きたてだから美味しいわよ」
温かいパックを受け取ると、指先からじんわりとした熱が伝わってくる。
その温もりに少しだけホッとして、紬は雑踏を抜けようとした。
その時だ。
『……みぃつけた』
背筋に、氷柱(つらら)を突き立てられたような寒気が走った。
電車の中の声とは違う。もっと濃く、底知れない悪意を含んだ粘着質な気配。
振り返るな。目が合えば終わる。
本能が警鐘を鳴らす。紬は雑踏をかき分け、逃げるように足を速めた。
表通りの賑わいを避け、一本細い路地へと滑り込む。
気付けば、知らない場所にいた。
観光客の賑やかな声は嘘のように遠のき、周囲は深い静寂に包まれている。
湿った石畳。苔むした黒い板塀。忘れ去られたような古い井戸。
鎌倉には時折、こういう時空が歪んだような「エアポケット」が存在する。
(どこ、ここ……? 私、いつもの帰り道を通ったはずなのに)
心臓が早鐘を打つ。背後の気配は消えていない。
引き返そうとした紬の目の前に、鬱蒼とした蔦(つた)に覆われた一軒の日本家屋が現れた。
門構えは立派だが、瓦にはペンペン草が生え、軒先には風雨にさらされた木の看板が揺れている。
『萬(よろず)相談所』――掠れた墨で、そう書かれていた。
そして、その開け放たれた入り口の奥から、とてつもなく「綺麗な気配」が流れてきていた。
まるで山奥の源流のそばに立った時のような、清浄で冷たい空気。
(ここなら、あいつらも入って来られないかも)
吸い寄せられるように、紬は色褪せた紫色の暖簾(のれん)をくぐった。
「すみませーん……?」
一歩足を踏み入れると、外の湿気が嘘のように空気が澄んでいた。
店内は薄暗く、線香と古紙の匂いがした。
天井まで届く棚には、年代物の茶器や掛け軸、用途不明の骨董品が乱雑に詰め込まれている。壁には錆びた刀や、狐の面が無造作に掛けられていた。
骨董屋だろうか。それともゴミ屋敷だろうか。
戸惑いながら視線を巡らせた紬は、部屋の中央で息を呑んだ。
畳の上に、「それ」は落ちていた。
「……」
死体、かと思った。
藍色の着流しをだらしなく広げ、大の字で倒れている青年。
長い手足。色素の薄い銀色の髪は、畳に広がる月光のようだ。閉じた瞼と長い睫毛は、作り物めいて美しい。
だが、その端正な顔は土気色で、頬はこけ、今にも魂が抜け出そうとしていた。
「あのっ、大丈夫ですか!? 救急車呼びますか!?」
事件かと思い、紬が慌てて駆け寄ると、青年がピクリと反応した。
薄く開かれた双眸。その色は、薄暗い室内でも自ら発光するような、鮮烈な「金色」だった。
人間離れしたその瞳と目が合った瞬間、紬は動けなくなった。
「……腹が、減った」
「は?」
「三百年ぶりの顕現で……燃費が悪すぎる……。力が、保たぬ……」
「えっと、お腹が空いてるんですか?」
「供物を……我に、供物をよこせ……」
青年のか細い指が、震えながら紬の手元に向けられた。正確には、紬が握りしめているコンビニ袋の中の「みたらし団子」のパックに。
神々しい見た目と、あまりに俗っぽい要求のギャップに、紬は呆気にとられた。
「これでいいなら、あげますけど……」
紬はパックを開けた。甘辛い醤油の香りがふわりと漂う。
串を手に取り、青年の口元へ差し出そうとした、その瞬間だった。
――トクン。
紬の心臓が跳ねた。
無意識のうちに、自分の指先から蛍のような淡い「光の粒」がこぼれ落ち、団子に吸い込まれていくのが見えたのだ。
黄金色のタレが、内側から輝きを増したように見える。
(え? 今の光……なに?)
だが、青年はそれに気づかず、瀕死の獣のような動きで団子に食らいついた。
はぐっ。もぐもぐ。
「……!」
青年の金色の瞳が、カッと見開かれた。
「なんだ、これは」
ごくり、と喉を鳴らし、彼は震える声で呟いた。
「ただの餅と砂糖醤油ではない……。噛み締めるたびに、温かな光が五臓六腑に染み渡る。穢れなき祈り、純粋な活力……。これは、極上の『神饌(しんせん)』か!?」
「いえ、駅前の和菓子屋さんの団子ですけど」
青年は聞く耳を持たず、残りの二本も奪い取るようにして瞬く間に平らげた。
一本食べるごとに、土気色だった彼の肌は透き通るような白さを取り戻し、体からは淡い青色の燐光さえ漏れ出している。
彼はむくりと上半身を起こすと、指についたタレを舐めとり、不敵な笑みを浮かべて紬を見上げた。
「礼を言うぞ、人の子よ。我が名は清水(しみず)。……このあたりのあやかしからは『青龍(せいりゅう)』と呼ばれている」
「青龍さん、ですか(四神の? 中二病かな?)」
「おい、心の声がダダ漏れだぞ」
清水と名乗った男は、畳の上であぐらをかき、尊大な態度で腕を組んだ。
「我は鎌倉の地を守護する水神だ。久々に起きたら力が枯渇していてな。お前の施しがなければ、危うく干物になるところだった」
「はあ。神様なら、食い逃げしないでくださいよ」
「金などない。あるのは神徳だけだ」
堂々たる開き直りだ。顔が良いだけに、その残念さが際立っている。
紬が文句を言おうと口を開いた、その時。
バリンッ!!
入り口のガラス戸が、粉々に砕け散った。
「――ひっ!?」
飛び込んできたのは、先ほど街中で感じたあの粘着質な気配だ。
黒い泥のような塊が、ヘドロの臭いを撒き散らしながら、ズルリと店内へ侵入してくる。
『みぃつけたぁ……』
『うまそうな霊力……その女、よこせぇ……』
それは明確な悪意を持って、紬だけを見据えていた。
腰が抜けて動けない。黒い泥が鎌首をもたげ、鋭い牙を剥いて襲いかかる。
(あ、死ぬ――)
視界が暗転する。
その刹那、恐怖の向こう側で、紬の脳裏に「知らない記憶」がフラッシュバックした。
『――我が君!』
燃え盛る炎。血の匂い。
そして、視界いっぱいに広がる、美しい青い鱗(うろこ)。
誰かが私を呼んでいる。いや、私が誰かを呼んでいるのか。
胸が張り裂けそうなほどの愛おしさと、絶望。
あの日、私は守られて死んだのではない。私が死んだから、彼は泣いていたのだ――。
「――ボサッとするな、馬鹿者ッ!」
凛とした怒声が、現実に紬を引き戻した。
ドンッ、という衝撃音と共に、迫りくる黒い泥が弾き飛ばされる。
目を開けると、紬の前には清水が立っていた。
彼の右腕には水流が龍のように渦巻き、圧倒的な圧力で敵を威圧している。先ほどまでの死にかけの姿とは別人のような、神々しい背中。
「人の庭(シマ)で好き勝手しおって。……ここはあやかしの相談所だが、貴様のような『穢れ』はお断りだ」
清水が指先を軽く振るう。
それだけで、渦巻く水流が刃となって黒い泥を切り裂いた。
『ギャアアアアッ!』
断末魔と共に、泥は霧散し、跡形もなく消滅した。
圧倒的な力。神業と呼ぶにふさわしい光景だった。
「……おい、生きてるか?」
清水が振り返る。
その瞳は、爬虫類のように縦に割れていたが、すぐに人間の丸い瞳に戻った。
紬はへたり込んだまま、震える声で尋ねた。
「今のは……」
「低級の怨霊だ。お前の垂れ流している霊力に惹かれて寄ってきたんだろ」
清水は呆れたように言い、そして探るような目で紬の顔を覗き込んだ。
「それにしても……お前、その力、無自覚か?」
「力?」
「さっきの団子だ。あれには、ただの食材とは思えないほどの霊力が込められていた。お前が触れたことで、供物としての格が跳ね上がったんだ」
彼は真剣な眼差しで、紬の手を取った。
ひやりと冷たい、けれど大きな手。
記憶の中にある「青い鱗」の感触と、その冷たさが重なる気がした。
「古都宮、紬と言ったな」
「……名前、まだ言ってませんけど」
「神だからな、それくらいわかる。……いいか紬、単刀直入に言うぞ」
彼はニヤリと、意地悪そうで、けれどどこか切実な笑みを浮かべた。
「俺と契約しろ」
「け、契約?」
「見ての通り、俺は腹が減る。だが現代の飯はうまいが、俺の神気を満たすものは少ない。……お前が俺の専属料理番になれ。そうすれば、その身に群がる有象無象のあやかしから、俺が守ってやる」
それは、究極のギブアンドテイク。
拒否権はないように思えた。
何より、彼の瞳に見つめられた瞬間、胸の奥で懐かしい痛みが疼いたのだ。
まるで、ずっと昔から、こうなることが決まっていたかのように。
「……わかりました。でも、条件があります」
「なんだ?」
「食い逃げはなしです。材料費とバイト代、きっちり出世払いでお願いしますね、神様」
紬の精一杯の強がりに、清水は目を丸くし、それから喉を鳴らして笑った。
「いいだろう。安いもんだ」
雨音だけが響く、鎌倉の片隅。
紫陽花の咲く路地裏で、転生巫女と腹ペコ龍神の、奇妙な契約が結ばれたのだった。
(第1話 完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます